2010/ 4/ 2 18:30 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション 2010/04/03 16:00 埼玉:彩の国さいたま芸術劇場・音楽ホール
出演メンバー *PDF版はこちらからどうぞ! |
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ソプラノ・イン・リピエーノ (第1、29曲) マリアネン・ベアーテ・キーラント&青木洋也(アルト) 中田恵子(オルガン)[4/2のみ] |
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第1グループ | 第2グループ | |||||||||||||||
コーラス
オーケストラ
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コーラス
オーケストラ
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ファゴット 村上由紀子 ヴィオラ・ダ・ガンバ 福沢 宏 指揮 鈴木雅明 |
BACH Collegium JAPAN
第88回定期演奏会《マタイ受難曲》 巻頭言
皆様、ようこそおいで下さいました。
今年もまたマタイ受難曲から新年度が始まります。作曲者であるJ.S.バッハ自身ですら、生前数回しか演奏しなかったことを思うと、私たちは何と幸運であろうか、と思います。何度演奏しても、私たちの作品理解がバッハに近づくことは決してないでしょうが、毎回、作曲者の深い思いと表現の多様さに、新たな目が開かれ、驚くばかりです。
今日残されているマタイ受難曲の主な資料は、J.S.バッハが1736年に演奏したときのものです。その時作成されたパート譜を見ると、エヴァンゲリストの伴奏をする通奏低音は、そのほとんどが単純な和音を与える4分音符でできていることがわかります。が、その中で、単純な和音の役割を超えて、より大きな意味を表そうとした小節がわずかに数カ所見られます。
まず、イエスが最後の晩餐で聖餐式を制定されたあと、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリブ山にでかけた」(第14曲第2小節)ところです。通奏低音のパートが、エヴァンゲリストのパートを先取りするように、音階によって山に登るのです。言葉の意味を音型で表した典型的な例で、この場合はアナバシスと呼ばれる上行音型です。
次に、そのオリブ山の麓にあったゲッセマネの園での祈りの場面。「イエスは、悲しみおののき始められた。」(第18曲第9小節)ここは、わずかふたつの8分音符が動くだけではありますが、ナポリの6と呼ばれる特別な和音によって、とても印象的な響きをもたらします。続いて、同じ祈りの場面である第21曲第2小節では、「地にひれ伏して、祈られた」という言葉に対応して、付点4分音符と16分音符の特別に引き延ばされた音型が表れます。
第2部に入ると、第40曲でペテロの慟哭と悔悛が歌われたあと、第41曲冒頭、祭司長と長老は、イエスを「殺す」手筈を整えるために集まります。このとき「殺す」toeteten(過去形)という言葉が出た瞬間、コンティヌオが、もういちどtoe-te-tenとtttという子音を16分音符で、あたかも釘を打ち付けるかのように繰り返すのです。さらに兵卒たちの侮蔑を経て、イエスがいよいよ十字架につけられるために引き渡されたとき(第55曲第5小節)、「十字架につける」kreuzigten(過去形)という言葉には、また特別な音型が充てられました。この小節の前半では、2組の8分音符が、異様な和音と減2度の進行を伴って「ぶら下がり」、さらに後半で通奏低音が「十字架音型」を奏でるのです。全く和声的な意味のないオクターヴの跳躍は、ただただ、この十字架の形を示すために用いられています。
その後、全曲のクライマックスとも言うべき十字架上のイエスが発する最後の言葉。アラム語で叫ばれた「エリ、エリ、ラマ、アザプタニ」という言葉をドイツ語に訳してエヴァンゲリストが歌う「わが神、わが神、何故わたしを見捨てられたのですか」(第61曲第10小節)では、通奏低音パートが例外的に全音符のままに保たれ、弦楽アンサンブルの冠を伴わない唯一のイエスの言葉「エリ、エリ・・」に対応しています。
さて、ここまでの6ヵ所を見てみると、前半の3ヵ所で、「オリブ山に登り」「悲しみおののき」「祈る」イエスの姿にスポットライトがあたり、後半では「殺し(の計画)」によって「十字架につけられ」、「わが神、わが神、なぜ・・」と叫ぶ、イエスの人間としての最期の姿が象徴的に浮かび上がってきます。
しかし、この通奏低音の視点は、イエスの息絶えた直後、もっとも驚くべき場面に私たちを導きます。そうです、「そして見よ、神殿の幕が真っ二つに裂けた」(第63曲)というところです。エルサレム神殿の奥には、至聖所と呼ばれる祭司のみが出入りを許された聖なる場所があり、その前には、俗なる世界との間を分かつ垂れ幕がありました。イエスが十字架上で息絶えた時、その幕が真っ二つに裂け、地面は揺れ動いて岩が砕け、墓が開いて多くの聖なる者の体が甦った、というのです。通奏低音はこの時、突如堰を切ったように32分音符で駆け巡り、エヴァンゲリストの「上から下へ」という言葉と共に、一気に、冥府の底、最低音Cに叩きつけられます。すると、そこから一段ずつ激しい連打と共に半音階が昇り始め、ついに上のCに至る13の階段が出現するではありませんか。Cに至る13の階段とは、第1曲冒頭の同音反復の通奏低音の中に、ひときわ顕著にそそり立つ天に向かうはしごに他なりません(第1曲第6,23,39小節)。このはしごはEからCへ、すなわち罪にまみれた「地」ErdeのEから「十字架」Creuz(18世紀のスペリング)上のキリストChristusを見上げるはしごでしたが、ここでは、おぞましい冥府からの復活を果たすキリストChristusの道筋を表すはしごと言っていいでしょう。多くの聖人の復活が語られているからです。
このはしごに導かれるようにして、百人隊長が証言します。「まことに、この人は神の子であった。」この証言は、たったひとりのことばであったはずなのに、バッハはこのひとことを歌わせるのに、全オーケストラと合唱を用います。この場面の真理の大きさは、とてもひとりのせりふとして片付けることができなかったに違いありません。
J.S.バッハの通奏低音には、万感の思いが込められています。その控えめな変化を追うだけでも、ここに私たちの罪の身代わりとなってくださった「人間としてのイエス」の死が浮かび上がってきました。しかし、その十字架が単にひとりの罪人の処刑だったのではなく、私たちすべての「罪の死」となったのは、百人隊長の証言の通り、彼がまさしく「神の子」であったからです。ここで百人隊長が見たものは、単に十字架の処刑だけではない、また地が震え岩が砕けて、聖人が復活したこと、だけでもない。むしろ、これから起こるべきキリストの復活と昇天ということによって出現するはずの、罪の地平を貫いて冥府から天へと向かう壮大な十字架であったのでしょう。
この十字架は、私たちに平和をもたらすためのものでした。ひとりひとりが罪なる自分を十字架につけ、神との平和に入ること、これこそが、この世に真の平和をもたらす唯一の道に違いありません。
今年もまた、J.S.バッハが赤インクまでを用いて、一筆ごとに思いを込めて清書したマタイ受難曲を通じ、私たちの主イエス・キリストが辿られた十字架の道行きに思いをはせ、そこに示された大いなる愛によって、主の平和の一端に与りたいと願っています。
「見よ、義しき人が死に行く様を。 神に従ったあの人は失われたが、だれひとり心にかけなかった。 しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は、横たわって憩う。」 (イザヤ書第57章第1〜2節)[1] |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
[1] | この聖書箇所は、J.S.バッハの当時、聖金曜日の礼拝において受難曲演奏の直後に歌われたJakobs Gallusのモテット「見よ、義しき人が死に行く様を」Ecce quomodo moriturの基となった。 |
(10/03/31更新、資料提供:BCJ事務局)
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