第89回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.57
   〜ライプツィヒ時代1727〜1729年のカンタータ- I 〜  


2010/ 7/ 2  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2010/ 6/26 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第210回神戸松蔭チャペルコンサート)
   2010/ 7/ 1 18:30 青山学院大学・ガウチャー記念礼拝堂
         (青山スタンダード「キリスト教理解関連科目」特別講座:BCJレクチャーコンサート)
          曲目:J.S.バッハ/カンタータBWV34、BWV98、BWV120
          出演:鈴木雅明(講師・指揮)、ハナ・ブラシコヴァ(S)、ロビン・ブレイズ(CT)、水越 啓(T)、ペーター.コーイ(B)


オープニング演奏
     J.S.バッハ/プレリュードとフーガ ロ短調 BWV544 (オルガン独奏:今井奈緒子)

J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1727〜1729年のカンタータ 1〕
        《讃美と栄光が至高の善にあれ》 BWV117 
        《神よ、シオンにて、安らかにあなたを讃美し》BWV120 〜休憩〜
        《神がなすのは恵みに満ちた御業》 BWV98
        《おお永遠の炎、おお愛の源よ》 BWV34


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノハナ・ブラシコヴァ*、緋田芳江、藤崎美苗、松井亜希
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、上杉清仁、鈴木 環
  テノール水越 啓石川洋人、谷口洋介、藤井雄介
  バス   :ペーター・コーイ*、浦野智行、藤井大輔、渡辺祐介

オーケストラ
  トランペット:島田俊雄(I)、斎藤秀範(II)、村田綾子(III)
  ティンパニ:ロバート・ハウズ
  フラウト・トラヴェルソ:前田りり子(I)、菊池香苗(II) 
  オーボエ/オーボエ・ダモーレ:三宮正満(I)、前橋ゆかり(ObII)尾崎温子(ターユ、OdaII)
  ヴァイオリン I:若松夏美(コンサートマスター)、竹嶋祐子、山口幸恵
  ヴァイオリンII:高田あずみ、荒木優子、廣海志帆
  ヴィオラ:秋葉美佳、深沢美奈

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美  ヴィオローネ:今野 京  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:土居瑞穂  オルガン:今井奈緒子


第89回定期演奏会 巻頭言 (BWV34、98、117、120) 

 皆様、ようこそお越し下さいました。
 聖霊降臨祭用カンタータ第34番『おお永遠の炎、おお愛の源よ』は、ホーフマン氏の解説にもあるとおり、最近まで、J. S. バッハの最晩年の作品と思われていましたが、最近の歌詞集の発見により、1727年に初演されたことが明らかとなった作品です。「永遠」を表す冒頭のトランペットソロと弦楽器の「炎」、中間楽章の世にも美しいアルトのアリア、そして最終楽章の堂々たる導入と躍動感など、これは私の頭の中で、いつも最も高らかに鳴り響いてきたカンタータなのです。
 聖霊降臨とは、復活されたイエスが弟子たちに「助け主を送る」と約束されていたことの成就であり、復活祭の後50日目にして起こりました。ギリシャ語の「50番目」という単語にちなんで「ペンテコステ」とも呼ばれます。「父なる神」と「子なる神(イエス)」に加えて、「聖霊なる神」が降臨されたことで、キリスト教の三位一体が成就し、初めて「キリスト教会」というものが誕生しました。以来、キリスト教会では、復活祭の七週後の日曜日を、聖霊降臨祭として祝ってきたのです。
 今年2010年は5月23日でした。私の教会は、ルター派ではなくカルヴァンの伝統を汲む日本キリスト改革派ですが、私がオルガン奏楽の当番にあたっていたので、J. S. バッハも好んだルター派の賛美歌「来たれ、聖霊、主なる神」Komm, heiliger Geist, Herre Gott を会衆で歌いました。ルター派の教会暦では、ペンテコステの翌週に「三位一体の祝日」という日を定めていますが、このペンテコステこそ、キリスト教会の誕生日と言っても差し支えありません。
 「聖霊」を表すヘブル語の単語は「風」や「息」も表すそうで、古来「聖霊」と「風」は象徴的に結びあわされてきました。イエスは、彼のもとを訪ねてきたニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれたものも、皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)と言われました。また、弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われて、息を吹きかけられたこともありました(ヨハネ20:22)。同じく聖霊降臨のためのカンタータ第172番第4曲アリアでも、テノールが「おお魂の楽園よ、そこには、神の霊が吹き渡る」と歌い、弦楽器のユニゾンが吹き渡る風を表現しています。
 しかし、新約聖書の「使徒言行録」第2章を見ると(聖書日課のページP.27参照)、聖霊降臨のできごとは、このような穏やかなものではなかったことがわかります。弟子たちが祈っていると、突然激しい風の音と共に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ひとりひとりの上にとどまった」(使徒言行録2:3)というのです。言うまでもなく、激しい「風」と「炎」は、常に神の臨在とともにありました。モーセは、炎の中の主の御使いと出会い(出エジプト3:2)、シナイ山では全山が火と煙に包まれ(出エジプト19:18)、エゼキエルは、激しい風と火の中に、幻を見ました(エゼキエル1:4)。また、神が我らを助けられるときは、突然の大音響と共に焼き尽くす炎がおこるのです(イザヤ29:6)。ですから、ここに神が「聖霊」を送られるとき、激しい風が吹き、炎が燃え上がっても、何も不思議はありません。
 しかし、使徒言行録が告げる聖霊降臨の不思議さは、それが炎ではなく「炎のような舌」で、しかもそれが「ひとりひとり」の上に留まり、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した」ということです。これは、一体なにを表しているのでしょうか。
 そのとき、エルサレムでは五旬節というユダヤ教の大きな祝日でしたから、あらゆる国々からユダヤ人達が帰ってきていたのです。メソポタミヤ、カパドキヤ、アジア、フリギヤ、エジプトなどなど、あらゆる国から人が集まっていたところで、ユダヤのガリラヤ弁しか話せないはずのイエスの弟子たちが、一斉に彼らの言葉を話し出した……。彼らは、「これはどういうことだ」と驚き、戸惑った、と書かれています。
 私たちが、それぞれの国の言葉に散らされたのは、明らかに人の傲慢の故でした。バベルの塔のお話をよくご存じだと思いますが、天にまで届く塔を建てようとした人々は、世界に散らされたのです(創世記11:1〜9)。しかし、バラバラになった各国の言葉を、今弟子たちが話し出したことで、これは、使徒言行録と同じ著者であるルカが、その福音書の最後に書いたイエスの言葉を思い起こさずにはいられません。
 
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあながたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ45〜49) 
 
  「父が約束されたもの」とは、この聖霊のことです。この聖霊を受けて、「あらゆる国の人々に(悔い改めを)のべ伝える」、まさにそのことの「しるし」(予徴)として、今弟子たちはあらゆる国の言葉で語り始めたのでした。弟子たちがその後、実際に各地に赴いて伝道を始めたことは言うまでもありません。
 ところで、カンタータ34番に戻りましょう。このカンタータでは、このような世界伝道について具体的に語られるわけではなく、むしろ、この日朗読されるヨハネによる福音書第14章23節が重要な意味を与えます。つまり、イエスは「父なる神と私」が、愛するもののところへ来て「住む」と言われるのです。本来、嵐のような大音声や炎とともに臨在されるべき神が、私のところへ来て「住む」。こんなに突拍子もない話があるでしょうか。しかし、それこそが「聖霊が降りてこられた」ことなのであり、炎のような舌が「ひとりひとりの上にとどまった」と言われているゆえんです。「舌」とは、もちろん言葉を語るためのもの。ですから、私たちひとりひとりが、自らのうちに聖霊を受け入れ、おのが心の御前に掲げた「真理の御言葉」(第34番第2曲レチタティーフ)を「舌」によって語ること。これが、聖霊降臨によって私たちに与えられた召命にほかなりません。たとえ拙くとも、今日、このカンタータが私たちの「舌」によって歌われ、そのことによって、父と子と聖霊の栄光が輝きますように。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(10/06/26)


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