第90回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.58
   〜ライプツィヒ1727〜29年- II 〜  


2010/09/15  19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2010/09/11 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第211回神戸松蔭チャペルコンサート)


オープニング演奏:J.C.フォーグラー《イエスの苦しみ、痛みと死》(Org:今井奈緒子)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1727-29年のカンタータ 2〕            
            《わが片足すでに墓穴に入りぬ》 BWV 156
             《見よ、われらエルサレムにのぼる》 BWV 159  〜休憩〜
             《われはわが確き望みを》 BWV 188
             《神よ、汝の誉れはその御名のごとく》 BWV 171


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノレイチェル・ニコルズ*、緋田芳江、藤崎 美苗
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク*、水越 啓、谷口 洋介
  バス   :ペーター・コーイ*、浦野智行、藤井大輔

オーケストラ
  トランペット:[東京] ギィ・フェルベ(I)、斉藤秀範(II)、村田綾子(III)
           [神戸] 斉藤秀範(I)、村田綾子(II)、狩野 藍美(III)
  ティンパニ:近藤高顯
  オーボエI/オーボエ・ダモーレI:三宮正満、オーボエII:森 綾香、ターユ:尾崎温子
  ヴァイオリン I :若松夏美(コンサートマスター)、山内彩香、山口幸恵
  ヴァイオリン II:高田あずみ、秋葉美佳、荒木優子
  ヴィオラ:森田芳子、成田 寛
  オルガン・オブリガート:鈴木優人

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美  ヴィオローネ:今野 京  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:鈴木優人/鈴木雅明  オルガン:今井奈緒子

(10/09/10、UP)


目の眩む協奏、躍動するカンタータの愉悦

今回と2月の定期演奏会では、1729年前後の傑作たち、即ち《マタイ受難曲》の作詞者ヘンリーツィの台本に基づく「ピカンダー年巻」のカンタータを紹介して参ります。そこではしばしば大規模な冒頭シンフォニアが置かれ、バッハの作風の大きな変化とともに、やがて音楽監督となるコレギウム・ムジクムとの接近も想わせます。礼拝曲にあって、時に純器楽曲を凌ぐ音の輝きとスリル感は私たちを驚かせますが、このようなコンチェルト楽章との出会いもカンタータのたまらない魅力の一つであるに違いありません。中でもBWV188《われはわが確き望みを》は、協奏曲BWV1052の音楽がオルガンとともに鳴り響き、その存在感は、もはや単なる前奏という機能をも超越して聴く者を圧倒します(今回は、'07年に発表されたヴェルナー・ブライク氏のシンフォニア復元稿をお聴き頂きます)。BWV156はオーボエ・ソロの甘美なシンフォニアで有名ですが、伴奏パートをみると、続くアリアの「墓に向かう人生の歩み」のモティーフを弦楽器が先取りしており、その美しさがバッハの「死」に対するまなざしに裏打ちされたものであることが分かります。「歩み」のモティーフは、“小受難曲”ともいうべきBWV159の導入アリオーソにも現れ、聴き手は突如イエスの受難告知の場面に遭遇します。最後を飾る「すべては成し遂げられた Es ist vollbracht」のバス独唱は、バッハの全創作でも一、二を争う名アリアといっても過言ではないでしょう。新年用カンタータBWV171は、本公演唯一の合唱付き作品で、後に《ロ短調ミサ》クレド章の“全能なる父 Patrem”にも転用されました。第4曲ソプラノ・アリアは、11月定期のプログラム《鎮まりしアイオルス》BWV205からのパロディで、大胆なヴァイオリン・オブリガートにも注目です。
今回も、筆を執ってはますます比類ない、バッハの宝石のような“ コンチェルト(教会音楽)”の数々を、どうぞお愉しみください。

(チラシ掲載文)


第90回定期演奏会 巻頭言 (BWV156、159、171、188)  

 皆様、ようこそおいでくださいました。
 今年の8月、ライプツィヒ聖トマス教会のいわゆる“バッハ・オルガン”が10周年を迎え、J. S. バッハ・オルガン全作品のコンサート・シリーズが企画され、その最終回としてクラフィーア練習曲集第3巻『ドイツ・オルガンミサ』を演奏してきました。
 2年ぶりにバッハの町を訪れてみると、あいもかわらず至る所が工事中で、ホテルの窓からは巨大なビルの解体跡しか見えず、マルクト広場に面した有名なレストラン『葡萄の樹』Weinstock は、またもや工事現場の柵でふさがれていました。この殺伐とした光景を過ぎて、聖トマス教会の角を曲がると、小雨にけぶるバッハ像の前で観光客が次々と写真を撮っては足早に去っていきます。この町に来ると、どうしてもバッハに手垢がついてしまったような感覚が否めません。が、そのような中にあって、今年3月のJ. S. バッハの誕生日にオープンしたバッハ・アルヒーフ博物館は、2年間も閉鎖していただけあって、モダンな工夫と遊び心に満ちたなかなか知的な観光スポットになっていたのは、ちょっとした驚きでした。そこでは、バッハの自筆譜の実物を目の当たりにしながら、同じ曲を録音で聴くこともできるようになっていますし、また今は存在しない聖トマス学校寄宿舎の模型によって、バッハ家の生活に思いを馳せることもできます。
 バッハ研究の中心的存在のひとりアンドレアス・グレックナー氏とも出会うことができ、郊外のお宅を訪ねてひさしぶりにゆっくりと語り合うこともできました。彼は、J. S. バッハと同じテューリンゲンの出身で、お父さんがゾンダーハウゼンの牧師だったので、小学生の頃からJ. S. バッハのカンタータを日々歌っていたそうで、すべてのカンタータの隅々までが本当に血の中に染みわたっている、という感じです。彼は長年、聖トマス教会に附属していた聖トマス学校のことについて研究されていますが、年間行事や学生の移動についての研究からJ. S. バッハについての思わぬ発見がある、と強調されていました。特に、学生の名前をひとりひとり調べていくと、少なからぬ学生が入学したときにはソプラノであっても、年度の途中で声変わりしてテノールやバスになっていくので、年度初めは必ずソプラノが優勢で、年度終わりには男声陣が増えている。そのことがJ. S. バッハの大きな悩みのひとつだった、というのです。そして今も、聖トマス聖歌隊の指揮者クリストフ・ビラー氏も同じ悩みを抱えている、とのことです。
 また、聖トマス学校の生徒の大半は卒業後大学に進学し、その多くの人が聖トマス聖歌隊の男声陣として一緒に歌ったので、リフキン氏やパロット氏の唱える「ひとつの声楽パートは一人が歌うことが原則だった」という説には、彼はどうしても賛成できないのです。「その証拠に」と彼は言って、上述のバッハ博物館の中のオリジナル・パート譜の音符の大きさを指摘するのです。特にコラールカンタータの冒頭でソプラノがコラールを歌うとき、パート譜には不必要なほどに大きな音符が書いてあり、それこそが、複数の人が一緒にその楽譜を見たことの証拠ではないか、と仰っていました。(もっともこのことだけでは、パロット氏は納得しないでしょうけれど。)
 さて、バッハ・アルヒーフから外に出ると、目の前が聖トマス教会です。オルガンのリハーサルの合間に、バルコニーをゆっくりと一周してみると、バルコニーの様子はバッハ当時とは大きく異なっているものの、カンタータを演奏しているバッハに少し近づいたような気がしました。
 この聖トマス教会には現在2台の大きなオルガンがあります。西側の大きなバルコニーの奥には、1889年にウィルヘルム・ザウアーによって製作された88ストップ(完成当初は63)のロマンティックなオルガン。そして、北側のバルコニーに、ゲルハルト・ヴェール氏が2000年に製作した18世紀の様式に基づくオルガンがあり、バッハ作品の演奏には、もっぱらこちらが使われています。
 そもそも聖トマス教会でオルガンが用いられた記録は14世紀に遡りますが、その最初のオルガンがどこに設置されたかはわかりません。しかし非常に早い時期に、東側のバルコニーにオルガンが置かれたことは確かです。このバルコニーは今はもう存在しませんが、19世紀の後半まで祭壇と身廊(nave)との間の壁の上部にあったのです。そのオルガンは1630年にハインリヒ・コンペニウスによって大改修され、J. S. バッハの時代にもまだ機能していました。1720年頃ヨハン・シャイベが、そして後にはザハリアス・ヒルデブラントが修理して、1723年のJ. S. バッハのマニフィカト初期稿の4つの挿入曲、そして1736年までのマタイ受難曲の第1曲と29曲のコラールが、このオルガンと共にこのバルコニーで演奏されたと考えられています。しかし、1742年に再びこの受難曲が演奏されたときには、既にこのオルガンは使用不可能になっていました。
 さて、西側バルコニーのオルガンについては、16世紀半ばにエーリアス・ニコラウス・アマーバッハがオルガニストになってから、徐々に充実が図られました。その後ヨハン・ランゲなどのオルガン・ビルダーによって拡充され、ミハエル・プレトリウスの有名な『オルガノグラフィア』(1)には、3段鍵盤25ストップの楽器としてそのディスポジションが掲載されています。その後、クリストフ・ドナートによってさらに拡充され、1700年には35ストップになっていました(2)
 注目すべきは、この楽器にはリュックポジティフ(3)があった、ということです。ザクセン・テューリンゲン地方のオルガンにはリュックポジティフのないことが多いのですが、ミハエル・プレトリウスもはっきりと“Ruckpositiv”と書いていますので、間違いはないでしょう。現在の西側バルコニーは、オーケストラと合唱がザウアーの大オルガンの前に陣取ることのできる広大なスペースがあります。つまり大オルガンはバルコニーの一番奥に位置しています。しかし、バッハの当時は、リュックポジティフがあったため、オルガンはバルコニーの一番前面に位置していたはずで、そうすると、バッハは一体どこでカンタータを演奏したのか、というのが、私たちの共通の疑問です。これについては、以前にもいちど書きました(4)が、クリストフ・ヴォルフは、リュックポジティフの下にもうひとつ低いバルコニーがあって、声楽とコンティヌオはそのバルコニーで演奏した。さらに、オルガン本体の両翼にもバルコニーがあって、南側のバルコニーで弦楽器が、北側のバルコニーで管楽器が演奏した、と説明しています(5)。この説によると、大オルガンのオルガニストとコンティヌオや声楽とは、上段と下段のバルコニーに上下に位置することになり、演奏の際のコンタクトはさぞ難しかったことであろうと思います。
 J. S. バッハ自身のライプツィヒでの職務は「カントール」で、教会音楽全般を司る役目であってオルガニストとは分離されていたので、バッハ本人が礼拝でオルガンを弾くことはほとんどなかったはずです。彼の同僚オルガニストは、1729年までがクリスティアン・グレープナー、そしてその後はヨハン・ゴットリープ・ゲルナーでした。ですから、通常のオルガンのコンティヌオはこれらのオルガニストが弾いたはずですが、今回演奏するBWV 188のように、オルガンのソロが出てくるカンタータでは、J. S. バッハ自身が演奏する場面もあったかもしれません(6)。これらのソロ楽章はしかし、ヴァイオリン作品が原型ですので、他のオルガン作品と比較すると構造的には単純でもっぱら高音の旋律のみが動き回る形式になっており、オルガンのソロを目指したというよりは、アンサンブルの中のひとつの楽器として用いられています。ですから、J. S. バッハが、自ら演奏することと、オルガンの下のバルコニーにいてアンサンブルの全体を掌握することのどちらを重視したかは、甚だ難しいところです。というのも、大オルガンの演奏台にいては決してアンサンブル全体を見渡すことはできないからです。
 この大オルガンの働きとしてさらに重要なことは、このようなソロパートだけではなく、すべてのアリアやレチタティーフも、この大オルガンのコンティヌオによって支えられた、ということです。大オルガンによるコンティヌオがすべてを包み込んだ基礎となり、そのような響きの中で、オルガンソロのパートが華やかなヴァイオリンのように響き渡れば、カンタータにおける本来のバランスが得られるのかもしれません。残念ながら今日ではなかなかこのような機会はありませんが、なんとか想像力をたくましくして、私たちの思いの中でバッハの響きに近づきたいものです。
 聖トマスのオルガンは10周年、BCJは20周年、そして定期演奏会が第90回を迎えました。聴衆の皆様とともに、ひとつひとつの節目を共感しつつ、今後も歩み続けることができれば幸いです。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(10/09/10掲載:資料提供・BCJ事務局)

(1) Michael Preatorius: De Organographia (Syntagma Musicum, Band II, Wolffenbuttel 1619)
(2) 「聖トマス教会のオルガンの歴史」の年表参照。p.5〜6
(3) 演奏台の後ろ(オルガニストの背中側)のバルコニー上に張り出すように設置されたオルガンの部分
(4) 第74回BCJ定期演奏会プログラム巻頭言参照。
(5) Christoph Wolff: Die historischen Orgeln der Thomaskirche (in: Christian Wolff: Die Orgeln der Thomaskirche zu Leipzig, Evangellische Verlagsanstalt, 2005
(6) 同上


*演奏会当日に販売されるプログラムには、この巻頭言に続いて「聖トマス教会のオルガンの歴史」という年表がついています!お楽しみに。


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