第91回定期
  結成20周年記念公演 〜バッハの2大祝祭カンタータ〜  


2010/11/23  15:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2010/11/21 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第213回神戸松蔭チャペルコンサート)


J.S.バッハ/音楽劇 《鳴れ、太鼓よ!響け、トランペットよ》 BWV214
             《破れ、砕け、壊て》 (鎮まりしアイオロス) BWV205


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノジョアン・ラン*、緋田芳江、藤崎 美苗、松井亜希
  アルト  :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、上杉清仁、鈴木 環
  テノールゲルト・テュルク*、石川洋人、谷口 洋介、藤井雄介
  バス   :ドミニク・ヴェルナー*、浦野智行、藤井大輔、渡辺祐介

オーケストラ
  トランペット:斉藤秀範(I)、村田綾子(II)、狩野 藍美(III)
  ティンパニ:ロバート・ハウズ
  ホルン:日高 剛(I)、藤田麻理絵(II)
  フラウト・トラヴェルソ:菅 きよみ(I)、前田 りり子(II)
  オーボエI/オーボエ・ダモーレ:三宮正満、オーボエII:尾崎温子
  ヴァイオリン I :寺神戸 亮(コンサートマスター)、高田あずみ、山口幸恵
  ヴァイオリン II:若松夏美(ヴィオラ・ダモーレ)、荒木優子、竹嶋祐子
  ヴィオラ:成田 寛、渡部安見子
  ヴィオラ・ダ・ガンバ:福沢 宏

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美、武澤秀平  ヴィオローネ:今野 京  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:鈴木優人  オルガン:今井奈緒子

(10/11/21)


第91回定期演奏会 巻頭言 (BWV214、205)  

 バッハを愛する皆様
 本日は、バッハ・コレギウム・ジャパン結成20周年の特別コンサートにようこそおいでくださいました。20年とは果たして長いか短いか。「光陰、矢のごとし」と言われますが、私としては、昨年のことは10年前に感じられ、3年前のことは、もう前世紀のような感覚ですから、まだたった20年?「光陰、亀の如し」の方が共感できるような気がします。
 「この20年を振り返って」という原稿が、ここには最もふさわしいのでしょうが、残念ながら、私はあまり振り返る、ということができません。振り返っても振り返っても、自分に好都合なことしか覚えていないので、あまり反省と言うことがない、楽天的な性格というべきでしょう。ですから、終わった本番の録音を聴く、ということが私には最大の苦痛です。自分のCDも、リリースされてしまった後には、実はあまり聴いたことがないのです。(リリースされる前には、何度も聴きますが。)
 ところが、今回20周年を記念して、BISのロベルト・フォン・バール社長が、カンタータの合唱楽章のコンピレーション(過去の録音を抜粋したもの)を作らないか、と言ってきたので、その選曲のために、今までの録音をたっぷりと聴き直さざるを得ない事態になりました。
 実はこの企画は、私には願ってもないことでした。というのは、私たちはカンタータをおおよそ作曲年代順に分類して演奏してきましたが、どうしても教会暦にあわせることができないので、何とか教会暦に従ったコンピレーションができないか、とずっと思ってきたのです。そこで、このCDでは、カンタータの冒頭合唱を教会暦順に並べ、1年の教会カレンダーをカンタータによって俯瞰できるようにしました。これによって、カンタータや受難曲が、如何に教会生活に根ざしたものであったか、を自分でも実感したいと思ったのです。が、それだけではなく、20周年の記念CDに、単なる寄せ集めのコンピレーションではない重要な意味を与えることができ、ちょっと誇らしい気持ちでもあります。(できあがったCDは、’’A Choral Year with Bach’’と名付けられ、既にリリースされています。(BIS-1951))
 選曲の作業は、思いの外楽しい作業でした。1曲ずつの思い出は、わずかながらCDのブックレットにも書いておきましたが、できあがったCDを聞いてみると、私たちの演奏スタイルが、そう大きく変わっていない、ということに、まず少なからず驚きました。もちろん、音色はさまざまな要因でかなり変化しています。録音のスタイルも変わりましたし、メンバーも、特に合唱は大きく変わりました。しかし、演奏の目指すところはあまり変化していないと言ってよいと思います。
 演奏における非常に現実的な側面を挙げれば、例えば、発音とアーティキュレーションの問題です。これらは、言うまでもなくJ.S.バッハ演奏における第一条件ですが、そのような観点から、復活祭第1主日のためのBWV 4《キリストは、死の呪縛につきたもうた》を聞いてみると、あのときの苦労がまざまざと思い出されます。これは、私たちにとって初めての録音だったので、その時のプロデューサーでもあったロベルト・フォン・バール氏に、ドイツ語の発音を何度も罵倒されながら、合唱団のメンバーは、ほとんど噛みつくような勢いでKやTやPの子音を爆発させ、特にハレルヤHallelujaの最後のシラブルにある[j]という発音は、日本人にはほとんど不可能なので、ハレルージャと発音して、「ようやくドイツ語に聞こえた」などと言われていたのです。が、そのように必死で録音したものも、今聞いてみると極めて普通にしか聞こえません。今は毎回あたりまえのようにしている作業ですし、ずっと速く必要な効果が得られるようになりました。しかしそれは、あの当時必死で言葉に噛みついたことを、メンバーは替わっても共通の意識として伝承しているからだと思います。
 また、対位法的な演奏スタイルは、当初から非常に重要な課題でした。合唱もオーケストラも、鍵盤楽器以外は、自分の演奏するパートには基本的に単旋律しかありません。しかし、自分のパートが、全体の中でどこに位置しているのか、という認識なくしては、決して対位法的な演奏は達成できません。主題なのか、副主題なのか、あるいは単なる飾りの対旋律なのか。しかもそこにコラールの旋律が絡んでくると、コラールとフーガの主題はどちらが重要なのか、という永遠に解決できない命題に直面して、両者は互いに絶えず競い合うことになります。しかしその葛藤こそが音楽に命を与え、歌われる言葉が音楽によって体現されるのです。その好例が、BWV 80《神はわがやぐら》第1曲です。ここでは、3本のオーボエのユニゾンとコンティヌオが、カノンでコラールを演奏し、その合間に挟まれた4声の合唱が、オーケストラとともにフーガを演奏します。この驚くべき構造が、神の「やぐら」を支える骨格なのです。
 このような対位法的な演奏については、最も初期から常に格闘してきました。果たして、現在までに上達してきたかどうかは、わかりません。しかし、格闘することにこそ意味があるので、上達する必要はないのかもしれません。楽々と得られる確信、というものは存在しないでしょうから。
 もうひとつの例は、おそらくコラールカンタータが始まった頃から顕在化してきた、各パート内の同質性homogeneityへの意識です。特にソプラノについては、1724年の約40曲のコラールカンタータを連続して演奏した4年間というもの、ほとんどコラールの単旋律以外には歌うところがなかったので、さぞ退屈であったとは思いますが、そのお陰で驚くほど均質なソプラノパートができあがりました。おそらく、この均質性は、個人主義の強いヨーロッパ人にもアメリカ人にも達成できないような、日本人ならではのものだと思います。このことによって、コラールカンタータの意味がよりよく理解できるようにもなりました。つまり、冒頭合唱で、ソプラノがユニゾンで歌うコラールの客観性と、アリアやレチタティーヴォで歌われる個人的な表現とが美しく際だち、そのことで全体の構造をくっきりと示せるようになったのです。これこそが、コラールカンタータの持っている深い味わいであり、この形式が目指すところだと思います。
 均質を目指しているのは、もちろんソプラノだけではありません。合唱の他のパートはもちろん、弦楽器やコンティヌオのグループにおいても同じです。しばしば録音の際に、コンティヌオ内の楽器のバランスについて議論しますが、これはまさしくオルガンのレジストレーションを決めるときと同じ問題です。すなわち、チェロ、ファゴット、ヴィオローネ、オルガン、チェンバロと言った楽器が、それぞれの曲に応じたバランスで美しく混ざり合ったときこそ、もっとも表現力を発揮します。時に、変化をつけるために楽器の増減をすることもありますが、J.S.バッハの残した資料からは、コンティヌオ内の楽器編成の変化は、決して大きくないことはあきらかです。
 均質性を得ようとする心は、他の奏者との協調へ向かうので、必然的に葛藤を減らし、音楽全体が落ち着いた雰囲気になります。対位法には葛藤が不可欠であり、同時に、葛藤する各声部の中身は、均質で透明な音色が不可欠。というふたつの背反するような特質が、J.S.バッハの音楽の演奏を支える両輪だと言ってもよいでしょう。このことは、例えばBWV 8《愛する御神よ、いつ我は死なん》第1曲を聞いていただければおわかり頂けるでしょう。特に、このCDでは、もとのCDの補遺に入れておいた二長調の稿を採用したので、たとえフルートの奏でるお葬式の鐘が鳴り響いても、神の愛に包まれながら静かに自分の最期を見据える、開き直ったしっとりとした響きが強調される結果になっています。
 このCDでは、上述のBWV 8《愛する御神よ》の響きが、BWV 80《神はわがやぐら》を経て、『教会暦を超えて』という章に導かれるようになっています。このグループには、ロベルト・フォン・バールのたっての願いでBWV 147《心と口と行いと生活をもて》の有名すぎるコラール《イエスは、常にわが喜び》と、私の強い希望でロ短調ミサ曲の最終章《我らに平和を与えたまえ》Dona Nobis Pacemを入れました。これらはどちらもカンタータの冒頭合唱ではありませんが、正しい発音とアーティキュレーションをもって語られる言葉が、対位法的な構造に組み上げられ、それが均質な響きによって、協調と平和へと向かうことが、カンタータの演奏だとすれば、言葉を与えて下さるイエス・キリストへの希求と、平和を願う神への祈りこそ、カンタータ全体を見渡した後の締めくくりにふさわしいに違いありません。
 心の平和とは、私たちが自分たちで得られるものではないのです。ひとりひとりが神に和解を願い、そしてそのことへの感謝がなければ得られることではないと思います。J.S.バッハが、BWV 29《我ら、汝に感謝を捧げん》第1曲をロ短調ミサ曲グロリアのGratiasに引用し、さらに同じ音楽を、最後のDona Nobis Pacemに充てた意味がそこにあるのです。
 さて、私が自分を強いてこの20年を振り返り、CDを通して過去の録音を聴いてみると、昔の多くの出来事が走馬燈のように巡ってきて、実は多くの後悔や反省を感じざるを得ません。しかし、私たちのアンサンブルが20年を生き延び、ひとつひとつの演奏が、まがりなりにも無事に終了してきたことは、まさしく神の業であり、神の奇跡以外のなにものでもありません。そのことに対し、まずは心から神に感謝を捧げ、そして、私たちを支えて下さったお客様への感謝を込めて、今日はお祝いのカンタータをもって、祝杯を挙げたいと思います。どうぞ、皆様もご一緒に!!

Tonet, ihr Pauken! Erschallet, Trompeten!
Klingende Saiten, erfullet die Luft!
Singet itzt Lieder, ihr muntren Poeten,

とどろけ太鼓、高鳴れラッパ
弦はひびき 大気を満たせ
うたえ歌人 心躍る歌を
(BWV 214/1 池田香代子訳)

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(10/11/21掲載:資料提供・BCJ事務局)


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