2011/02/10 19:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
2011/02/05 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第214回神戸松蔭チャペルコンサート)
オープニング演奏:D. ブクステフーデ/プレリュード ト短調 BuxWV 149
J. G. ヴァルター《心より私はあなたを愛す、おお主よ》
LV 95 (Org:鈴木優人)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1727-29年のカンタータ 3〕
《私はいと高き神を心の限りに愛す》 BWV 174
《私が生きるのは、わが心よ、汝が喜びを得るため》
BWV 145
〜休憩〜
《満ち足りた安らぎ、魂の愉しむ悦びよ》 BWV 170
《勝利と歓呼の歌が響く》 BWV 149
指揮/オルガン・オブリガート:鈴木雅明
コーラス(*=独唱[コンチェルティスト])
ソプラノ :ハナ・ブラシコヴァ*、緋田芳江、藤崎 美苗
アルト :ロビン・ブレイズ(CT)*、青木洋也、鈴木 環
テノール:ゲルト・テュルク*、石川洋人、谷口 洋介
バス :ペーター・コーイ*、浦野智行、藤井大輔
オーケストラ
トランペット:ジャン・フランソワ・マドゥフ、ジル・ラパン、ジャン=シャルル・デニス
ティンパニ:ロバート・ハウズ
オーボエ:三宮正満、森 綾香、尾崎温子
ヴァイオリン :寺神戸亮(コンサートマスター)、若松夏美、高田あずみ、荒木優子、廣海史帆、山口幸恵
ヴィオラ:森田芳子、成田 寛、秋葉美佳
〔通奏低音〕
チェロ:鈴木秀美、懸田貴嗣、高橋弘治 ヴィオローネ:櫻井 茂 ファゴット:村上由紀子
チェンバロ:鈴木優人 オルガン:今井奈緒子
(チラシ掲載情報)
光彩放つ、1729年のカンタータ
傑作の宝庫「ピカンダー年巻」においては、積極的なパロディ技法と華やかな協奏楽章が目を引きますが、中でもBWV
174シンフォニアは異彩を放っています。バッハの見事な手腕は、弦楽のみで緻密に編まれた《ブランデンブルク協奏曲》第3番を、狩猟ホルン2、オーボエ3、補強の弦楽パートを加えた15声部(!)もの眩い音楽に変貌させ、「救いをつかむ」壮大な天上の狩の情景を現出させています。指揮者に就任したコレギウム・ムジクムの協力も得られたとはいえ、これほどに大がかりな音楽には、当時の会衆もさぞ度肝を抜かれたことでしょう。華麗な器楽パートはBWV
145でも存分に発揮され、ヴィルトゥオーソなヴァイオリン独奏つき二重唱や、バス・アリアの活発なパスピエのリズムが復活祭の悦びを横溢させます。ミカエル祭のためのBWV
149では、ホルンをトランペットに置換え詩編によって主の凱旋を歌う《狩のカンタータ》のフィナーレ合唱、大変珍しいファゴット・オブリガートによる「聖なる物見」の二重唱も聴きものです。なお本公演は、カンタータ・シリーズ初の試みとして(1月の「管弦楽組曲」公演に引き続き)唇と息の操作のみによる「歴史的奏法」を提唱する“驚異のトランペット”、J-F.マドゥフ氏率いる金管チームとの共演でお届けします。
そして今回もう一つの目玉は、長らく上演をお待たせしていたアルト独唱カンタータBWV 170《満ち足れる安息、嬉しき魂の悦びよ》です。穏やかなパストラーレ導入が「魂の安らぎ」を実感させずにおかない、特別な色彩をもった名作中の名作。ロビン・ブレイズの独唱でお楽しみください。
教会カンタータも残り僅か、今回も、かけがえのないバッハの一時を、どうぞご一緒に。
(チラシ掲載文)
第92回定期演奏会 巻頭言 (BWV145、149、170、174)
皆様、ようこそおいで下さいました。 昨年クリスマスの直前に、スイスのチューリヒを訪れました。ヨーロッパ各地は大雪で混乱していましたが、幸いチューリヒは普段から雪への準備ができていたのか、空港もほとんど混乱はなく、坂道のあちこちに雪は残っていましたが、それほど寒くもない穏やかな気候でした。町の中心から川を渡って坂道を登ると、大聖堂グロス・ミュンスターの裏手にたどり着きます。教会堂はかなり大きな建物ですが、内部は誠に簡素このうえもありません。それもそのはず、ここは「スイス宗教改革の祖」とも言うべきツヴィングリの牙城だったのですから。 フルドリヒ・ツヴィングリ。マルティン・ルターのわずか1年後1484年の生まれですが、遙かに早く、37歳の時カトリックとの戦争中に没してしまいます。後のカルヴァンが、同じスイスでもフランス語圏のジュネーヴを中心に活動したのに対し、ドイツ語圏の中心地ここチューリヒでは、ツヴィングリが宗教改革を推し進めたのです。カトリック教会の免罪符販売に反対したこと、また『聖書のみ』『信仰のみ』という原理を掲げたことなど、ルターとは多くの共通点を持っているのですが、ひとつ大きな違いがありました。それは、礼拝から「音楽を排除した」ことです。 たしかに、壮麗な音楽についての記述はすべて旧約聖書のものであり、新約聖書にはどこにも礼拝音楽を制定するところがありません。初代キリスト教会が讃美歌を歌っていたであろうことはいろいろな箇所から想像できますが、J.S.バッハが自ら「教会音楽の基礎」と書き留めた歴代誌第25章のような記事(1) は、新約聖書にはありません。イエス・キリストが復活された後の新約時代に生きる私たちが、旧約聖書の神殿祭儀ではなく、新約聖書に基づいて礼拝することは当然のことですから、「聖書の命ずることのみを実行しよう」としたツヴィングリにすれば、音楽がそこに登場しないのもやむを得ないと思ったのかも知れません。 そのような神学的な理由に加えて、カトリック教会との関係も無視することはできません。つまり、それまでの教会の伝統をすべて破棄して、新たに礼拝を構築しようとしたとき、カトリック教会における音楽のあり方を踏襲することなく、礼拝の中で音楽を用いる、ということは不可能だったのではないか、とも思います。実際、音楽の才覚に優れ、あらゆる楽器を瞬く間に習得してしまったと言われるツヴィングリは、音楽の力を十分に理解していたはずです。だからこそ、過去何百年にも亘って培われてきたカトリック教会の音楽的伝統に立ち向かうような音楽を、想像ないし創造することができなかったのではないでしょうか。当時は、まだ会衆が礼拝中に歌を歌ったことはない時代なのですから、歌える人は聖歌隊に限られていました。そして、もし聖歌隊が厳かに歌いオルガンが鳴り響いたとするなら、あらゆる聖人画やマリア像を取り払った努力は、全く無に帰してしまうでしょう。 |
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閑話休題。当時の宗教改革側におけるカトリック教会への敵愾心というものが、いったいどれくらい強いものであったか、恐らく安閑とした世界に生きる私たちからは、想像を絶するものであったでしょう。例えば、下に挙げる図を見てください。これは、アメリカのバッハ学者マイケル・マリッセンが論文(2) に引用しているものですが、「ローマ法王の描画」Abbildung des Papsttum(1545)と題された風刺的木版画です。尾籠な図で恐縮ですが、台の上で兵隊がうんちをしているその入れ物は、ローマ法王の王冠であり、その下の楯に彫られた十字架型の鍵印は、ペテロの後継者であるローマ法王がもつべき天国の鍵なのですが、それが「盗人の鍵印」Diebshaken(3) に変えられています。これほどローマ法王を侮辱した絵があるでしょうか。 ところが、マリッセンによれば、これは単なる「侮辱」の例ではなく、「価値の反転」の例だというのです。最も尊敬されるべきキリスト教会最高位のローマ法王の、さらにその頭上に輝くべき王冠が、逆さに置かれ、しかもその中に、もっとも下賤の兵卒が、最も高いところで最も卑しいことをする。そして楯も逆さになり、天国の鍵が盗人の鍵となる。これらは、すべて本来あるべきことの逆さの姿です。 このような「反転世界」の価値観は、ここではローマ法王に向けられていますが、キリスト教の本来の精神の中に深く根付いているものです。すなわち、本来、神は自ら創造された世界をごらんになり、「よし」とされた(創世記1:31)。つまり、この世は本来「よい」ものであったのです。ところが、そこに罪が入り込み、価値が反転したのです。つまり「よい」ものが「悪く」なったので、その罪を救うために、本来「高い」存在である神の子イエスが、「低く」なって、この世に来られた。そのイエスは、屠られるべき小羊であり、その最もか弱い小羊が、最も強いと思われた竜であるサタン、即ち罪と死を滅ぼす。これが聖書の教えです。すなわち、善と悪、高と低、上と下、強と弱の逆転、これこそが、苦しみつつ生きている私たちに対する聖書の「反転」のメッセージに他なりません。 マリッセンの論文の主旨は、実は、このような価値観が、J.S.バッハのカンタータに見事に表れ出ている、というものです。今回演奏するアルトのソロカンタータBWV170の第3曲を見てください。ここに、非常に奇妙な楽器編成が見られます。 オリジナルのスコアは、4段の譜表で書かれています。まず、一番下がヴァイオリン(とヴィオラ)、次にアルト、その上にオルガンの2段の譜表です(制作ノートの図版Dを参照)。こんなおかしな総譜が他にあるでしょうか。本来、通奏低音として最も下にあるべきオルガンが最も上にあり、最も高く書かれるべきヴァイオリンが最も下になり、通奏低音の役目を果たす。音域的にも、明らかにオルガンが最も高く、歌とヴァイオリンは常にずっと低いところに位置しています。 通常の通奏低音を欠いた編成をバセットヒェンと呼ぶことがありますが、この例はカンタータや受難曲の中で意味深く用いられています。最も有名な例は、マタイ受難曲の第49曲ソプラノアリア「ただ愛によりて」Aus Liebeです。ここでは、2本のオーボエ・ダ・カッチャが低音を務め、フルートとソプラノがソロを奏でます。罪にまみれた地上とのしがらみを絶ち、ただ天上からの愛によって、救い主イエスが来られたことを見事に象徴しています。 しかし、このBWV170では、逆に、本来の姿が反転してしまった、最も忌むべき世界の象徴として、この編成が用いられます。アルトはこのように歌います。 |
Wie jammern mich doch die verkehrten Herzen, なんと憐れなことよ、ゆがんだ心は。(cf. エレミヤ8:21)(鈴木意訳) |
「ゆがんだ心」と訳したverkehrteという単語は、「逆さまになった」という意味もあるのです。本来は、神に従順であるはずの「心」、それが罪に落ちて「逆さまになってしまった」とは、何と憐れなことであろうか。まるで、これでは、ローマ法王の王冠と同じではないか、と、このアリアは歌っているように思えます。 ツヴィングリは、音楽を排除することで、カトリック教会の影から逃れようとしました。カルヴァンも、オルガンに対して同じような思いを抱いたに違いありません。しかし、時代が降って音楽の様式と機能が変化し、J.S.バッハに至っては、逆に、様々な象徴的な意味を込めながら、音楽の中でこそ言葉では言い表せない主張が可能になった、とも言えるでしょう。このJ.S.バッハの例では、音楽構造の中に、罪にまみれた「反転世界」Mundus inversusが浮かび上がり、アルトによって歌われるテクストが、私たちの「逆さ」になった心を再び反転させようと迫っているのです。 |
バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明
(11/02/01掲載:資料提供・BCJ事務局)
(1) J.S.バッハが所有していたCalov聖書歴代誌第25章冒頭に、バッハ自身によって『この章こそ、神に喜ばれる音楽の真の基礎である』と書き込まれている。
(2) Michael Marissen “On the musically Theological in J.S.Bach’s Church
Cantatas” (Lutheran Quarterly, Volume XVI (2002))
(3) 錠前を泥棒が開けようとするときに用いる、針金などでできた合鍵のこと。
*「ローマ法王の描画」Abbildung des Papsttum(1545)と題された風刺的木版画のリンクは、こちらのページからの画像です。
BWV170のスコアについては、こちらからダウンロードしてご覧ください。
放送日 :2011年 4月19日(火) 放送時間 :午後7:30〜午後9:10(100分) http://www3.nhk.or.jp/hensei/program/p/20110419/001/07-1930.html ベストオブクラシック −バッハ・コレギウム・ジャパン“第92回定期演奏会”− 岩井理江 「前奏曲 ト短調 BuxWV149」 ブクステフーデ作曲 (7分17秒) 「コラール前奏曲“心より私はあなたを愛す、おお主よ”」 ワルター作曲 (3分16秒) (オルガン)鈴木優人 「カンタータ 第174番“私はいと高き神を心の限りに愛す”BWV174」 バッハ作曲 (21分19秒) (カウンターテナー)ロビン・ブレイズ 、(テノール)ゲルト・テュルク、(バス)ペーター・コーイ (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木雅明 「カンタータ 第145番“私が生きるのは、わが心よ、汝が喜びを得るために”BWV145」 バッハ作曲 (9分20秒) (ソプラノ)ハナ・ブラシコヴァ、(テノール)ゲルト・テュルク、(バス)ペーター・コーイ (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木雅明 「カンタータ 第170番“満ち足りた安らぎ、魂の愉しむ悦びよ”BWV170」 バッハ作曲 (21分26秒) (カウンターテナー)ロビン・ブレイズ (管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木雅明 「カンタータ 第149番“勝利と歓呼の歌が響く”BWV149」 バッハ作曲 (18分49秒) (ソプラノ)ハナ・ブラシコヴァ、(カウンターテナー)ロビン・ブレイズ、(テノール)ゲルト・テュルク、(バス)ペーター・コーイ (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木雅明 〜東京オペラシティ・コンサートホールで収録〜 <2011/2/10> |
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