第99回定期
  J.S.バッハ/教会カンタータ全曲シリーズ Vol.63
   〜ライプツィヒ1730〜40年代- III 〜  


2012/09/17  15:00 東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル
*同一プロダクション
   2012/09/15 15:00 神戸松蔭女子学院大学チャペル(第222回神戸松蔭チャペルコンサート)


オルガン前奏:J.S.バッハ/プレリュードとフーガ ニ短調 BWV 539
         J.L. クレープス《神がなすのは恵みに満ちた御業》 (Org:今井奈緒子)
J.S.バッハ/教会カンタータ 〔1730-40年代のカンタータ 3〕            
            《神はわれらの避け所》 BWV197
            《いと高きところにいます神に栄光あれ》 BWV197aより第4,5,6,7曲(不完全稿)

                〜休憩〜
             《神がこの時われらと共におられなければ》 BWV14
             《神がなすのは恵みに満ちた御業》 BWV100


《出演メンバー》

指揮鈴木雅明

コーラス=独唱[コンチェルティスト])
  ソプラノハナ・ブラシコヴァ*、緋田芳江、藤崎美苗、松井亜希
  アルト  :ダミアン・ギヨン(CT)*、青木洋也、鈴木 環、中村裕美
  テノールゲルト・テュルク*、谷口洋介、藤井雄介、水越 啓
  バス   :ペーター・コーイ*、浦野 智行、加耒 徹、藤井大輔

オーケストラ
  トランペットI/ホルンI:ジャン=フランソワ・マドゥフ
  トランペットII/ホルンII:ジル・ラパン
  トランペットIII:斎藤秀範
  ティンパニ:杉下りずむ
  フラウト・トラヴェルソI: 菅 きよみ
  フラウト・トラヴェルソII: 菊池 香苗
  オーボエI/オーボエ・ダモーレI:三宮正満、
  オーボエII/オーボエ・ダモーレII:尾崎温子
  ヴァイオリン I :若松夏美(コンサートマスター)、パウル・エレラ、竹嶋祐子
  ヴァイオリン II:高田あずみ、山内彩香、山口幸恵
  ヴィオラ:成田 寛、秋葉美佳

 〔通奏低音〕
  チェロ:鈴木秀美  ヴィオローネ:西澤誠治  ファゴット:村上由紀子
  チェンバロ:鈴木優人  オルガン:今井奈緒子

(12/09/14、UP)


第99回定期演奏会 巻頭言 (BWV14、100、197)  

 前回に引き続いて、再びオランダの古都ユトレヒトに戻ってきました。時差ぼけと戦いつつ、ふとホテルの窓から耳を傾けると、ドム教会のカリヨンが「イエス、わが喜び」Jesu meine Freudeの華麗な即興演奏を繰り広げているではありませんか。「ああ、ここはオランダだったのだ!」という思いが、思わずこみ上げ、その鐘の音から耳を引き離すことができなくなりました。思えば、宗教改革時代から伝わる多くの賛美歌は、18世紀になっても、家庭でも巷でも楽しまれ、このようにして即興演奏の題材を与えていたのでしょう。そんな当時の様子が一瞬現実となって、急にバロックの時代に戻ったような心持ちになりました。
 このドム教会は、13世紀から数百年をかけて建築された美しい建物ですが、その西側の壁には、1831年有名なヨナタン・ベッツが製作したオルガンが、遙かな高みに、見事な幾何学模様を描いています。また、教会堂の西側には、ドム・トーレンと呼ばれるドム教会の塔が建っていますが、これは、教会堂の一部ではなく、数十メートルも離れたところに建てられています。この頃から既に、オランダでは教会堂と塔を、別個に管理する風習があったのでしょうか。オランダでは、宗教改革以降は、教会堂は教会のもの、塔とオルガンは市のものとして管理される習慣があったので、しばしば教会堂と塔は、分けて建てられていたのですが、14世紀から既にそうであったかどうかは、寡聞にして知りません。
 ユトレヒトは、もともとローマ帝国が1世紀に建設した要塞だった町なので、オランダの中でもひときわ古い歴史を誇っていますが、同時に、今は、大学を中心として、若者と旅行者で最も活気の溢れる町でもあります。旧市街の道は入り組んでおり、車で近づくのは容易ではありません。私たちが泊まっているホテルは、14世紀から存在した修道院と病院の建物らしく、レストランなど至る所に古い遺跡の発掘跡が見られます。アムステルダムが、あらゆる商業と文化の、清濁併せ呑む町だとすれば、こちらユトレヒトは、歴とした学問と宗教の町として発展してきた、真に歴史的な町と言えるでしょう。そして、そのような古めかしくもモダンな大学町ユトレヒトなればこそ、古楽の演奏と研究の中心地となり、古楽フェスティヴァルが30年以上も営々と続いてきたに違いありません。
  
 
 さて、今回は、オランダとは思えないほどの好天に恵まれつつ、3種類のプログラムを演奏しました。まず第1日は、ヴァイオリンおよびフルートとオブリガート・チェンバロのソナタと、「音楽の捧げ物」のトリオ。そのあと、3日のリハーサルを経て、クーナウ、ツェレンカ、J.S.バッハのマニフィカト集です。これは、かつてCDにも録音したプログラムですが、10余年を経て改めて演奏してみると、特にツェレンカの魅力を再発見しました。J.S.バッハのマニフィカトのみが異様に体に染みついていますが、同じテクストが同じ原理で扱われつつ、それぞれの作曲家の時代と個性によって、全く異なった響きを聞くのは、なんとも不思議な体験です。
 さて、最後のプログラムは、J.S.バッハの先人たちを集めた《ヨハン・プログラム》。というのは、J.S.バッハの先人には、ヨハン・クーナウやヨハン・パッヘルベル、そしてバッハ家のヨハン・ミハエル・バッハ、ヨハン・クリストフ・バッハなど、「ヨハン君」と呼ばれたはずの人が数知れずいるのです。そこで、これらのバッハの先人「ヨハンたち」を集めてプログラムを作ることにしたのです。
 中でも、特に演奏したかったのは、ヨハン・パッヘルベルの復活祭カンタータ《キリストは、死の呪縛につきたまえり》でした。これは、J.S.バッハのカンタータ第4番《キリストは、死の呪縛につきたまえり》と同じコラールに基づいているので、全く同じテクストを持っているのは当然ですが、それだけでは説明できない多くの共通点を持っています。例えば、まず、全体の構造が、第4節を中心としたシンメトリックになっていること。また、第1節冒頭の合唱モティーフや、第1,3,5,7節の最後に現れるHellelujaのシンコペーションリズムなどが、J.S.バッハの作品と酷似しており、J.S.バッハは、この作品を知っていたとしか思えません。
 パッヘルベルは、J.S.バッハが生まれる前後の10年以上をエアフルトで過ごしました。エアフルトはテューリンゲン州の首都であり、ヨハン・セバスティアンの父アンブロジウスの本拠地でもありましたから、パッヘルベルはバッハ家と大変親しくおつきあいをしていたのです。ヨハン・セバスティアンが直接パッヘルベルと出会った確証はありませんが、ヨハン・セバスティアンが9歳の時、長兄ヨハン・クリストフの結婚式の音楽を、パッヘルベルが請け負っているので、その際、出会った可能性は否定できません。
 ところで、パッヘルベルの最も大きな功績は、ルター派のコラール変奏曲の技法を確立した、ということでしょう。彼の様式は、コラールの1行ごとに、冒頭の旋律を短縮して1声部ずつ入る階梯導入のモティーフとし、最後にコラールの旋律そのものを直接導入する、という方法です。これは、オルガン作品にも声楽作品にも共通で、この方法によって無数のコラール変奏曲やファンタジーが生み出されましたし、また、バッハ家にも大きな影響を与えたはずです。
 実は、今日演奏するJ.S.バッハのカンタータ第14番《神がこの時我らとともにおられなければ》の第1曲も、全く同じ原理に基づいているのです。ただし、J.S.バッハは、一筋縄では説明のできない人なので、パッヘルベルの形式を単純に踏襲したわけではありません。ここでは、各声部の導入が、上下逆さの反行型をも含み、しかも最後に真打ちとして登場するコラールの旋律が、合唱によって歌われるのではなく、実にオーボエとホルンにのみ委ねられているのです。すなわち、コラールのテクストは、すべての合唱声部によって対位法的に歌わせておき、旋律は、最後に器楽のみによって演奏させる、という、驚くべき手法に変化しています。
  
 
 ユトレヒトで演奏したもうひとつのパッヘルベル作品は、今日聴いていただくJ.S.バッハのカンタータ第100番《神がなすのは、恵みに満ちたみわざ》Was Gott tut, das ist wohlgetanと全く同じコラールに基づいたカンタータでした。こちらは、パッヘルベルの中でも、やや自由なコラールファンタジーとでも呼ぶべき作品で、コラールの旋律は合唱を基本としつつ、時にソプラノソロに、あるいはヴァイオリンなどに委ねられ、器楽と歌を自由自在に駆使して旋律を紡いでいくのです。しかし、その旋律の合間に聞かれる対位法的なソロの部分は、やはり冒頭のパッヘルベルの原理に基づいています。
 一方、J.S.バッハの方のカンタータ第100番《神がなすのは、恵みに満ちたみわざ》は、かなり特殊な作品といわざるを得ません。というのは、ホーフマン氏の解説にあるように、第1曲と終曲は、それぞれカンタータ第99番と第75番から拝借していますが、第2〜5曲は、すべてコラールのテクストをそのまま用いたアリアとして作曲されているので、これは、もはやパッヘルベルの世界とは大きく異なった、J.S.バッハ独自のコラールカンタータの世界というべきでしょう。特に第3曲で、コラールのテクストは完全に残し、かつコラール冒頭のモティーフをも踏襲しながら、トラヴェルソのオブリガートを伴う見事な叙情的な作品が仕上げられているのは、目を見張るばかりです。
 しかし、これらの作品を見るとき、パッヘルベルにとっても、J.S.バッハにとっても、コラールに基づいて音楽作品を仕上げる、ということが、どんなに重要なことであったかを思い知らされます。すなわち、J.S.バッハは、ライプツィヒの第2年目1724年の春から1725年の1月までに、40曲のコラールカンタータを生み出しました。コラールカンタータとは、特定のコラールを1曲ずつ取り上げて、そのコラールの第1節と最終節を、カンタータの第1曲と最終曲にあて、残り中間部分のテクストを、残りの楽章に自由にあてはめて、全体でコラールの趣旨を音楽化するものでした。しかし、J.S.バッハは、様々な事情で、この年には作曲できなかった日曜日がいくつか残ってしまったのです。例えば、1月終わりに来る顕現節後第4日曜日、というのは、1725年には、2月2日のマリアの潔めの祝日と重なってしまったので、顕現節後の日曜日は第3までしかありませんでした。ですから、ずっとあとになって、今回演奏するカンタータ第14番を作曲して、このコラールカンタータの年巻を完成させようとしたのです。
 カンタータ第100番の方は、どの日曜日のために書かれたかはわかりませんが、しかし、同じような趣旨に基づいて、このコラールのテクストを完全に音楽化することを目的としているのです。
  
 
 ここにこそ、J.S.バッハが、パッヘルベルやその他多くのヨハンたちから受け継いだ伝統の、もっとも根本的な要素が示されています。すなわち、教会の会衆が礼拝中に歌う歌、つまりコラールをあらゆる音楽のコンテクストの中で示すこと、これこそが、宗教改革以来の音楽家の、もっとも基礎的な役目であったのです。宗教改革時代の作曲家たち、たとえばルターの手助けをした音楽家ヨハン・ヴァルターなどにとっては、コラールとは聖書に次ぐ重みがありました。ですから、その旋律を変更したり、フーガのテーマに改造することなどは、決して許されないことでした。しかし、パッヘルベルの時代になると、コラールは切り刻まれ、フーガになったりマドリガル風になったりしていきました。しかし、あくまでも、そのコラールが用いられていることが、とても大切なこととして尊重されていたのです。その伝統があればこそ、J.S.バッハのコラールカンタータが生まれたのです。
 このコラールを尊重する態度は、19世紀の作曲家にも例外的に伝えられていきました。たとえば、メンデルスゾーンに、そしてレーガーやブラームスに。特に、メンデルスゾーンには、音楽史におけるその意味が完全に理解されていたことでしょう。しかし、その後は、ごく例外的に作曲家が引用することはあっても、音楽家と教会歌の本質的なつながりが回復されることは、現代にいたるまで、もう二度となかったのです。だからこそ、ここに私たちがJ.S.バッハのコラールカンタータを、今日、もういちど演奏する意味があると言っても過言ではありません。なぜなら、日本では、カリヨンの奏でるコラールの即興演奏が聞こえてくることなど、まずあり得ないのですから。

バッハ・コレギウム・ジャパン
音楽監督 鈴木雅明

(12/09/14:資料提供・BCJ事務局)


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