「ヨハネ受難曲」 プレ・レクチャー・レポート
’98年4月のBCJ「ヨハネ受難曲」公演に先立って行われたレクチャーの概要をレポートいたします!
(98/04/01記)
《佐倉:「ヨハネ受難曲」を学ぶ3日間 第1回 『バッハの世界へようこそ』》 日時:’98年1月17日(土)15:00 佐倉市民音楽ホール 講師:鈴木雅明(BCJ音楽監督)[オルガン、チェンバロ] 「平均律クラヴィア曲集」やオルガン作品を用いて、バッハの世界観を紹介。 |
《佐倉:「ヨハネ受難曲」を学ぶ3日間 第2回 『カンタータの源を求めて』》 日時:’98年2月14日(土)15:00 佐倉市民音楽ホール 講師:鈴木雅明(BCJ音楽監督)[オルガン] 出演:柳沢亜紀(ソプラノ)、小笠原美敬(バス) [以上BCJ] バッハの創作活動の中心をなす『カンタータ』の世界を紹介。『カンタータ』を構成する5つの様式「モテット」「マドリガル」「レチタティーヴォ」「コンチェルト」「コラール」の歴史と内容を紹介。またバッハ・コレギウム・ジャパンより二人のソリストを迎えて様々な『カンタータ』を演奏。 |
1.カンタータの成立 原始キリスト教の時代から密接な繋がりを持っていたキリスト教と音楽ではあるが、グレゴリオ聖歌ができてから後、教会での歌は誰もが歌えるものからメリスマティックな難易度の高いものに発達していき、会衆は「アーメン」等を唱和する程度になってしまった。 宗教改革を行なったルターは、会衆が歌えるようにとそれまでラテン語だったミサ通常文や晩祷等を独訳し整理した。しかし、教会で歌う習慣をなくしてしまった会衆に、いきなり唱和させることは難しかった。 そこで柔軟な子供達に神学校等でコラールを教え先導させた。この子供達がやがて聖歌隊(Kantrai)となり、その指導者が「Kantor」と呼ばれるようになった。 ルターは説教の前後に歌うものを「グラドゥアーレ」と呼んでいたが、これが後に「カンタータ」と呼ばれるものになる。カンタータという言葉はハンブルクのノイマイスター牧師が出版した「教会音楽にかわる宗教的なカンタータ」という書物による。 2.教会暦について 配布された「18世紀前半ライプツィヒ、ルター派正統主義の教会暦」という配布資料基づいて簡単な説明があった。 教会暦の祝日は、毎年決まった日の固定祝日と年毎に異なる祝日に分けられる。後者は復活節を基準に定められている。教会暦は待降節に始まり三位一体節後第26又は27日曜日で閉じられる。 3.カンタータの構成様式 (著書を持っていないのでわかりませんが樋口氏の研究成果?) a.「モテット」 対位法的な合唱作品 b.「マドリガル」 修辞学的な合唱又はアンサンブル c.「コンチェルト」 ベネツィア風の複数の響きを競わせるもの →「アリア」 d.「モノディ」 ソロの伴奏を伴って一人が語るように朗誦するもの→「レチタティーヴォ」 e.「コラール」 会衆歌 *「モテット」「マドリガル」「コンチェルト」は合唱曲の基礎となった。 4.バッハのカンタータ作曲史 a.ミュールハウゼン時代(6曲):器楽曲−合唱−独唱−合唱という形式 例:BWV106(実際にCDをかけながら) ソナティーナ-合唱-詩編90番(独唱T)-(独唱B)-合唱(旧技法によるATB、新技法によるS) b.ヴァイマル時代:定期的にカンタータを作った 例:1714年(BWV182,12,172,21) c.ライプツィヒ時代:朝はトーマス教会、午後からはニコライ教会、 翌週は午前午後教会を入れ替えて毎週日曜日にカンタータを演奏していた。 1723 5/30−1724 6/4 :カンタータ第1年次 1724 6/11−1725 5/27:カンタータ第2年次(ほとんどがコラールカンタータ) 1725 6/3 −1726 12/2:空白 紛失? 1726 12/25− : ※演奏 1.[イタリアのカンタータの例] 「宗教的歌曲(A.スカルラッティ)」より柳沢さんの独唱。 曲はイタリア歌曲を学ぶ人にはお馴染みのものだそうでした。 2.[北ドイツのコンチェルトの例] カンタータ「深い淵から主よ、われ汝に呼ばわる」詩編130番より コンチェルト(ブルーンス)原編成はバス独唱と2つのヴァイオリン、通奏低音 小笠原さんの独唱。 3.カンタータ140番「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」第3曲以降(バッハ) 柳沢さんと小笠原さん(第4曲は柳沢さん) *いずれも雅明さんのオルガン伴奏 ※配布資料 1.教会暦(前述) 2.BWV140とブルーンスのカンタータの歌詞対訳 3.教会カンタータ教会暦順作品表 4.バッハの生涯における旅を記した地図
以上 (O.P.Q.ばっは[M.中田]MXF04125様) (98/04/08)
「ヨハネ」横浜公演のためのレクチャー(3/31)の会場でお会いした中田様が、「佐倉のレクチャーの2回目の内容、メモしてありますよ」とおっしゃっていたので、「是非レポートをお送り下さい!」とお願いいたしましたところ、さっそく送って下さったのが上記のレポートです。中田さん、お忙しい中本当にありがとうございました。 今回の「ヨハネ」や年末年始の「クリスマス・オラトリオ」を通してBCJに接して下さった皆様が、定期公演のカンタータにも足を向けて下さるお気持ちになっていただけた時、このレポートに目を通していただければ、よりカンタータというものを身近に感じておいでいただけるのではないかと思います。皆様、是非カンタータ全曲演奏にチャレンジしている定期公演にもお出でください!
(矢口) (98/04/12)
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《佐倉:「ヨハネ受難曲」を学ぶ3日間 第3回 『受難曲とは』》 日時:’98年3月14日(土)15:00 佐倉市民音楽ホール 講師:鈴木雅明(BCJ音楽監督)[オルガン、チェンバロ] 出演:柳沢亜紀(ソプラノ)、小池智子(アルト)、兎束康雄(テノール)、浦野智行(バス) [以上BCJ] 『カンタータ』の集大成としての『受難曲』をそのルーツから解説。ヨハネ受難曲を中心に、そのハイライトを演奏。 |
ホールは7割ほどが埋まりました。「ヨハネ」への期待の高さを思わせる盛況です。 そんな中での鈴木雅明さんのお話のポイントを、項目ごとにまとめてみます。 《バッハにとっての「ヨハネ受難曲」》 ・ライプツィヒで最初の受難曲。ライプツィヒでの生活を通じて改訂され続けた重要な作品。 《受難曲とは》 ・「十字架の意味」を、役割を分けて福音書を朗読する習慣が初期教会で始まる。 →やがて朗唱されるように→色々な受難曲の誕生 ・17世紀、「オラトリオ的受難曲」が登場して大きな変化が生まれた。(バッハの受難曲はこのタイプ) =特定の福音書の記事に基づきながら、聖書以外のテキスト(自由詩など)が導入された。 ・18世紀には、色々な福音書の記事をまとめ“受難物語”として扱う「受難オラトリオ」が登場 《バッハの受難曲》 ・何曲作曲したか?・・・『故人略伝』によれば5曲 「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」(現存)、 「マルコ受難曲」(音楽消失)、「ルカ受難曲」(他人の作品の筆写)、 「ワイマール受難曲(マタイ)」?→一部が1725年の「ヨハネ」第2稿に利用されたと考えられる。 *「ルカ受難曲」の挿入曲(バッハの真作)の自筆譜が日本にあり、 その曲がBCJの演奏で小学館の『バッハ全集』第15巻に収録される予定! 《『ヨハネ福音書』の性格》 ・4福音書のうち最も遅くつくられ、無駄のない表現で叙事的。 「はじめに言葉(ロゴス)ありき」(冒頭)が象徴的 ・受難記事は他の3福音書(共観福音書)と異なり、 “予言”(旧約聖書で示されたものなど)が成就していくさまとして表されている。 〔例〕・下着のくじびき(第27曲のテキスト) ・「Ich bins.」(それは私である)(第2曲のイエスの言葉) =旧約聖書で神が自分を表すときの言い回しと同じ表現 (イエスが旧約聖書で示された“神の子”であることを象徴) *バッハはこの部分の伴奏に、音楽の基礎ともいえる和声付けをしている →期せずしてこの言い回しを耳にしたことでイエスを捕らえに来た人々は圧倒された。 《受難の記事について》 ・裁判・・・自らを“神の子”と言ったことによるユダヤの宗教裁判(ハンナス、カヤパ)と イエスの行いをローマへの反逆とさせ、彼を死刑にするためのローマによる裁判(ピラト) の二段階がある。 ・十字架刑・・・最も重い罪に対する罰。(通常は石打ち刑) 《受難曲の構造》(オラトリオ的受難曲) ・三重の構造・・・それに対応する3つの視点と現代のわれわれとのつながり[鈴木雅明さんの私見] [受難記事による朗唱](福音史家など)=客観(イエスの時代の人々の視点)・・・・1世紀 [自由詩にもとづくアリア](バッハ時代の詩人)=個人(自分自身[ich]の視点)・・・18世紀 [コラール](会衆の歌う宗教改革以来のテキスト)=教会(私たち[wir]の視点)・・・・・現代 →バッハが他の作曲家よりも徹底した形でつくりあげたオラトリオ的受難曲の基本的構造 《バッハの『ヨハネ受難曲』について》 ・第1曲・・・・・プロローグ:天に向かう祈りのごとき開始。 「主よ」という3回の呼びかけ(参考:BWV21始めの合唱の「ich」) ・2〜5曲・・・・「ユダの裏切りとイエスの逮捕」 ・6〜14曲・・・「ペトロの否認と宗教裁判」 ペトロの否認は『ヨハネ伝』では「そこで鶏が啼いた」で終わり=予言の成就 しかしバッハは『マタイ伝』から「外へ出て激しく泣いた」を挿入。 ・15曲・・・・・・第U部プロローグのコラール ・16〜26曲・・「ピラトの審問」 ・27〜37曲・・「イエスの死に向かう場面」 ・38〜40曲・・「埋葬」 [演奏] (1)第10曲(一部)、11曲(コラールへの視点の変化) (2)第19曲、21曲(d)、22曲 ・当時の人々の錯乱状態(何が正しいか正しくないかもわからなくなっている)を描く21曲(d)と、 それを時間的にも空間的にも離れてしみじみ思いみる第19曲、22曲の表現の違いの対比。 →受難曲の三重構造による視点の変化の例の一つ ・22曲のコラールは、2度の「十字架につけよ」の合唱の配置からみた楽曲構成のシンメトリー 構造の中心=「私たちの身代わりとして罪を担って下さったイエス」という中心的想念を表す。 (参考:『マタイ受難曲』ではソプラノのアリア「愛よりして」がこれにあたる) (3)第30曲(一部)、35曲 ・「Es ist vollbracht!」=地上でなすべき使命が終わった・・・神の言葉(旧約の予言)の成就 (4)第40曲(コラール) 《「第4稿」の特徴》 ・エヴァンゲリスト(福音史家)の伴奏の大部分がチェンバロで奏される。 ・バッソノ・グロッソの書き込み・・・コントラ・ファゴット(16フィートのファゴット)の使用と考える。 *今回は管が一直線に高くそびえるオリジナルの楽器のコピーを使用。 ・第20曲などのテキストの変更 《まとめ》 ・『ヨハネ受難曲』は、バッハが生涯にわたって手を入れ続けた、「ヨハネ」の受難の記事を余すところなく描いた名作。 オルガンとチェンバロを駆使して(第19曲演奏ではアルトの小池さんがオルガンも演奏!)、わずか4人の歌い手で群衆の場面までも演奏していただき、お話しいただいた内容がとてもよく理解できました。本番の演奏が待ち遠しいです。
(矢口) (98/04/04)
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《横浜:「ヨハネ受難曲」への招待》 日時:’98年3月31日(火)18:30 朝日カルチャーセンター横浜 講師:礒山 雅(国立音楽大学教授) 1.《ヨハネ受難曲》の個性と特徴(《マタイ受難曲》との比較を通じて) 2.《ヨハネ受難曲》の聴きどころ 3.演奏さまざま(往年の名演奏とBCJのCDなど) | ||||||||||||||||||||||||
熱心な40名あまりの受講生が集まり、礒山先生のポイントをしぼったお話を聞かせていただきました。 まず、「受難曲とは何か」という基礎知識から説き起こし、「バッハの受難曲」について概観した後、本日の講座の核心ともいえる「《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》のちがい」のお話にいたりました。この中で様々な演奏を楽しみつつ、2つの受難曲のちがいからおのずと《ヨハネ》ならではの特徴が明らかにされていきました。 両受難曲のちがいを、お伺いした内容から簡単な表にまとめてみます。
こういったお話の中で、「成し遂げられた」のアリアや最後のコラールの聴き比べを通して、演奏様式の移り変わりやオリジナル楽器での演奏の特徴なども交え、第4稿での演奏の特色にも触れながら、2時間を超える充実したレクチャーが終わりました。(おみやげは、第4稿で歌詞が変わる第9、19、20曲(NBA)の礒山先生による訳詞のプリント!) 「きっぱりしていて情におぼれない良さ」を持ったBCJの演奏(礒山先生談)への期待がますますふくらんだひとときでした。
(矢口) (98/04/01、98/04/04一部訂正)
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VIVA!
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