BCJ“CD批評集”    「バッハ・カンタータ 第7集」

「Gramophone」誌(英) August 1998 Issueより

『バッハ・カンタータ第7集』
第61番「いざ来れ、異教徒の救い主よ」
第63番「キリスト者よ、この日を銘記せよ」
第132番「道を備えよ」
第172番「歌よ響け」

鈴木雅明指揮/バッハ・コレギウム・ジャパン
イングリット・シュミットヒューゼン(ソプラノ)米良美一(アルト)桜田亮(テノール)ペーター・コーイ(バス)
BIS CD881(78分:DDD)協賛NEC


比較:カール・リヒター(3/94)(アルヒーフ)439 369−2AX4
    コープマン(11/96)(エラート)0630−14336−2

 鈴木雅明によるバッハ・カンタータ全作品制覇の旅が少しづつではあるが、順調に進行している。今回はその中のヴァイマール・カンタータ・シリーズのひとつで、1708年から1717年の間に作曲された作品を取り上げている。今日我々がこの時代に作られた優れたカンタータを聴くことができるのも、当時勢力を振るっていた君主ザクセン・ヴァイマール公のおかげと言えよう。つまり1714年バッハがカペルマイスター(楽師長)に就任した際、ヴァイマール公がバッハに「ヒンメルスベルク」教会で毎月新しいカンタータを演奏することを命じたためなのである。ここに挙げる3つのカンタータは1714年と1715年の待降節と降誕節のために作曲されたものだが、「歌よ響け」(第172番)だけはバッハのヴァイマール時代後半に聖霊降臨祭のために作られたカンタータである。
「キリスト者よ、この日を銘記せよ」きらびやかさと優美さとを併せ持つ作品であり、きらめくように清澄なアリアの数々が複雑に入り組んでいるその曲構造は、まるでバレエの舞台を取り巻くバレリーナの一群に喩えられよう。「キリスト者よ、この日を銘記せよ」はこれまでにも優れたの演奏がレコード化されているが(リヒターとコープマンのものも含む)、鈴木の演奏ほどに心地よいペースと自然な説得力とを持った演奏は他にないと言って間違いないだろう。あら捜しをすれば、管楽器の音程の狂いなどをわずかに見出すこともできるが、この降誕節カンタータの第1曲の合唱を聴けば喜びのうちに屈服せざるをえないアーティキュレーションには揺るぎ無い厳粛さがあるし、調和のとれた合唱は曲をさらに崇高なものとしている。また言葉はまるで楽しげに飛び回っているかのようで、今にも行間から飛び出してきそうだ。「キリスト者よ、この日を銘記せよ」だけでなく、第172番「歌よ響け」の迫力に満ちた第1楽章も同様に素晴らしい
 NA(ニコラス・アンダーソン)が1月にカンタータ第5集の論評で述べていたように、このシリーズのソリストたちは巻が進むごとにますます実力をつけてきている。だがその中でも、米良美一ほどに目覚しい者は他にいないだろう。第63番のレチタティーヴォで米良は見事な輝くばかりの声を聴かせ、また第132番の「Christi Glieder」での声のコントロールも素晴らしく、これほどの声は今まで米良からも聴かれなかったほどである。ペーター・コーイ重厚な声で「陰の実力者」的な役割を果たしているとすれば、むしろ米良の声は軽やかで慈悲に満ちていて、まるで高雅なイングリット・シュミットヒューゼン(シュミットヒューゼンはハイピッチの第132番の「Bereitet die Wege」を曇りない晴れやかさで歌いあげている)への道を辿っているかのようである。また造物主(Veni Creator)に対するコラール・アリアである第172番の2曲目「Komm,lass mich 」では、鈴木がまことに巧みに歌い手達の気持ちを歌に集中させていることがわかる。「いざ来れ、異教徒の救い主よ」(第61番)について言うと、その有名な最初の部分を鈴木の演奏で聴くと、(待降節の期待を示す詩を含んでいるにも関わらず)主の降誕を待ち望む気持ちが十分に表現されていないと感じる人もいるかもしれない。しかしこれまでも述べてきたように、鈴木がいつも無私の態度で曲にアプローチしてきたことを考えれば、今回もマンネリに陥いることなく、瑞々しい気持ちで作品を追求した結果なのだろう−中略−鈴木は、考慮深く、清澄で確固とした演奏で、我々聴衆に「新しいテクスト」を提示していると言うことができよう
 これはバッハ・コレギウム・ジャパンからの新しい、大いなる賞賛に値するディスクである。このディスクはまったくの大勝利と言うより他ならないのだ。

(執筆:Jonathan Freeman-Attwood)
(訳:BCJ事務局)
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(98/08/15)

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