BCJ“CD批評集”    「メサイア」

「Fanfare」誌(米) March/April '98号 “CD立体批評”より

ヘンデル《メサイア》
指揮:ポール・マクリーシュ
独唱:ドロシー・レッシュマン、スーザン・グリットン(ソプラノ)ベルナルダ・フィンク(アルト)
チャールズ・ダニエルス(テノール);ニール・ディヴィス(バス)
管弦楽と合唱:ガブリエリ・コンソート・アンド・プレイヤーズ(オリジナル楽器)
アルヒーフ453 464−2(2CDs:132:19)

ヘンデル《メサイア》
指揮:鈴木雅明
独唱:鈴木美登里(ソプラノ)米良美一(アルト)ジョン・エルウィス(テノール);デイヴィド・トーマス(バス)
管弦楽と合唱;バッハ・コレギウム・ジャパン(オリジナル楽器)
BIS CD−891/892(2CDs:142:14)


 《メサイア》のディスクがあらゆる形や規模で、しかもこの地球のあらゆる方面から届いていきている。(中略) オリジナル楽器の演奏はさまざまな演奏が出されている。ハイぺリオンのハリー・クリストファーズのような非常に小さい編成から、フィリップスのジョン・エリオット・ガーディナーやロンドンのクリストファー・ホグウッド、あるいは今回取り上げる2組の新規盤のようなより大きめの編成のアンサンブルまで、実に様々である。一方、モダン楽器の演奏は、フィリップスのコリン・ディヴィスやエンジェルのチャールズ・ マッケラスのような伝統に忠実なものから、どちらかと言うと伝統に反するようなものまである。たとえばそれはEMIのアンドリュー・デイヴィスのような若干再編曲した演奏から、もっと大胆な、やりすぎと思われるくらいに伝統を無視したRCAのトマス・ビーチャムようなものである。それにまた、サブカテゴリーに位置するものもある。ドイツ語版では、ヘルムート・リリングがモーツアルト編曲の《メサイア》をヘンスラークラシックのために収録したし、探求心の旺盛なマッケラスなどは2度もこの《メサイア》を録音した。
 このように《メサイア》のシーンには今、世界的な偉大な歌手や傑出した合唱団、オーケストラ、指揮者たちがあふれている。そのため、新しいレコードは特に際立っていなければ、強い推薦を受けることはできないだろう。ドイツ・グラモフォンのセットが、自社の重要なアルヒーフ・レーベルの50周年を記念してリリースされた。良かったが、極めてすばらしいとは思えなかった。(中略)

 「それで、日本の鈴木雅明のレコードはどうなんだ」。今までずっとこのことを気にかけていた読者もいるだろう。実はわたしはこの録音盤をいつものように批評をするために受け取ったわけではなかった。そうではなくて、BISのアメリカの販売会社であるクォリトン・インポーツ(Qualiton Imports)が《メサイア》の聴き比べをするため、親切にも送ってきてくれたのだ。第1部を聴いたところで、わたしはこれまでのメサイア像が変わったのを感じた。そこで編集者のジョエル・フレグラーに電話して、そのメサイアをダブルレビュー[立体批評]に加えることを許してくれるように頼んだのだ(この《メサイア》も又、新盤だったので)。そうしてから残りの部分を聴いたのだが、するとさらにいっそう深くその魅力に嵌まり込んでしまった。このコメントを書くまでの2,3週間の間に、私はこの作品の10種類以上の録音盤を聴いていたし、さらにフィラデルフィア・フォーラムのコラムに載せる批評を書くため3回の演奏会に出かけもした。それでも私は鈴木の演奏を最後まで聴き終えると、始めに戻ってもう一度聴きたいという衝動的な気持ちに駆られてしまうのだ。このように言えば、鈴木の成し遂げた業績がどんなに偉大なものか、読者の皆さんにもお分かりいただけるだろう

 私はこの人物の《平均律クラヴィーア曲集第1巻》(バッハの鍵盤楽器音楽をすべて収録するBISのシリーズの初巻)を『ファンファーレ』20:6で熱狂的に迎えたことがあったのだが、鈴木は実にただものではない音楽家である。まず第一に、ほぼ絶対確実なテンポの感覚を本能的に持っているようだ。この演奏ではたった一箇所−わずかに速めと考えられる"And with his stripes"(「彼の受けた傷によって」)で−、違う速さにすべきとの感想を持っただけである。序曲の導入のグラーヴェの部分は付点をつけて演奏するのが「歴史的な知識に基づく」と認められたやり方であるが、それでもこの演奏ではよく工夫を凝らしているおかげで、壮麗さ、重厚さといったものがまったく失われていない。今日、これらの要素を欠いている演奏は少なくないのだ。アリア“But thou didst not leave”(「だが、あなたは渡さない」)のアンダンテ・ラルゲットに始まり、続く合唱“Lift up your hands "(「頭を上げよ」)のテンポ・オルディナリオ、そしてすこし後の“Thou art goes up high”(「あなたは高い天に昇る」)のアレグロ・ラルゲットへと移るところで、鈴木は速度記号の意味をそれぞれ的確に捉えている。全体を通して感じたのは、これこそこの作品の演奏されるべきやり方であり、これこそまさしくヘンデルが意図したものである、ということに他ならない。
 従来の演奏では顧みられなかった音楽や言葉のニュアンスが、この演奏では素晴らしく表現されているのを聴いて、私は幾度も微笑まずにはいられなかった。For unto us”(「私たちのために」)キラキラ輝くように歌われ“Prince of peace”(「平和の君」)という語句が初めて現れる時にはいくぶんスタッカートをつけて演奏されている。ヒコックスも同じアイディアだが、鈴木はそれをより自然に聴かせている器楽も声楽もヴィブラートの使い方がよく考慮されていて、ドラマ的にも音楽的にも常に意図にかなっている。例えば“The people that walked in the darkness”(「闇の中を歩む者」)で聴き比べてみてほしいのだが、歌い手は“death”という語をそのとおり空虚に響かせてから、抑制を効かせつつ“light”の語をノンヴィブラートからヴィブラートへ進行させている鈴木の指導力によりこの演奏全体で言葉が洗練されたことが、少なからず長所となっている

 歌い手たちの名前から判断すると、21人のコーラスと4人のソリストの中で、日本人ではないのはテノール、バスのソリストと、合唱のアルトの2人しかいない。にもかかわらず、合唱もソリストもテキストを正確に発音していて英語圏出身のたいがいの歌手よりむしろ正確で、慣用語法にかなっているのである。たとえば聴いてみてほしい。“For unto us”での“counsellor”は的確なアクセントと母音の音色で歌われているし、あるいは、思わず心奪われてしまう、カウンターテナーの歌“He was despised”(「彼は見下された」)では、英語の[English]強勢のある音節とそうではない音節とが非のうちどころなく区別されている。この発音問題に関してただ一人の参加者だけが過ちを犯していたが、それは皮肉にもイギリス人[British]のテノールである。鈴木は面白いアイデアを思い付いて、ジョン・エルウィスに(※編注参照)序曲の前に聖書の表題部分を朗読させているが、エルウィスは“Controversy”の2音節目にアクセントを置いてしまい、まさに物議[controversy]をかもしてしまっている。これは話し言葉の英語[British]としては一般的になりつつあるのだが、しかし私が知っている限りそのような発音を認めている文献などは見当たらない。
 しかしエルウィスはこのような失敗の埋め合わせをするかのように、素晴らしい歌を聴かせてくれる。指揮者とよく協力し合った結果である第2部のソロ ― 特に“All they that see him”(「彼を見る人は皆」)、“Thy rebuke hath broken his heart”(「嘲りは彼の心を打ち砕いた」)、“He that dwells in Heavens”(「天を王座とする方)や“Thou shalt break them”(「お前は彼を打つ」)という部分 ―ほどドラマティックで、身震いさせるようなものはこれまで聴いたことがない。また、ディヴィッド・トーマスこれまで彼が歌った[メサイアの]バスソロの中でも、おそらく今回が最高のものではないかと思わせる。“The trumpet shall sound”(「ラッパが鳴ると」)では、中間部をより軟らかに歌うことで従来の自身の演奏を凌駕しており、耳を奪われずにはいられない(とは言え、この号[Fanfare]の別のところで私が論評しているヘンデルのアリア集ディスクで、ブリン・ターフェルとチャールズ・マッケラスが大胆な発想で装飾を付しているのには、まだ及ばない)。ソプラノの鈴木美登里は美しく歌っているものの、最初の数曲では歌い方がごくわずかに“外国人らしく”聴こえるかも知れない。しかし、そんなことは、“Come unto him”(「彼の元に来なさい」)や“I know my Redeemer”(「私は贖う方を知っている」)での魅力に触れればすぐに忘れてしまう。
 しかし何と言っても、際立って優れているのはカウンターテナーの米良美一である。1996年にこの録音が行なわれた当時、米良はまだ25歳であったが、きっとこの世代の歌手の中で貴重な掘り出しものと言って間違いない。それは、カウンターテナーだけでなく、おそらくは他のどんな声種の歌手を含めてもそうだろう。米良は(ブリン・ターフェルがアリア集のディスクでそうであったように)、あたかも安々と楽しげに歌っているその語調は穏やかであるかと思うと、激情に満ちることもある。声はうっとりとするような音色で、低音域では驚くほどに力強く、通る声である。また、言葉のもつ特徴も寸分の違いもなく表現している。他のメンバーもそうであるが(これは鈴木の指導の賜物であることは間違いない)、米良の付ける装飾音は、想像力に満ち、かつ的確で、まさに多過ぎも少な過ぎもしないのである。

 さらにBISの録音の音が驚くほど素晴らしい。ハンス・キプファーが松蔭女子学院大学のチャペル(これはどこなのだろうか―東京だろうか、神戸だろうか?―解説書は他の点では優れているのだが、この場所についてだけは書かれていないのだ)でプロデュースしたのだが、その音は、優秀なドイツ・グラモフォン盤を、バランスの完璧さという点でたやすく超えてしまっている。さらに、声楽・器楽のどの部分でも、清澄さ、温かさ、鋭さ、華やかさが理想的にブレンドされた様子が録音により捉えられていて、まさにこれだとまで思わせる。こんな風に、この《メサイア》を彩る、感に堪えないくらいにすばらしい特徴をいくつも挙げていると、聴きたくて仕方がなくなってくる読者もいることだろう。このリリースの成功はヘンデルの《メサイア》がいかに普遍的なものであるかという、感動的な証である。ぜひ聴いていただきたい。

 
※編注:文中に登場する冒頭の朗読は、実際にはJ.Elvisではなく、David Thomasです。
      BIS盤の表記の誤りが原因と思われますが、この場をお借りして確認させていただきます。

(執筆:Bernard Jacobson)

(訳:BCJ事務局提供のものをもとに、「まろ」さんのご協力を得て編集部が作成)
*文中の太字表記は、当ホーム・ページの制作者によるものです。
(98/08/17改訂)

The New York Times NEW YORK, THURSDAY, SEPTEMBER 18, 1997
CRITIC'S CHOICE/Classical CD's

[ニューヨークタイムズ,97年9月18日付より]
 
A Stylish Handelian Weight Loss
〜スリムな、洗練のヘンデリアン〜
By JAMES R. OESTREICH

しばしば議論されることだが、バッハ音楽のイディオムはどんな媒介を介しても、どんな演奏規模によっても、その魅力は伝わる。ヘンデルの場合、同じことが言えないことはないが、果たして彼の音楽以上に作曲された当時から今日に至るまで、演奏スタイルが徹底して変化したものはあっただろうか?
100年前、ヘンデル作品はクリスタル・パレスで何千というイギリス人によって叫ばれていた。200年前、ヘンデルの死からほんの数十年後においてさえ、ウェストミンスター寺院では群集によって絶叫されていた。そうすることが荘厳な効果を生むとみなされていたからである。現在、最も驚くべき軽量化を果たしたこのオプラ・ウィンフリーの側において、“メサイア”はオリジナル編成を手本にするエリート・チームの共演の場となってきている。「オーセンティック(真正さ)」のほどは決して立証できるものではないが、それらの演奏はしばしば実に洗練されており、ヘンデルほどオリジナル楽器演奏の恩恵にあやかっている作曲家はいないのではないか、と思うほどだ。

多くの競合盤がひしめくカタログの中、新しいリリースがなお注目を集めることは困難なことだが、鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンの録音は、我々(西洋)のオリジナル楽器演奏のムーヴメントが、アジアにおいても思いがけない程進歩していることを知ることができて興味深い
この録音はいずれにせよ物足りない、という内容ではない。それどころか、多くの“骨董趣味”音楽家たちの録音より優れているし、近年BISが発表してきたBCJの録音(ほとんどがバッハ、ヨハン・セバスティアンだけでなくカール・フィリップ・エマヌエルも)の洪水に浸ってきた聴き手ならば、誰もこの水準に驚きはしないだろう。

鈴木は短い聖書の朗読で演奏を始めているが、総じて作品の劇場性よりも、本来の宗教的意味を探求する傾向にあり、(CDの)解説者がいみじくも書いているように、その演奏には、冒頭シンフォニアから「エネルギッシュでバッハ的なひたむきさ」がある
鈴木はここで、1753年のコヴェントガーデンにおけるヘンデルの演奏版をもとに解釈を行っているが、その“記録”に教条主義的に盲従しているという訳ではないようだ。バッハ・コレギウムの器楽奏者は押し並べて優秀で、合唱団の英語テキストの扱いは特筆すべきものだ。日本とイギリスの歌手からなる独唱陣も素晴らしい
カウンターテナー・米良美一はまさに「掘出し物」ジョン・エルウィスは強く、クリアなテナー。ソプラノの鈴木美登里は、「バッハ」の録音同様やや線が細いが愛らしく歌っている。イギリスの古楽録音でお馴染みのバス、デイヴィッド・トーマスは、この録音ではいつもより音程と響きが少し曖昧に聞こえる。

これは全く予期していなかったソースからのあなどりがたい偉業と言えよう。

(訳:BCJ事務局提供)
*文中の太字表記は、当ホーム・ページの制作者によるものです。
(98/08/22)

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