Irresistiblement秋の足音が聞こえはじめてるというのに、丘の上のこのカフェまで歩いてきたら、汗ばむくらいだった。 オープンカフェの隣りのテーブルでは、老婦人が静かに本を読んでいる。 僕の手元には、色と香りが少し濃いめのアイスカフェオレ。 「七条さん、アイスカフェオレなんですね」 伊藤くんが不思議そうに言う。彼の手元では、涼しそうにアイスティーが汗をかいていた。 彼が紅茶を選んだ理由が、普段僕の入れている紅茶を美味しく思ってくれているから、というのならば、嬉しいのだけど。 「会計室では郁の希望でいつも紅茶を入れていますが、僕はコーヒーも結構好きなんですよ」 へえ、と伊藤くんは微笑んだ。彼の視線が再び僕のグラスへ注がれる。 ―――いや、彼が見ているのは―――。 「気になりますか?」 「えっ」 伊藤くんは驚いたように、僕へと視線を戻した。彼が見ていたのは、僕の中指にある、シルバーリング。 「あ、いえ・・・七条さんが指輪してるの、初めて見るな、って」 彼の言葉に、僕はこみ上げる嬉しさを隠せなかった。 なぜならばそれは、彼が僕のことを気に掛けていてくれるということだから。 彼が、僕を見ていてくれているということだから。 僕は指輪を引き抜き、伊藤くんの前に置いてみせた。 彼は至極興味深そうに僕の指輪を手に取り、ためつすがめつそれを眺めると、僕と同じように自分の中指にはめてみる。 おや。 予想はしていましたが、僕の指より大分細いようですね。指輪が、余っています。 伊藤くんがこっそりショックを受けているようだったので、僕は気力を総動員して、何も気付かなかったことにした。 そうでもしないと、また微笑んでしまいそうだったから。 彼は手を開いて、日差しにてのひらと指輪をかざす。銀のフォルムが光を反射した。 まぶしそうにそれを見つめる伊藤くんが、あまりにも無防備で魅力的だったので。 僕は指輪から彼を、取り戻したくなった。 「いつも学校や寮では、手の回りにつけるアクセサリーや時計は外しています」 彼の手のひらに、僕は自分のてのひらを合わせた。触れた、てのひらの暖かさ。絡まる視線。自分でたぐり寄せたくせに、僕のほうが囚われそうになってしまう。 「特に僕はこういったボリュームのあるデザインが好きなので、どうしても普段は邪魔になってしまうんですよ」 僕は他愛もないことを言いながら、引きずられるのを断ち切るように、彼の指で泳いでいる指輪を人差し指でごろごろと回してみせた。 「綺麗な指輪ですね。七条さんに、すごく似合ってると思います」 けれども彼は、僕の努力なんて簡単に無に帰してしまうのだ。 「ありがとうございます。自分が気に入っているものを好きな人に誉められるのは、とても嬉しいですね」 僕の、偽りのない本心。君には、ちゃんと伝わってますか。 伊藤くんは照れながら、指輪を僕へ戻した。 僕が指輪をはめるのを眺めながら、伊藤くんがため息をつく。 「あーあ、俺もこういう指輪が似合えばいいのに」 「おや、伊藤くんもこういうデザインがお好きなんですか?」 「憧れますけど、・・・俺にはちょっと似合わないかな、って。」 彼のいわんとしていることは、何となく察しがつくけれど。 でも、諦めるには早すぎます。 もちろん、僕が。 「そんなことはありません。伊藤くんにもきっと似合いますよ」 「そうですか?」 「ええ」 「そうかなあ・・・」 伊藤くんはアイスティーのストローを回した。からり、と氷の涼やかな音がする。 そんな彼のすねたような仕草に、やはり微笑みがこぼれてしまった。 穏やかな、晴れた午後のひととき。 「では、指輪ではなくて他のものにしてみてはいかがですか?」 「他のもの?」 「例えばウォレットチェーンとか・・・そうだ」 いいものがあった。 「はい、これ。試しに、僕がしているネックレスをしてみませんか」 ペンダントヘッドはシンプルなプレートと、百合の紋様の二つ。僕の持っているシルバーでは一番古いものだから、大分傷がついている。 伊藤くんは好奇心のたくさん詰まった瞳でじっとそれを見つめたあと、揺れるチェーンを手に取った。 僕は、その様子を黙って見守る。 ―――――――――・・・・・・・・・。 ふふ。 眉根を寄せて一生懸命金具と格闘している伊藤くんが可愛くて、僕はつい笑い声を漏らしてしまった。はずし方がわからないらしい。 手を伸ばすと、よほど困っていたのか、伊藤くんは素直にチェーンを差し出した。 彼の後ろに回り込み、僕のネックレスを付ける。 と、伊藤くんは微かに身を震わせた。 「いかがですか?」 僕はネックレスにかこつけて、伊藤くんの顔を覗き込む。触れそうな程に近い、彼の横顔。初めて身につけるネックレスが気になるのだろう、彼は恥ずかしそうに、伏し目がちに微笑んだ。 「な、なんだか、慣れないせいか・・・照れくさいような・・・」 彼はペンダントトップに触れ、まじまじと眺める。 「よく似合ってますよ」 まるで、判決を言い渡される気分。 「本当ですか?じゃあ、俺はネックレスから始めてみようかな」 こんなにどきどきしてしまってることが、どうか伊藤くんにばれませんように。 「気に入りましたか?」 「はい!」 僕は椅子に座りながら、出来るだけ平穏を装って言った。 「では、それは伊藤くんに差し上げます」 「え・・・っ・・・?」 全身でぽかん、としている彼を見て、僕は不安になる。 ―――――僕、今、日本語で言いました? 隣のテーブルのご婦人に、一瞬本気で尋ねたくなった。ちょっと必死だったせいか記憶がない。 とりあえず冷静さを装いながら、アイスカフェオレを口にする。 「ええっ?!」 僕はストローを口にしたまま視線だけで頷いた。 よかった、どうやら日本語だったらしい。 「し、七条さん・・・だってこれ、すごく大事なものみたいですし、愛着があるものなんじゃ・・・」 「確かに愛着はありますが、伊藤くんが身につけてくれるんでしたら」 「でも・・・なんだか悪いです・・・」 「僕の代わりに、大事にしてくれるんでしょう?」 「それは、もちろんですけど・・・」 「では、どうぞ」 伊藤くんはふたたびそっと、ペンダントトップに触れた。とても、とても優しく。そして愛おしそうに微笑む。 「・・・ありがとうございます・・・大切にします!」 「僕も、そんなに喜んでもらえて嬉しいですよ」 伊藤くんの素直な心は、いつも僕を調子付かせるのだ。 僕は、伊藤くんの首にぶら下がっている僕のペンダントトップを掴んで、軽く引っ張った。 「なんだかこうしてると」 「?」 「虜、って感じですね」 伊藤くんは大きな瞳をさらに見開いた。 「し、七条さん!?」 僕と彼を繋ぐチェーンが、微かな音をたててきしむ。 このチェーンは、僕だ。 「ふふ、冗談です。やっぱり僕が最初に言ったとおり、よく似合ってますよ、伊藤くん」 繋がれているのは、僕。 「そ、そうですか・・・」 ちょっと何かを考えていたようにみえた伊藤くんは、おもむろに僕の手を掴んだ。 「このネックレス、お返しします」 「えっ・・・?」 聴いたことのない、不機嫌な声。意志を持って逸らされた視線。 僕の全ての機能はフリーズを起こして止まった。 柔らかな日差しも、焼き上がるケーキの匂いも、緩やかに舞い落ちる銀杏の葉も、さっきまで感じられていたもの全てが。 「・・・チェーンなんてなくても、俺は七条さんから絶対に離れたりしませんから」 ・・・。 ・・・・・・。 ・・・・・・・・・。 ・・・・・・・・・・・・。 ―――再起動。 古い煉瓦の石畳。入れたてのコーヒーの香り。遠くで聴こえる、子供のはしゃぎ声。 そして、少し―――照れたような伊藤くんの顔。 「・・・あ、あのー、七条さん?」 顔を真っ赤にした伊藤くんが、いぶかしそうに顔を近づける。 ちゅ。 「し、七条さあん!!!」 片手で口をふさいで飛び上がる彼と、揺れるペンダントヘッド。 やっぱり君には敵いません。 ね、あなたもそう思うでしょう? |