メニュー(クリックすると下記へスクロールします)
5.音楽と黄金比。
ある時、「流し」のベテランのギタリストと話しをする機会がありました。その時に、「君たちの音楽(クラシック)は、上辺はきれいだけど中身がない。それに比べて俺たちの音楽(演歌)には、心がある」ということを聞かされたことがあります。
しかし、クラシック音楽にも「心」があることは、私たち(クラシック音楽の愛聴者、演奏者)はよく知っています。ただ、その音楽の中に流れる「心」というものの認識が、演歌好きな人と、クラシック好きな人とでは異なっているのではないかと思います。たとえば、自分の心が、からだのどの部分にあるのか、その認識は民族、宗教、時代などによって異なります。
日本の場合、心とは、古代から、「腹」にあるとされていました。腹を割って話し合おうとか、腹を据えるなど、日本人は心の場所を、腹に想定していたのです。腹は、からだの中でもっとも熱く感じられる場所で、その熱い腹に、燃えるような魂が宿ると日本人は感じていたのでしょう。
そういう「腹派」の日本人の心に共鳴する音楽は、演歌のようにむき出しの感情をあらわにした音楽や、和太鼓のように、母なる大地に響きわたり、人間の腹にも響き、魂を喚起するような音楽です。それに対して、キリスト教圏の国々では、昔から心とは「頭」に宿ると認識されていました。聖書では、人間の心、この場合、精神は、父なる天の神の息吹により、人間の鼻から頭へ宿されたとあります。
したがって欧米の人々にとって、心とは、頭に宿る理性をつかさどる涼しさを伴う精神なのです。熱い魂をむき出しにしたものは、むしろ動物的なものとして、嫌われていました。
「頭派」の欧米の人々の心に共鳴する音楽は、清らかで精神性の高い崇高な音楽です。キリスト教の典礼音楽は、その究極の音楽だと思います。クラシック音楽のクラシックとは、クラス(class 階級・等級)からきていて、大衆的なものより一クラス上の、洗練されたもののことを言います。それは、一時的に流行し消えていくのではなく、民族や、男女の差などを超えた、どの時代の人間の心にも共感できる普遍的な内容を備えています。
クラシック音楽とは、それがただ単に古い音楽だから、クラシックと呼ばれているのではありません。バッハやベートーヴェンなどの音楽が、現代までずっと聴き継がれている理由は、彼らの音楽のメッセージが、どの時代の人々にも共感できる普遍的な心を根源にした内容だったからです。
したがって、現代の作曲家が、何世紀も先の人々にも共感できるような作品を創作しようとすれば、それはすでにクラシックと呼ばれます。そうすると、人間にとって、普遍的な心とは、熱い「魂」だけで支配されている心ではなく、また冷たい「精神」のみに支配されている心でもないように思います。
腹から湧き上がる熱い魂と、頭にある冷たい精神とが降りてきて、胸のあたりで中和した、暖かい「心」が、人間の普遍的な心と言えるでしょう。
したがってクラシック音楽とは、暖かい人間の心に共鳴する「胸派」の音楽ということになります。
ヨーロッパで初めて記譜された音楽は、グレゴリオ聖歌のような中世のキリスト教の典礼音楽でした。それ以前の音楽は、感覚のみを頼りに即興的に表現しては消えていくものでしたが、聖書の言葉を託した典礼音楽は、言葉そのものとみなされ、記録し後世へ残す価値のあるものとして認識されました(その結果、音楽の書き文字である「音符」が発明されたのでした)。
典礼音楽の初めのかたちは、霊的な精神を象徴する単旋律だけでした。九世紀頃になると、そのメロディーにオルガヌムという四度音程で並行する旋律や、対話のような副旋律が加わるようになりました。
やがて声部数がふえて、それぞれのメロディーは独立するようになります。
しかしそれは依然として霊的精神の対話であり、たとえばイエスと弟子たちの複数の対話、父なる天の神と人間の対話などを示しているように思います。
ルネッサンス時代になると声部数は、四声、五声と安定するようになり、対話という横の関係だけではなく、和声的な縦の調和も充実してきます。そうすると、最低音を受け持つバスは、対話をする一人という役割だけではなく、さらに上声部を和声的に支える「土台」としての役割を担うようになります。これは私見ですが、バスは、大地を象徴する「母なるもの」の役割を持つようになったのではないでしょうか。母なる大地は、肉体を生みだします。大地のように低いところにあるバスは、音楽に肉体を持たせるという意味が生じたのだと思います。
それまでは、多声音楽といえども、その音楽は精神だけの対話だったのです。しかし、その精神を象徴する上声部のメロディーに、バスという精神を支える肉体が加わることで、音楽も、あちら側の神の世界から、現世であるこちら側の人間の世界に生まれ変わったのでした。バロック時代になると、「通奏低音」に代表されるように、音楽には母なる大地のバスの支えが欠かせないものとなりました。音楽のリズムも、舞踏のリズムが採り入れられるようになります。実際の舞踏は、生身のからだを持って生きている人間の喜びを、からだそのものを使って表現します。そうすると舞曲とは、音を通じた人間側の、からだを持った者の喜びの表現でもあったわけです。
霊的精神だけが漂うような頭派の中世の音楽は、ルネッサンスを経験することで、精神を支えるバスという肉体を持ち、人間の胸にある暖かい心に共鳴する「胸派」の音楽に生まれ変わったのでした。その後、音楽は時代と共に成熟していきますが、どんなに厚い芳醇な肉体をまとうことになっても、西洋クラシック音楽は、精神性を失うことはありませんでした。西欧では、今日に至るまでキリスト教的精神世界に支配されているからです。ヨーロッパにおいて、西洋クラシック音楽は、キリスト教の典礼音楽をルーツに連綿と発展してきました。
バッハも、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンも、本質的には典礼音楽が持つキリスト教的精神性の延長上にあります。つまり、彼らの音楽の芯には、精神性に基づく理性が普遍的に宿っているのです。さらに豊かなバスが、魂を生み出す原動力になっているのです。「腹派」である日本人が、西洋クラシックを演奏すると、腹から湧き出る感情むき出しの激しい表現に片寄りすぎてしまうことがあります。それは精神性までも飲み込んでしまい、たいへん聴き苦しいものとなります。クラシックのピアノ曲を、ジャズピアニストの山下洋輔さんのように、鍵盤をぶった叩たく演奏で表現されたのでは、多くの聴衆にとっては苦痛以外の何ものでもありません(ジャズの演奏なら良いかもしれませんが)。
19世紀後半に入ってまもなく、ダーウィンの「種の起源」により進化論が発表されました。進化論は、聖書の記述の矛盾を突き、人間が父なる天の神によって創造されたものではないことを強く示唆しました。やがて、進化論が一つのきっかけとなり「唯物論」という考え方が登場します。
唯物論は、人間という存在が物質的存在の何者でもなく、死後の世界は存在しなく人間はすべて無に帰すると解釈します。そのために生きる意味を失い虚無主義に陥る人々も出てきますし、神のいない孤独感に耐えることに価値を見出す、実存主義という考え方も出てきました。
音楽も20世紀に入ると、父なる天の神を志向するメロディーは解体され、母なる大地の神を象徴するバスは失われてしまいました。そこにあるのは偶然性に基づいて創作された、オブジェとしての音楽だったのです。音楽は、父も母も失った孤児のように、孤独と虚無感に包まれるようになりました。
現代音楽のなかにはウェーベルンなどのように、自然の移ろいを感じさせる美しい作品もありましたが、ほとんどの現代音楽は「ただ物」のオブジェと化し、人々に希望や癒しを与えません。現代科学は依然と唯物論指向を持ちますが、しかし、欧米においては、今日でも、およそ9割の人々がキリスト教を信奉しているのだそうです。人間は、自分が何者であるのか、その認識の違いで生き方が変わってきます。自分が物質的存在のみに過ぎないと思えば、刹那的な生き方になってしまうでしょう。
しかし、ほとんどの人々は、自分の人生を歩んでいくにつれて、自分がただ偶然によって生じ無意味に存在しているとは思わなくなってきます。様々な出会いが、単なる偶然で無意味なものであるとは、到底、思われないからです。
そういう人々にとって、「ただ物」の現代音楽には、自分の姿を見ることができないのです。つまり理解できないということです。そういうことを受けて、今日の現代音楽の流れは、再び人間や自然に向かう方向に修正されつつあると思います。たとえば武満徹の音楽は、東洋的な汎神論(自然のすべてに生命が宿っているという考え方=アニミズム)に基づく音楽を表現していると私は解釈しています。
東洋的な美感と汎神論に基づく音楽作品は、ヨーロッパではドビュッシーにまで辿ることができるでしょう。それ以前は、啓蒙時代あたりでは、ギリシャ神話を題材とした音楽作品も存在しました。
欧米でも、近年、キリスト教的な世界観を持つ人々が、同時に、東洋的な汎神論さえも受け入れるという人々が増えてきました。
現代人西欧人にとっても、自分は何のために生きるかという問いの答えを、キリスト教だけではなく、「自分という魂が現世に生まれ落ちて、それぞれに与えられた宿題を克服することで輪廻転生の輪から出ることができる(仏になる)、そうでない場合は、なんども輪廻転生を繰り返すのだ」という仏教の思想の中に、新たな指針を見出す魅力が感じられるのだと思います。いずれにしても、人間や自然を無視する、ただ物の前衛音楽はクラシック(普遍的なものを表現する)としては残らないでしょう。今日の、人々における価値観の流れがそうであるように、新たに自然と人間との存在価値に根差した作品が人々に求められることになると思います。
「天国」というと、人はどのようなイメージを持つでしょうか。おそらく誰もが、戦争も貧困もない、誰もが平等で、苦悩や苦痛のない穏やかな世界を想い描くでしょう。
しかし、生きている限り、さまざまな不安や、不安、恐怖がつきまといます。全人類的にみても、人間は有史以来すでに何回も戦争と平和を繰り返してきましたが、依然、飢えや、病に苦しむ人、そしてさまざまな差別がなくなりません。なぜ、理想通りの社会や、個人の幸せがなかなか実現しないのかというと、おそらく、その大きな原因は、人間が「肉体」という、生身のからだを持っているからだと思います。もし人間がからだを持っていなかったと仮定してみたらどうなるでしょう。
からだが存在しないと、皮膚の色の違いはなく、まず人種差別という問題は消えます。誰かが美形で、誰かが醜いとか、飢えや病気で苦しむということもありません。肉体を維持したり、着飾ったりする必要もないので、お金が必要でなくなってきます。物に執着することが無意味になり、その結果、様々な対立や、戦争などが自然に消滅します。
ところが、実際に生きている人間は、生身のからだを持っている「現実」があります。人間は、からだが欲求する「欲」に翻弄され苦しむのです。音楽は、そういった理想と現実の狭間で揺れ動く、人間の心の揺らぎを音を通じて表現することがあります。
「理想」とは、父なる天の神から人間に与えられた「精神」が求めているものです。そうすると、音が高い方に向かうときには、理想に近づいた喜びを表現します。短調のときは、理想に近づきたいという願いを表現します(譜例1)。
譜例1 ショパン「練習曲op10−3」
ショパンがレッスンをしていて、ある時、弟子がこの曲を弾いた。その時、ショパンは「おお祖国よ」と思わず叫んだという。
この曲の描く理想とは、ショパンの郷愁の想いかもしれない。ショパンの祖国であるポーランドが、まだ平和で幸せだった頃の様子を描く。
また上向きのメロディーは、理想を求めたいという求心力があるので、音楽の表現は、積極的な方向へ向かいます。したがってメロディーが上るにつれて、テンポは積極性を帯びてやや早めに演奏されることになります。音色も積極的になり、明るい音色に変化していきます。
しかし、その積極的な変化は、演奏を聴いている人には気がつかない程度に変化しなくてはならないでしょう。もし、あからさまさまに、テンポが走っていることを、聴衆に気づかれてしまう演奏になっていれば、演奏が積極的なものの方向に片寄りすぎて、演奏の中庸性が崩れてしまうからです。演奏が不自然に積極的な方向に片寄りそうだと感じたときは、逆にテンポを落ち着かせる必要がでてきます。また上向きのメロディーでも、楽譜にディミヌエンドが指定してあれば、音楽は求める想いが消えてしまいそうになるので、その場合は夢や願いが途切れていく「切なさ」を表し、表現的には消極的になります。この場合、演奏はやや遅めになります。ショパンの音楽には、こういった表現が多いようです(譜例2)。
譜例2 ショパン「ノクターン嬰ハ短調(遺作)」
ピカルディーの3度により、理想が叶った夢を見ながら上昇していく。それにもかかわらず、メロディーはピアニシモのままだから、音楽の方向性は消極的な方向になる。
そうすると、音楽は、シャボン玉のように、夢がやがて消えて行ってしまう切なさを表現する。
メロディーが下行へ向かうときは、理想から遠ざかってしまう「悲しみ」や「あきらめ」を表現します。短調では、より一層、打ちのめされた悲しみが強くなります。低い音の彼方には、母なる大地の「現実」が広がっているからです。
また下向きのメロディーは、求心力が失われていきますから、表現は消極的な方向へ向かいます。したがって演奏は、やや遅めに演奏されることになります。音色も、落ち着いた音色へと変化します。しかし、消極的なものが、極端に消極的な方向へ片寄り過ぎないように注意する必要があります(譜例3)。譜例3 ブルグミュラー「小さな嘆き」
冒頭からいきなり下降するメロディーは、現実へ向かわなければならない悲しみを表現する。
音楽の方向は消極的である。左手の、揺らぐ動きは、不安を表現している。
たとえばムンクの「叫び」という絵が、カゲロウのように揺らめいているのは、揺らぐ存在感=不安を象徴しているという説がある。音楽も、揺らぐメロディーや音型は不安を象徴していると思う。
音楽を演奏したり、聴いたりするときに、作曲者が高い音にどういう理想を込めたのか、あるいは低い音にどういう現実を見たのかを想像することは、音楽を理解することに貢献すると思います。
そのためには、作曲家の伝記や手紙を読んだり、その作曲家を取り巻く思想、宗教、社会状況などの時代背景を知ることが、ヒントになりそうです。音楽において、音の高低を通じて、メロディーがいかに理想と現実のあいだを揺れ動くか、その具体例をシューマンの「トロイメライ」の冒頭で検証してみましょう(譜例4)。
トロイメライとは、ドイツ語で夢を見るという意味で、「子どもの情景」の中に収められた小品です。シューマンが友人のライネッケに宛てた手紙によると、「子どもの情景」は、子どものための曲集ではなく、歳をとった人の回想の曲なのだと伝えられています。
そうすると、トロイメライに込められた理想とは何だろうかというと、大人になってしまった人が、子どもの頃の幸せだった時に再び戻りたい、あるいは浸っていたいという想いかもしれません。そういった願いを、高音域に近づくたびに「夢」を見るのだと思います。たとえば、老人が暖炉の前で、暖をとりながら「うつらうつら」としている様子を想像してみましょう。揺り椅子にゆられながら、老人は曲全体を通じて計8回、子どもの頃の夢を見ます。
冒頭のメロディーは、アウフタクトの後の低い「ファ」をのばすことで、歳をとってしまった現実の自分を噛みしめます。「自分はいつの間にかこんなに歳をとってしまった。時間が通り過ぎるのがなんと速かったことか」
そして二小節をかけて高い「ファ」にのぼり、一回目の幸せを味わいます。この時に、意識は子どもの頃にもどっています。「子どもの頃の、あの幸せな時間がなつかしい」
その後、二小節をかけて夢から覚めるのを惜しみつつ、現実の老人である自分に戻ります。その時メロディーは、名残り惜しそうに、まるで過去を振り返るかのように小さな上行を繰り返しながら、全体的には下行へ向かい現実に戻っていきます。トロイメライの表現上のポイントとしては、メロディーの最も高い音で、幸せを味わうために充分に時間をかけることが重要だと思います。さらに、その理想から遠ざかり下りていくメロディーを、時間をかけて遅めに演奏していきます。
理想と現実との間を揺れうごく心の綾を、いかに共感しながら演奏するかが意味のある演奏をするために大切なポイントになるでしょう。譜例4 (トロイメライ)
ベートーヴェンの音楽は、積極的で男性的な表現を持つというイメージがあります。なぜベートーヴェンの音楽が、そのように感じるのかというと、彼のメロディーが常に父なる天に向かう上昇指向があるからだと思います。
たとえ下行するときでも、クレッシェンドをすることで現実を真っ正面から受け入れようとする強い意志を感じさせます。ベートーヴェンの音楽は、常に理想を追い求め、さらに現実から逃げようとしません。それはベートーヴェンの人と成りそのものだと言えるでしょう。
ベートーヴェンの楽譜が近くにあったら確かめてみましょう。どの作品もメロディーが上向きの傾向があります。さらに下行するときも、クレッシェンドすることが多く、悲しみというものをあまり感じさせません(譜例5)。譜例5 ベートーヴェン「ピアノソナタ、ヘ短調op2−11」
それに対して、ショパンの音楽は、消極的で女性的なイメージがします。なぜそのように感じるかというと、ショパンのメロディーは、理想が叶わない悲しみに浸るために、あるいは慰めを求めるために、母なる大地に向かおうとするからだと思います。
そのためにメロディーは、常に下行に向かう傾向が多く、またその距離も長いのです(譜例6)。譜例6 ショパン「ノクターン、ヘ短調op55−1」 慰めを求めるために、メロディーは下降し、しだいに緊張が緩和される。
ロマン派の時代は、人々が「個人」という意識に目覚めた成熟した時代です。作曲家は、自分の内面に向かって内省的に音楽を創作しました。そのためにロマン派の音楽は、ショパンに限らず(ショパンは半分は古典派ですが)メロディーの方向性が下行ぎみになることが圧倒的に多くなる傾向があるようです。
街中を歩いているときに流れている音楽などでも、「何だか心が慰められるような音楽だ」とか「安らぎを感じる」という場合は、ショパン型のように初めに理想を夢見て、時間をかけて悲しみを味わうために下りていくという消極的なパターンが多いようです。それに対してバロック時代は、音楽家は自分のためではなく、主に宮廷人のために仕事をしましたから、その創作の動機は作曲家個人の内面性に基づくのではなく、絢爛豪華な音による饗宴という対外的な趣きがあります。そのためにバロック音楽は、表現においては積極的な性格を持ち、メロディーの方向性は、上行に向かうものが多い傾向にあるようです。
古典の時代では、モーツァルトに代表されるように、積極的なもの消極的なものの中庸性がバランス良く保たれているような気がします。
演奏をするときに、音楽の力点がメロディーのどこにあるのか分からないことがあります。あるいは自分で作曲する場合も、どこに盛り上がりを置いたら良いのか迷うこともあります。そういうときに「黄金比」を知っていると、フレーズや音楽の重心が見つけやすくなります。
黄金比とは、簡単に言えば、ものごとが成長するときの比率で、またその割合が、人間にとっては美しいバランスに感じるというものです。その比率は具体的には、約7対3の割合です。
縦横それぞれの一辺を7対3にする四角形を描くと、長方形ができます。このように縦と横の比率を黄金比で形づくられた長方形を黄金矩形と呼び、その長方形の枠のなかに入れ子のようにめいいっぱい大きい正方形を入れると、その余白に、また初めのうつわである長方形とおなじ比率の小さい長方形ができます。これを繰り返すと、永遠に黄金矩形を形作り、そういう分割を黄金分割といいます(図例1)。図例1
さらに、次々と増えていく正方形の対角線にそって、曲線を結んでいくと「対数らせん」ができます。黄金比や対数らせんは、自然界に数多く見つけることができるといいます。
たとえば、対数らせんの渦と、おうむ貝の巻き方はともに一致し、その他にも、銀河や台風の渦の曲線とも一致するといわれています(図例2)。図例2
ひな型を全部集めて、対角線に沿って弧を描くと「対数らせん」ができる。
「対数らせん」は、オウム貝の形に似ている。
チャウチャウ犬のしっぽにも似ている。
黄金比は、その内部に自己相似性の永遠性を秘めており、同時に外側には、自己増殖性を持っています。つまり黄金比は、自然の流れや、生物など、物事が成長するときの普遍的な比率であると考えられています。
黄金比は、理想的なバランスゆえに、古代では、建築や彫刻などにも応用されてきました。たとえば4500年前に建造されたクフ王のピラミッド高さ底辺との比率が黄金比だといわれています。パルテノンの神殿の高さと幅との割合も、黄金比です。
現代でも、ワイドテレビの画面や、名刺の縦横の割合がだいたい7対3であるといいます。髪型にも七・三分けというものがあります。そうすると音楽にも、黄金比が古くから古典美として応用されたと考えることができるでしょう。
音楽は、物語のようなドラマ性を持っていますが、実際の物語の構成は「起承転結」という四つのエリアに分けることができます。その場合、7対3の分岐点にあたるのが「転」の部分です。ここが物語りがもっとも盛り上がる重要なポイントになります。
音楽では、16小節ほどの短い楽曲でさえ、起承転結の流れを見ることができます。もっと小さい1フレーズにも黄金比を見ることがあります。ここでは4小節単位の小さなフレーズについて考察していきます。
この4小節のなかで起承転結の「転」である7対3の分岐点にあたるのが、3小節目です。つまり4小節のフレーズでは、3小節目にピークがやってくるパターンが多く、古典の音楽などに多く見られます(譜例1)。譜例1 ピークが、7対3の分岐点である3小節めにやってくる標準型。
モーツァルト「ソナタKV545、第一楽章」
また、四つのフレーズで成り立っている大楽節では、3つめのフレーズにピークがやってくる場合が多いです(譜例2)。このように3小節目、あるいは3つめフレーズにピークがくるタイプは、起承転結の形に近く、音楽の流れがもっとも自然に発展していきますから、標準型と言えるでしょう。
譜例2 ハッピーバースディ・トゥ・ユー 繰り返されるフレーズは、3回目に大きく発展することが多い。
標準型に対して、いきなり2小節目にピークがやってくるタイプのものもあります。
髪型の七・三分けにも、右横分け、左横分けがあるように、標準型が、音楽の右横分けなら、2小節目にピークがやってくるのは音楽の左横分けと言えるでしょう。
2小節目にいきなりピークを向かえるタイプは、初めに理想を夢見て、やがて長い時間をかけて現実に向かって下りていき、悲しみを味わったり、慰めを求める「ショパン型」のタイプに多いようです。それはまた、引き潮のように安らぎをも表現します(譜例3)。譜例3
ピークが、3対7の分岐点である2小節めにやってくる、ショパン型のタイプ。
ブルグミュラー「素直な心」
また、前半の4小節を「標準型」にし、後半の4小節を「ショパン型」に配したシンメトリータイプがあります(譜例4)。
初めの4小節で気持ちを盛り上げ、その勢いで次の4小節の前半部分において、最高の幸せを夢見ます。そして、その幸せが引いていく余韻も長くなります。
譜例4 「標準型」と「ショパン型」を対照的に配した、シンメトリータイプ。
「ララルー」