音楽教育にどう取り組むか。

1.音楽を表現するための、土台を育てる。

2.西洋音楽を表現するための、土台を育てる。

3.ピアノレッスンの実際。

4.教則本を巡る諸事情。〜なぜ今日でもバイエルなのか。

5.グループレッスンの長所と問題点。

6.弾くことの自立を、育てる方法。

7.なぜ、ビアノを演奏するのか。

8.心の成長と、音楽。〜子どもは、非日常の世界に住んでいる。

9.通過儀礼としての音楽教育

10.部分を強化し過ぎると、全体が弱くなる。

11.なぜバッハを、ショパンのように弾いてはいけないのかが見えてくる。

12.オンリー1を目指す。


1.音楽を表現するための土台を育てる。

音楽教育の目的は、「感性」と「情操」を育てることとされています。「感性」とは、ある物事の中から、本当に価値のあるものを感じ取る能力のことです。それは音楽作品の中だけではなく、あらゆる文芸作品、スポーツ、あるいは人間関係に至るまでの、個人を取り巻く環境すべてにおいてを含みます。また「情操」とは本当に価値のあるものに近づきたいという感情のことをいいます。

音楽教育の底辺に携わるものとして、最近感じることは、現代の子どもたちは、感性と情操を自分の身近な生活のなかで育てるということが難しい環境にあるのではないかということです。
安全で便利な生活を維持向上するために、自然は、ますますコンクリートで塗り固められ、河川や海、空気は汚染される一方です。凶悪事件が日常化する現代では、子どもたちは、積極的に外出することも容易ではありません。大自然の懐のなかで、自分と自然との関わり合いを持つ体験ができないでいます。

また、幼い頃から、複数の習い事を掛け持ちすることも多く、人間関係の結びつきも希薄になっています。確かに、塾などでは、先生や友達とのコミュニケーションは存在しますが、それは画一的な枠組み内でのコミュニケーションであり、自由意志による遊びなどを通じた、友達や大人たちとの生き生きとした人間関係は期待できそうもありません。
また父親は残業で帰りが遅く、母親も仕事で家を空ける時間が長くなります。その結果、親子の絆が希薄になることもあります。子どもたちは、自分と他人とのつながりを見失いがちになっているのです。

人は、誰でも一人では生きていくことはできません。自然界の包容力があるからこそ、人間は存在し続けることができます。また、一人ひとりの個人が生きていけるのは、他の人間が、直接的にも間接的にも自分を支えているからです。
自分と、自然界や人間関係を含めた他者との有機的な結びつきを自覚し、その関係のなかで、自分も積極的に他者とのかかわりを持っていく。その過程で、大自然や人間への愛情、尊厳、慈愛などが自分のなかで育っていきます。

そういった実体験の積み重ねが、自分と他者との絆を深めていくことになり、本当に価値のあるものは何なのかということを感じることのできる「感性」が芽生えていくのでしょう。またそのことが、自分はこの世界でどう生きて行くべきか、自分は何が目的で生きているのかということの発見につながり、本当に価値のあるものに近づきたいという情操が育つのだと思います。
音楽を表現するというのは、実体験の中で育った感性を、音を通じて自分自身の内面から他者に向かって語りかけることです。
音楽教室は、音楽教育を通じて、子どものなかにある感性と情操とを育てる機会の場を提供することはできます。しかし音楽教室で楽器の弾き方を習う前に、子ども自身のなかで、ある程度、子どもの年齢にふさわしい感性と情操の芽が芽生えていなければならないのではないかと思います。音楽教室に通ったからといって、必ずしも感性と情操が芽生えるとは限らないのです。

私たちの文明社会は、物を消費することで成り立っています。自然を破壊してまで行われる無意味な公共事業、消費者を煽るニューモデルチェンジなど、私たちは生きるために、自然破壊、飽食、使い捨てを前提として仕事を増やし維持していくことを余儀なくされています。
もし今、そういった大量消費生活を否定してしまえば、大多数の人々がリストラにより失業してしまうでしょう。こういった大量消費を前提として成り立っている社会では、物質的な豊かさを追求することが目標となってきます。
学校の勉強も、大量消費生活を維持する資本主義社会を支える官界や、会社というシステムにうまく組み込むために、子どもたちはマニュアルに沿って知識を詰め込まれていることが多いでしょう。勉強の目的が、自分が本当に価値のあるものに近づきたいという感情に突き動かされているのではなく、システムのレールに乗るために常に受動的になってしまいます。そのために、無気力、無感動、真剣さの欠如が子どもたちに目立ってきます。
物質的豊かさを追求する道のりで、自分と他者との関係が疎遠になってしまい、感性も情操も育たないまま、若者は自分探しの旅をするのです。

しかし、自然を破壊しなくても、あるいは一つの物を長いあいだ大切に使っていくようになっても、仕事がなくならないようにする(生活していける)「知恵」というものが、この混沌とした、「現代」という時代を通過する過程で、やがて少しずつ編み出されていくのではないでしょうか。その知恵を将来に渡って生み出していかなくてはならない主役が、今の子どもたちということになるでしょう。
そのためには、大人は普段の生活の中で、子どもたちにできるだけ自然体験や、有機的な結びつきによる人間関係の体験を豊富に経験させ、感性と情操を育めるような環境を与えなければならないでしょう。

音楽教室で、音楽を美しく、生き生きと表現できる子どもたちというのは、実は、楽器の弾き方を習う前に、そうした感性と情操の芽を持った子どもたちなのです。ですから、繰り返しになりますが、音楽教室が、無の状態から感性と情操の芽を、発芽させるような万能な機能は必ずしもないのです。ただ、子どもたちの実体験によって芽吹かれた感性と情操を、音楽を通じて増幅したり、発展させる手伝いをするだけです。
音楽の中で本当に価値のあるものというのは、楽曲に込められた、美しさ、清らかさ、悲しみへの共感、勇気、希望、真実、善、愛情、などです。子どもたちは、曲のなかのそういった価値のあるものに触れて啓発されることで、自分のなかにある感性が震え、情操が膨らむのです。
ですから、音楽を表現するための、もともとの土台というのは、家庭での子どもたちを取り巻く環境の在り方に左右されるといっても過言ではないでしょう。

2.西洋音楽を表現するための、土台を育てる。

音楽を、理解するとはどういうことなのでしょうか。
歴史学者の阿部謹也氏は、理解するということの定義を「理解するとは、そのもののなかに自分と共通の何か基本的なものを発見することからはじまる」と述べています。
たとえば、自分が誰かと親しくなった場合、なぜ親しくなれたのかを考えてみると、その人のなかに、自分と共通する何かが存在することを見つけられたからでしょう。その人を理解することができたのです。

音楽もそれと同じで、自分にとって理解できる音楽とは、その音楽の中に自分と共通な何かを見つけることのできる音楽なのではないでしょうか。
流行歌やポップスなどは大衆に支持されますが、その支持される理由は、一般大衆の人々にとって、その音楽の中に自分を容易に見つけやすいからだと思います。ポップスというのは、ピープル(大衆)が語源とされていて、その時代の最先端の空気を反映したものです。
それに対してクラシック音楽のクラシックというのは、一つ上の、という意味の「クラス」が語源になっていて、流行に流されない普遍的な内容を兼ね備えているもののことをいいます。ですからクラシック音楽とは、それがただ単に古い音楽だからクラシックと呼ばれているのではなく、時代や世代の垣根を越えた普遍的な美、清らかさ、悲しみ、希望、喜び、などを表現します。
ですから、西洋クラシックは、本来誰にでも理解できるものなのです。しかし、日本人にとっては、その音楽の語り口が、あまりにも西欧的なので取り付きにくいものになっているようです。

ピアノという楽器は、もともとは西洋音楽を演奏するためにあります。そこに基本的に用意されている音律は「ドレミファソラシド」です。日本人、あるいは日本人の子どもたちは、この西洋音律の中にどれだけ自分を見ることができるでしょうか。
日本の子どもたちは、日本に住んでいる以上、正月、四季などに伴う祭り、行事、芸能、などに接します。そこで繰り広げられる音楽は、紛れもなく邦楽です。また、子どもたちが歌う、童謡、唱歌などは、邦楽と洋楽が折衷したものですが、その両者に共通に用いられる音階は、俗に言われるヨナ抜き音階である「ドレミ・ソラ・ド」です。
日本の子どもたちは、そのヨナ抜き音階に、自分を容易に見ることができます。自分が四季折々に接した日本の行事と共に演奏されていた邦楽の実体験を、ヨナ抜き音階の響きのなかに無意識のうちに重ね合わせるからでしょう。
しかし、ピアノを習うということは、基本的に西洋音楽を演奏することを前提としています。教則本も、練習する曲集も、みな完全な「ドレミファソラシド」で成り立っています。もし西洋音律そのものに、親しみや美しさが感じられなければ、どうやってピアノを練習すれば良いのでしょうか。
「ドレミファソラシド」が多用されるソナチネ、あるいはモーツァルト、ベートーヴェンなどは、全く弾きようがないように思われます。日本の子どもたちは「ドレミ・ソラ・ド」は好きですが、この「ドレミファソラシド」の響きは苦手なのです。

作曲家の中田喜直氏は、ヨナ抜き音階は、人間の心にある清らかさ、喜び、美しさなど表現することには全く適さないから、子どもには、これまでの伝統的な童謡、唱歌などは接しさせないほうが良いと述べています。
また、ピアノ教育家の中村菊子さんは、子どもには、初めの段階で、西洋の本物の音楽を弾かせるべきだと述べています。これらは両方とも極端な意見だとは思いますが、逆にいえば、子どもたちが西洋音楽を理解するためには、幼い頃に西洋音律に、いかになじむことが大切かを強調なさっているのではないでしょうか。

西欧の子どもたちはどうなのかというと、おそらく彼らは、幼い頃から、教会に通ったり、四季折々のキリスト教の行事に伴う音楽などを通じて、純粋な西洋音律の音楽を充分に体験しているでしょう。そのために、西欧の子どもたちにとっては、ピアノを弾くということは、自分たちの生活の延長として、自然な行為として感じられているのではないでしょうか。
日本人の子どもたちも、幼い頃に西欧に住んでいたり、キリスト教的環境で育った子どもたちは、違和感なくピアノなどの西洋楽器が演奏できるようです。

私のピアノ教師としての経験では、純粋に日本人的環境で育った普通の子どもたちは、ピアノの練習の時に、何か生理的な嫌悪感のようなものを常に感じているのではないかと見受けられることがあります。つまり、日本の子どもたちは、練習している西洋音楽に、自分を見つけることができない、理解することができないまま練習しているわけです。
こういった嫌悪感を少しでも取り省くには、やはり家庭で、子どもを取り巻く生活の中で、自然に西洋音楽に接する環境が整っていることが大切だと思います。もし、家庭でテレビが付けっぱなしであったら、たまにはテレビのスイッチを切って、ライトなクラシック音楽を流すような状況であればと思います。
あるいは、子どもが自分の好きな時間と好きな場所で、ディズニーの音楽(英語版)や、チャイコフスキーのバレー音楽、ウイーン少年合唱団、ヨーロッパの民謡集、ヨーデルなどを聴くことのできる環境を整えるのも良いことだと思います。

3.ピアノレッスンの実際。

ピアノのレッスンを充実させるためには、家庭での練習が欠かせませんが、練習する習慣というものは、ご両親が「練習しなさい」と言ってみたところで、にわかにはうまくいくわけではありません。ピアノの練習を習慣づけるためには、ピアノに限らず、日ごろから自分のことは自分の責任でやり遂げる習慣があるかどうかが重要なポイントになります。
たとえば、子どもたちは普通、幼い頃から、トイレのしつけなどを皮切りに、自分のことは自分でできるようにご両親にしつけされます。幼稚園に入園するほどの年齢になれば、自分で食べたあとの食器を、流しに運ぶくらいのことはできます。また、子どもの年齢を配慮して、花の水やりなどの家庭の雑用を子どもに任せることで、自分が家族の一員として責任のある立場であることを自覚させ、責任感と自立を促すのです。

そういったことが身についている子どもたちは、しつけもよくできており、家でのピアノの練習も自然に習慣化するようです。
しかし、しばしば先生は、しつけもできていなく我がままほうだいな生徒に悩まされます。そういう時に限って「レッスンは厳しくお願いします」とご両親に言われますが、これはやはり家庭の在り方の問題であって、にわかにレッスンを厳しくしても意味がないように思います。
私の経験では、こういう場合に、先生が本当に厳しくしてしまうと、より状況が悪化してしまいます。私の場合は、まず生徒にやりたいだけ好きなことをやらせて(壊されては困るものはどこかにしまっておきます)、常に子どもと会話を交わすことで、子どもを少しでも理解するように努めます。そしてお互いに信頼関係が結べるようになってくれば、正常なレッスンに近づくことができます。

自分で楽譜を読み、楽器を弾けるようにするということ自体は、テクニックを学ぶことであり、正しいお手本の模倣から入ることになります。これがもし、子どもに絵を描かせるのであったら、特別なテクニックは必要ではなく、子どもが感じたとうりに、想像力をもって自由に描かせるでしょう。模倣よりも、自由な想像力を優先させるのです。
私は、ピアノのレッスンでも、絵を描くのと同じようにできたらどんなに良いことだろうと思います。しかし、実際には、絵を描くようにうまくいかないのが実状です。

というのも、私は、自分で楽譜を読みながら弾くことを学ぶということは、「音楽」という新しい言語を学ぶことだと解釈しています。音楽という新しい言語を覚え、自分でも使えることで、新しい世界に入っていけるのだと思います。
ですから、音楽教室で、音楽を学ぶというのは、外国語を学ぶのと似ていると思います。外国語教室では、アルファベットを覚え、単語や文法を学びます。そのうえ、例文を読み、自分で口に出して会話し、それぞれの外国語をマスターするわけです。外国語がマスターできれば、異文化の国々から新しい世界を学び実体験できます。しかし、その学ぶ過程は、模倣が主流になるでしょう。
音楽教室で音楽を学ぶ過程も、それに良く似ています。音符というアルファベットを学び、フレーズという単語を覚える。さらに和声進行に基づいたメロディーの自然な流れを学びます。必然的に模倣することが中心になってきます。

したがって、子どもに、音符の読み書きと楽器の弾き方を習わせるのは、早くとも母国語の読み書きを始める年齢である5〜6歳頃からが最適でしょう。それ以下の年齢では、自然体験と、人間関係の絆を深めることで感性と情操を育てることと、できれば豊かな音楽的環境の下で西洋音楽を理解するための土台を築くことの方が優先されなくてはならないでしょう。
3歳ぐらいから本格的な音楽のレッスンを始めることは、子どもの感性がすばらしく豊かで、家庭がよほど豊かな音楽的環境でない限り効果はなく、そういう土台が育っていない子どもにとって、早期レッスンは、苦痛を与えるだけで無意味でしょう。
欧米では、子どもに音楽教室に通わせるのは、平均して、子ども自我が確立する10歳くらいからで、しかも、自ら音楽を学びたいと希望する子どもだけです。これはたいへん賢明な選択ではないでしょうか。

音楽教室では、譜読みや楽器の弾き方のテクニックを学ぶだけかといったら、もちろんそれだけではありません。ある程度、音楽という新しい言語を身に付けた段階になれば、今度は、楽曲のなかに本当に価値のあるものは何なのだろうかということを見つけることをします。
その時、先生は、自分の考えを押し付けたり、いきなり答えを教えてしまうのではなく、ヒントを与えながら生徒と一緒になって、楽曲のなかにどういった価値のあるものが潜んでいるのかを感じるようにします。先生は、あくまでも生徒の感性と情操を、育てるという方向で導かなければなりません。

4.教則本を巡る諸事情。〜なぜ今日でもバイエルなのか。

子どもにピアノを教えるときに、どういうテキストや教則本を選ぶか、ピアノの先生にとっては常に悩みの種です。今日では、教則本にまつわる様々な情報があふれていて、新しいものを試してみては、ほとんどが満足のゆく結果には至らなく、がっかりすることがしばしばです。
いろいろ試してみた結論として、西洋音楽体験の少ない日本の子どもたちにとっては、歌を歌うことと、メインの教則本としてはバイエルを用いざるをおえないということになります。

バイエルは、時代おくれであるとか、時代性が偏っているなどと批判されています。しかし、現在紹介されている欧米の教則本を、日本の子どもたちに用いてみると、なかなかすんなりと弾きたがらないのです。子どもたちの生の意見では、「赤ちゃんぽくていやだ」と言います。
これらの教則本は、現代の欧米の子どもたちの生活に身近なフォークソングや、わらべ歌などの楽曲から弾くようになっています。歌詞つきのものは、日本語で訳されていますが、その翻訳が日本の子どもたちが普段絶対使わないような幼い口調の言葉になっていて、日本の子どもたちは白けてしまいます。
またセサミストリート的な異国的雰囲気が漂っていて、何か違和感を感じてならないようです。日本人として育っている自分の姿を、それらの楽曲に見つけられないようです。
また、全調を弾くようになっている教則本では、絶対音感が身につかないという指摘もされていますし、第一、弾くこと自体が難しいようです。
一部の先生が述べているように、初めから本物の音楽であるバッハやモーツァルトを弾くようにするというのも、無理な話で、よほどの才能のある子どもでなければ実現不可能です。それでも先生が弾き方を強引にインプットすれば、生徒は、自分の力で譜面を読むことができないまま、いつか萎んでしまいます。

なんだかんだと言っても、子どもたちはバイエルだけは何とか弾いてくれます。なぜバイエルだけは弾くのだろうかと想像してみると、おそらくバイエルと、日本の童謡、唱歌との歴史的なつながりにヒントがあるような気がします。
バイエルは、メーソンによって明治時代(1876年)に持ちこまれました。小学校唱歌を指導する、音楽教師のピアノ学習用としてです。小学校唱歌自体は、讃美歌のメロディーが引用されることが多かったようです。
そうすると、小学校の音楽の先生としては、伴奏をつけて讃美歌が弾ける程度のピアノの力量さえあれば充分なわけで、バイエルは、その程度のテクニックを短期間に身につけるためには最適だったのではないでしょうか。

また個人的な意見ですが、バイエルは、教則本としてだけではなく、初めての西洋音楽そのものを学ぶ教本としての意味も大きかったのだと思います。讃美歌とともに、バイエルで学んだ西洋音楽のエッセンスと技法とを元にして、明治以降の日本人の作曲家は、日本の風土に合った和洋折衷の新しい「洋楽調音楽」を創作していったのだと思います。

明治時代から今日に至るまで、日本人作曲家によって創作された童謡唱歌は、今では失われつつある日本の風土の美しさ、清楚さなどの情感を、バイエル的洋楽調の旋律に乗せています。私たちは、そういった音楽に、日本的な美を感じとっていますが、その反面「音感」教育的にはバイエル的シンプルさから抜け出ていないのも事実です。日本人の西洋音楽の下地は、良くも悪くも、バイエル的なものの影響下にあります。
バイエルは、日本人と西洋音楽が出会い、融合していく歴史的事情があり、そのことを私たちは無視するわけにはいかないのです。バイエルが、明治時代から現代の約一世紀のあいだ、日本で連綿と使われつづけた理由は、日本における洋楽の歴史と、日本人の感性との相性にあったのではないでしょうか。

そういった理由で、今日でもバイエルが使われているわけですが、とくに今日、バイエルで問題になるのは、ピアノの手ほどきの初めの段階で、バイエルの初めの、あの無機的な音形を弾かされることです。それでも子どもに無理強いれば、すぐにピアノが嫌いになってしまいます。
今日では、子どもたちに身近なメロディーを片手ずつ弾くバイエル導入本が、各種出版されていますから、それらの導入本をていねいにさらえば、バイエルのあの初めのいやな部分は省略できると思います。
また、導入初期の段階では、弾くことよりも歌うことを実践することの方が重要です。
歌うことは、絵を描くのと同じように特別なテクニックは必要ではありません(子どもの場合は)。音程が多少外れていても、歌うことが楽しいと感じられる音楽体験を豊富に持つことのほうが、音楽の土台づくりには有効でしょう。
用いる楽曲は、日本の童謡唱歌でも良いと思います(前述したように、中田喜直氏は、ヨナ抜き音階で構成されている曲は、ダメだと述べておられますが、私個人の考えでは問題ないと思っています)。
しだいに、外国の民謡も慣れ親しむようにすれば、西洋音楽を理解するための土台づくりに大いに役に立つはずです。

5.グループレッスンの長所と問題点。

日本の場合、子どもたちは教育の一環として、様々な習い事に通わせられます。その目的は、それぞれの専門分野に広く浅く慣れ親しむことで、何かしらの教養や素養が身につくようにということです。
音楽教室も例外ではなく、今日求められていることは、音楽の専門家を養成するのではなく、子どもたちに、広く浅く音楽に親しむ総合音楽教育を施してほしいということだと思います。
その中でも、それぞれの楽器メーカーの音楽振興会が企画するグループレッスンは、より大衆的に総合音楽教育を施す機関としての機能を果たしているようです。
グループでレッスンを行うことの長所は、一人の時よりも、みんなでやったほうがノリがよく、楽しいということが挙げられます。音楽の土台は、ゆたかな音楽体験に委ねられますが、そのための歌ったり、リズムに乗ってからだを動かしたりというエクササイズが、グループレッスンだと効果的に行いやすいということがあります。
しかし、グループレッスンでは、一つ大きな問題点を残します。
弾くことの手ほどきをグループレッスンで経験した場合、生徒は自分の力で楽譜を読みながら弾くことが育ちにくいのです。その原因は、レッスンがナビゲーションシステムになっているからだと思います。

たとえばカーナビゲーションシステムは、機械が道のりの案内を代行してくれます。運転者は機械の指示に従って運転をしていれば、自動的に目的地へたどり着くことができます。カーナビゲーションは便利である反面、運転者が道を覚えないという欠点があるといいます。
グループレッスンでは、不特定多数の子どもたちがやってきます。その子どもたち全員にもれなく楽器を弾かせるには、「楽譜」という音楽の地図をていねいに読ませることよりも、弾く手順を直接案内して教え込んだほうが効率が良いのです。
また、ていねいに楽譜を読ませようと意図したとしても、全員横並びにステップを通過しなくてはならないので、進度の遅れぎみの子どもは、早い子どもに合わせていかなければならず、よけいに他人の見よう見真似で終わってしまいます。
そうすると、子どもたちは楽譜を自分自身の目で見ることをしなくなり、自分の手ばかりを見るようになり、先生の案内してくれるのをジッと待つだけになってしまいます。そうすると、自分の力で楽譜をよんで、鍵盤を見ないで手の感覚だけで弾くという「タッチタイピング」が身につかなくなってしまうのです。

ピアノという楽器は、楽譜が全く読めなかったとしても、弾くことは可能です。たとえば「ネコふんじゃった」という曲は、見よう見真似で誰でもが弾くことができます。鍵盤の模様を覚えてしまえば良いのです。
また、今日では、鍵盤にランプが点灯して、弾く順番を案内してくれるナビゲーション機能のついているキーボードも発売されていますが、この楽器も、弾くことの自立を育てません。
楽譜を自分で読まずに他人の弾くのを目で見るか、あるいは耳で聴いて覚え真似することでしか楽器を弾けない病気を、私は「ネコふんじゃった症候群」と呼んでいます。グループレッスンは、こういった「ネコふんじゃっ症候群」の子どもたちを数多くつくりだしているのです。
音楽を広く浅く体験することで、音楽による教育効果を期待するという日本人の需要に応えることでは、グループレッスンは成功しているのかもしれません。しかし、音楽を表現するための自立を育てるということが、音楽教育の理念の一つに含めるのなら、日本のグループレッスンの在り方には、明らかに改善の余地が残るように思います。
もしグループレッスンを実りのあるものにするのなら、グループレッスンでは音楽体験の土台(音楽を聴いたり歌ったり、リズムに合わせてからだを動かすなど)を育てることのみに徹して、弾くこと自体の手ほどきは個人レッスンで行うようにすると良いでしょう。
弾くことの自立が身についたら、再度グループレッスンにし、お互いの演奏や、創作した作品を批評し合い、自分たちの力で問題を解決できるようにします。そのようにして、グループと個人レッスンとを並行して行われることが、理想的なレッスンの在り方になると思われます。

6.弾くことの自立を、育てる方法。

弾く手ほどきを、初めから個人レッスンで行ったのに、バイエル終了目前になって、生徒が全く音符を読むことができなかったことに気づくというとが、しばしば起こります。
その主な原因は、先生が、生徒の譜読みを代行しながらレッスンを続けてきたからです。
たとえば、先生が生徒の楽譜に音名の読み仮名を書き込み過ぎたり、生徒に楽譜を読ませる手順を省略し、先生の弾くのを直接真似させるなどです。個人レッスンでも、先生がナビゲーターになってしまう可能性はあるわけです。
生徒に読譜力を身につけさせるためには、生徒自身が、自ら音符を読むように方向づけをします。たとえば初めに「ドレミファソ」の読み方を教えたら、それ以降は生徒自身の力で、その音が何なのかを楽譜を見ながら考えさせるのです。先生は、安易に答えを言ってはいけません。ヒントを与えつつ、逆に生徒に教えてもらうつもりで指導します。

譜読みが上手な人は、音符の流れを図形のように認識します。生徒には、音形を視覚的に具体化する必要があります。たとえばドレミは「上り坂」、さかさのミレドは「下り坂」、さらにその両方が合わさったドレミレドは「丘」というように、視覚でイメージできるようにします。
その他にも、山や谷、のこぎり山、鳥の羽が舞い上がったような形、など、メロディーラインの動きは多種多様です。その音形独特の形を、生徒自身に指摘してもらうように導きます。
また、生徒がつっかえてしまって困っている場合は、「こんどは、どっちへいく?」とか、「途中に音の隙間があったね」などのヒントを与えるのです。あまり音名そのものである「答え」を教えないほうが良いようです。
また、生徒が間違えた場合、間違えた瞬間を捕まえてすぐに指摘するのではなく、まず全体を弾かせて、その後に、間違った場所に対してのヒントを与えたほうが、生徒自ら、自分の演奏を省みる習慣がつくようになります。先生は、失敗を回避することを考えるのではなく、生徒に間違いを受容させて、その上で、生徒自ら間違いに気づかせることを学ばせるのです。

教えるというのは「答え」を言ってしまうことであり、育てるというのは「答え」を直接言いません。音楽の表現方法についても、先生の感性を一方通行的に押し付けるのでは、生徒自身の感性を発展させることができないのです。
まずは、生徒自身に感じて、考えてもらい、自分なりの答えを見つけてもらう。先生は、ヒントを与えながら、生徒と一緒になって表現を考えてみるのです。「ここはなぜ、そんなふうに聴こえるんだろう」とか、「この曲は、季節や天候はいつのことを表現しているのだろう」、「この曲のなかで、本当に価値のあるものとは何なんだろう」など、生徒と共に考えるのです。そうすると生徒は、表現においても自立して弾けるようになります。

ただ、ここで気をつけなくてはならないのは、幼い生徒に対してあまりにも「なぜなんだろう」を連発しないということです。生徒に考えさせるということは、ある程度突き放してしまうことでもあります。ですから、それが過ぎると、レッスンがかえってつまらなくなってしまうことがあります。
先生は、生徒の性格や年齢、成長度などを考えて、ここは教える、あそこは自分で考えてもらうというように、教える育てるの両方のバランスを図ることが大切です。

7.なぜ、ピアノを演奏するのか。

心理学者のエーリッヒ・フロムは「haveの時代は終わった。これからはbeの時代だ」と言います。これは「持つ」ということから、自分が「在る」ために何が必要なのか、価値観を替えないとこれからの時代はダメだということです。
たとえば、人は高価なものを持つことに喜びを感じますが、本当は、そのものを持ったことで、その人の在り方がどう変わったのか、そのことのほうが大切になります。もし全然変わらなければ、そのものを持ったとしても、その人にとっては価値のないのも同然ということになります。
学校や塾でも「できるだけ知識を持て、詰め込め」というように授業が進められることがありますが、あれだけ膨大な知識を持たされたところで、みんな自分の考え方や感じ方が変わったのかどうか疑問に思います。「持つ」ことを目的にした勉強は、やっていて切なくなります。もし自分が「在る」ために勉強するのなら、学校を巡る事情もずいぶん変わることになるでしょう。

こういった問題は、音楽教育にも起こることがあります。
人は、ピアノを演奏することの価値基準を、いかにテクニックを持つかとか、どれくらい超絶技巧のレパートリー曲を持つかということに置きがちになります。しかし、「持つ」ことを目的に練習をしていると、練習そのものが辛くなります。自分が何のためにピアノを弾いているのか、分からなくなってしまうのです。
音楽というものが、自分の心の内面に作用し、同時に自分の在り方を変えるものだということを思い出せば、レッスンが再び楽しくなっていくことでしょう。

先生が、陥りやすいことの一つに、生徒に、必要以上のテクニックや超絶技巧曲を持たせようとするあまり、生徒の成長を助長してしまうということがあります。
「助長」とは、孟子に登場する言葉で、苗が自ら成長するのを待ちきれずに、苗の穂先を引っ張って枯らしてしまうことを意味しています。
小学生でショパンやリスト等の難曲ばかりを弾く子どもが、音楽大学に入る頃には落ちこぼれてしまっているという話しは良く聞きます。標準的な子どもでも、先生がナビゲーター役を務めれば、楽譜が読めない状態でもバイエルくらいなら終了程度まで弾かせることができます。まして、器用な子どもなら、先生が教え込み徹底的に引っ張り上げれば、大人を驚かすほどの演奏をすることは可能でしょう。
引っ張り上げれば、子どもはどこまでも伸びるということを目の当たりにすると、素直に驚いたり感心したりせざるおえません。しかし、引っ張りすぎて将来切れてしまうことはないのだろうかと、危うい一面に様々な想いが過ぎります。

教育という言葉は、「教える」と「育てる」の両方の字が使われています。どちらか一方に片寄り過ぎるのは中庸性を失い、教育にならなくなってしまいます。教え込んで引っ張り上げることは、単なるパフォーマーを作りあげているだけではないでしょうか。
将来に渡って、音楽を理解し、感性と情操を保ちながら、自分の在り方のために演奏する力を育てるには、目に見える成果だけを目的にした、助長する教育は好ましくないでしょう。

8.心の成長と音楽。〜子どもは、非日常の世界に住んでいる。

人間の心は、「感じる心」と「考える心」の二つの領域があります。動物の心は、非言語からなる「感じる心」でほぼ支配されているでしょう。動物は、闘争本能、母性本能、性本能など良くも悪くも、自分の感じるままに行動します。
しかし、人間は、言葉を獲得して以来、「考える心」が芽生えるようになり、今日では、人間の日常に生きている世界は考える心に支配されています。
それに対して、「感じる心」とは、非日常の世界に生きる心であって、いつも感じている人というのは、日常の世界にいる人から見ると、奇妙な世界にすんでいる人に見えることがあります。
自分が「怒っている私」というものを感じていれば、すでにその人は非日常の世界に入っています。こちら側にいる人にとっては、そういう人には近づかないでおこうと思うでしょう。
また、さめざめと泣いている人も非日常の世界へ行ってしまっていますから、日常世界から声をかけて慰めるよりも、その人の心が癒えて、日常の世界に戻ってくるまで待っている方が良いでしょう。
どうしても慰めてあげたい場合は、慰める人も、まるで自分のことのようにその悲しみを感じることで、共に非日常の世界に入り、悲しみを分かち合うことができます。


音楽は、感じる心の領域に開かれています。悲しいときは、悲しい音楽を聴くと良いとよく言われますが、これは感じる心の領域の中で、悲しみに浸り、悲しみを共有することで、心が慰められるからでしょう。
音楽を演奏するときも同じで、演奏者は初めの一音を発した瞬間から、幻想(非日常)の中へ入りこみます。そのために、演奏中にカメラのフラッシュを焚かれたり、話し声が聞こえたりすると、演奏者はたちまち日常に戻ってしまい、暗譜を忘れたり演奏に集中できなくなることがあります。
また、演奏が良ければ良いほど音楽の非日常の世界から日常に戻るのに時間がかかり、たとえばシューベルトの「冬の旅」の終演後ように、幻想から覚めるまで、しばらく拍手さえできなくなることがあります(覚めきれないうちに拍手をする人がいるのは困ったものです)。

しかし、西洋音楽は、心の半分は理性をつかさどる考える心の世界に踏み止まっていなくてはなりません。西洋音楽の場合、言葉のように音楽を語りかけることで、演奏者、聴衆、共々に悟性を導くことがあるからです。
いくら感情豊かに演奏しても、半分は日常世界を意識していないと、日常世界側にいる聴衆には、あちら側の世界に行ったきり戻ってこない変な演奏としか認識されません。感じる世界に溺れきっている演奏は、理性のないルーズな演奏に陥り、一人よがりでしかないのです。
演奏家が眉間にしわを寄せて辛そうに演奏することがありますが、それは、自分の意識が非日常世界に飲み込まれないように必死に耐えている姿のように見えます。

人間の心は、子どもの頃は、ほとんど非日常の世界に生きているでしょう。悲しいと感じたときはいつでも人前で泣いてしまうし、喜びを感じたときは、からだ全体でその気持ちを表現します(つまり暴れる)。
ピアノの先生は、子どもを相手にするときは、意識を非日常の感じる心までに替えないと、子どもと心が通じないことがあります。たとえば「さあ、弾いて」と言うよりも、「先生に聞かせてくれる?」と、情に通じるように会話した方が良いでしょう。
ソルフェージュも、いかにも教育的な音形を歌わせるものより、西欧の民謡のようなもの(ヤマハの「きれいにうたいましょう」シリーズのような)を歌った方が感情移入ができるでしょう。先生は、技術先行のものよりも、感じる心が優先されるテキストを選ぶ必要があります。

子どもは、やがて言葉を巧みに使えるようになってくると、日常の世界である考える心の領域側に移行します。大人になるということは、私=「考える自我」で支配されるということです。子どもの頃は、「感じる心」こそが私でした。気がつけば、自分はいつのまにか考える自我だけになっています。子どもの頃の、感じる私を懐かしく思い、非言語世界である感じる世界をしばしば回顧することがあります。
生徒も小学生のうちは、自分のまわりの感じた世界のことを話してくれるのですが、しかし、ある時期に、急に無口になりていねいな言葉使いに変化することがあります。その時に、この子はついにこちら側の世界に移行したのだなと感慨深くなるのです。

近年では、知育を中心とした教育の低年齢化が進んでいます。極端なものでは、幼児の頃に、人工的にできるだけ言葉を獲得させ、考える心をひっぱり上げようとするものもあります。それは、考える心が人間の本当の心であって、感じる心というものは、もはや心とは言わないのだという認識を持っている教育者が存在するということなのでしょう。
ピアノ教育の底辺に携わっているものとして、現代の子どもたちは感じる心の成長が不充分なのではないかと思われる場面に遭遇することがあります。自ら弾いた音楽を感じていないのです。それはあたかも、プリントをこなすかのように、曲を処理しているかのようです。

本当に価値のあるものを感じる「感性」は、頭で考えた冷たい心だけでは育たないでしょう。子どもの頃の、人間関係や自然などの他者を通じた、生き生きとしたコミュニケーションによって、本当に価値のあるものは何なのかということを感じる心が育つのだと思います。
音楽の才能とは、感性の豊かさと、理性の深さの両方を中庸性をもって兼ね備えることでしょう。感じる心と考える心の中庸を保ちながら、音楽的にはもちろんのこと、人間的にも、子どもの成長を見守ることが大切なのではないでしょうか。

9.通過儀礼としての音楽教育。

人間の心の内面は、様々な節目を通過することで、子どもから大人に成長します。そういった、古い自分から新しい自分に成長する節目を通過することを通過儀礼と言います。
古代社会の通過儀礼では、大人の年齢に近づいた若者を、成人としての資格があるかどうかを試練を与えて試すということが行われていました。今日では、バヌアツの原住民がおこなった男子が成人になるための「ランドダイビング」などが通過儀礼の例として有名です。この儀式は、毎年4〜5月に行われ、この時期になると、大人の年齢に近づいた若者たちを集め、足首に木のツルで編んだロープを巻きつけ、約25メートルの高さから飛び降りるという試練を与えるというものです。その試練に耐える勇気を持ったものだけが、村社会で大人として認められるといいます。
飛び降りるということには一つの意味があり、飛び降りることで子どもだった古い自分が死に、恐怖を乗り越えた時点で新しく大人として生まれ変わった自分になれるというわけです。これは死と、生の再生のドラマでもあったのです。

通過儀礼は、儀式が伴わなくても、古い自分から新しい自分へと在り方が変わるという実体があれば通過儀礼と考えることができます。したがって、スポーツをしたりボランティアに励むということ等も、通過儀礼になります。そうすると、音楽を自ら演奏することで自分の在り方を変えるということでは、音楽教室に通うというのも、通過儀礼の一つと考えて良いでしょう。
音楽教育家の大村典子さんは、生徒が新しくレッスンを始める直前に、生徒とその家族全員に教室へ来てもらって「入門式」を行うと言います。これは、生徒やその家族に「これからピアノを習い始めることで、お互いの在り方が変わって行く」ということを自覚させる、通過儀礼のための儀式になっているのだと思います。実際、生徒と先生は、師弟関係を結ぶことで、レッスンを通じてお互いを成長させいくことになります。

通過儀礼は、通過する前後よりも、通過しようとしている移行期間の真っ最中が、心が不安定になります。たとえば目の前の川を泳いで、向こうの岸へ渡りきれば新しい自分になれるとします。ところが泳いでいるときに、川の勢いに流されそうになってしまい、先へ行こうか、後へ戻ろうか心が揺れ動き思い悩むのです。
音楽教室でも、レッスンをうまく通過できず、生徒、先生共々、心が揺れ動き悩むことがあります。生徒が自ら望んで音楽教室に通っていない場合、生徒が自分自身を成長させることを自ら拒否してしまうこともあります。こういった虚無的な生徒を受け持った場合、先生が熱心であればあるほど、生徒は遠ざかってしまい、先生も生徒もお互いに傷つけ合ってしまうのです。

良い先生というのは、生徒にレッスンをうまく通過させてあげられる先生です。いくら精神論でたたみ込んでも、生徒はシラケてしまうだけで意味がありません。レッスンを拒否してしまう生徒には、まず会話を豊かに交わすことで、お互いを理解し合い、そうしたことがレッスンを良い方向へ向かえさせるため手段の一つになると思います。

また生徒がある時に、急に弾き方が乱暴になったり、先生に反抗することがあります。それは、先生に与えられた課題を通過できない苛立ちを、ピアノや先生にぶつけているのでしょう。
逆に、開いた楽譜をうつろに見ただけで弾く気力を失い、生気のない弾き方をする場合があります。それは課題を通過するのを、すでにあきらめてしまったのです。
そういった症状が見られるときは、生徒に課題として渡した楽曲や練習曲が、彼らにとっては通過できない一枚岩のように感じているのです。情操教育の一環として音楽教室に通っている生徒にとっては、音楽の専門家を目指すような課題を与えられてしまうとウンザリしてしまいます。また、自分の理解できない(その音楽の中に自分を見ることができない)音楽を弾かされるのも同じです。
生徒にレッスンをうまく通過させようと思えば、とくに初歩の段階では、その生徒にとって1〜2週間程度で通過できるようなレベルのものを課題として与えたほうが良いでしょう。

通過儀礼は、通過している最中がもっとも不安定ですから、知らず知らずの間にお互いの心を傷つけてしまうことがあります。しかしそれがお互いに成長していることの証しであり、ある程度はしかたのないことかもしれません。レッスンという通過儀礼をお互いにうまく通過するには、先生はそれぞれの生徒の求めるものを見極めて、最善の方法を模索していかなければならないでしょう。

10.部分を強化し過ぎると、全体が弱くなる。

テクニック至上主義という言葉があります。コンクールなどでは「日本人の演奏者は、指がよく動きテクニックはすばらしいが、心に訴えかけたり語りかける演奏をしない」とよく言われます。
これは、日本のピアノ教育が、テクニックという部分を強化し過ぎる傾向にあったため、本来の、自分自身の在り方を変えるという本来の演奏目的が失われてしまい、演奏全体の心と技の中庸性を欠いたためだと思います。
欠点を矯正し、より部分を強化していくという考え方は、音楽教育の現場で常に行われてきたことです。たとえば、先生が、子どもの指が弱いから、それを強化するために、特別に調整された重い鍵盤を弾かせたり、または、指のテクニックを強化する「ハノン」のような無機的な練習ばかりさせてしまうということがあります。
生徒が幼い場合や、初歩の段階で、弾くテクニックを完成させる練習を強制させると、生徒は弾くことの興味が萎えてしまうのです。まずは、今練習している楽曲の中で何が価値があるのかを見つけ、それを、今自分が持っている能力で限りなく豊かに表現してみることの方が優先されなくてはならないでしょう。
部分を強化するというやり方は、けっして間違いではありません。効果においては即効性があって、即、実用的だからです。しかし、全体のバランスを考えないで行えば、しばしば全体を弱体化させるという矛盾もはらんでいるのです。

初歩の段階で、とくに生徒が幼い場合、演奏に完成度をあまりにも高く求めるのも問題があります。リズムや音の部分的な歪みは、この段階では些細なことで、初めに音楽の大きな流れや、楽しさ、美しさを掴むことの方が優先されなくてはならないでしょう。
野口悠紀雄氏は、「良い教師とは、生徒のそれぞれの段階で、何が重要で、何が重要でないかを見分けることができる。教師が、重要なものと、そんでないものとが区別がつかない場合、重要でない些細なものを完璧にさせるために、生徒に無駄な勉強をさせてしまうことがある」と述べています。

そうすると、発表会での暗譜の強制というのも、考えなおさなければならないでしょう。子どもたちは音楽の専門家を目指しているわけではありませんし、まして発表会は、音楽大学の試験ではないのです。
なかには非常にデリケートな子どももいますから、そういう子どもにとって大勢の前での暗譜は酷というものです。
以前、私どもの発表会で、音を思い出すことができずに止まってしまい、立ち往生した生徒がおりましたが、その生徒は、それ以来二度とピアノを弾かなくなってしまいました。そういったことがあって「音楽を演奏するときに、目の前に楽譜があるかどうかは重要ではない。音楽を伸び伸びと豊かに表現することの方がより重要なのだ」という考えに至るようになりました。
発表会の時に、暗譜で弾くかどうかは、生徒自身に任せた方がよほど教育的だと思います。

しかし、いつもの練習では、できるだけ暗譜するようにとアドバイスをしています(タッチタイピングが身についてからの話しですが)。暗譜することで、音楽や指使いの流れなどの全体がしっかりと把握できるからです。いつも楽譜を見ながら弾いていたのでは、見ている部分にしか意識が集中できないのです。
全部暗譜が無理でも、少なくとも「左手で弾くカデンツの流れ、指使いの節目、ベースの定型だけでも覚えると良い」ぐらいはいつもアドバイスして良いでしょう。

11.なぜバッハを、ショパンのように弾いてはいけないのかが見えてくる。

古い時代のクラシック音楽を聴いていると、タイム・トラベルをしているように感じることがあります。たとえばバッハの楽曲を聴いていると、バッハと同じ時代に、今、自分が生きているような錯覚に囚われるのです。バッハを取り巻いている時代や、宗教、哲学、空気感などが、バッハの音楽を通じて感じられるからでしょう。
バッハ(1685〜1750)は、中部ドイツのアイゼナッハで生まれ、プロテスタントの教会のオルガニスト兼、楽長の職にありました。
プロテスタントは、信者一人ひとりが、神父などの代理人を通さずに、父なる天の神と個々の信者が直接聖霊という絆によってつながると解釈します。信者の誰もが、聖職者なのです。
バッハは、そのプロテスタントの教会の楽長だったので、バッハにとって音楽とは、音を通じた「説教」か、彼なりの宗教観を音楽に託したのだと思います。
キリスト教は、与える(無償の)愛である「アガペー」を本質的な教義としています。人間の罪を背負って自分を犠牲にし、十字架に張り付けになったイエスは、利他主義の愛=アガペーを象徴しているのです。

音楽は、どの時代のものも「愛」をテーマとして描いているものが少なくありません。しかし、もしバッハの音楽に「愛」を感じたら、それは、与える愛がテーマということになるでしょう。
バッハは、人間が原罪を背負ったことで、人々が気づいてしまった「生きる悲しみ」や、あるいは「理想の幸せ」を求めたいという切実な願いを音楽を通じて表現します(原罪とは、善悪を判断する自由を、人間が神の権利から獲得してしまった罪のことであるとされています。元々、善悪は神が判断する領域であって、被創造物である人間を含む、自然は、全て神の判断に委ねられていました。しかし、アダムとイブは、エデンの園の「知恵の実」を食べてしまい、自分達で善悪を判断することを余儀なくされてしまうのです。裸であった彼らが自らの裸身を覆い隠し始めたのも、裸であることが恥ずかしいということを自分達で判断した結果です。それ以来、人間は、判断する自由を獲得したがゆえに、(自ら解釈した様々な事柄に対して)矛盾や不条理に苦しみ悩むのでした)。バッハの生きていた時代のヨーロッパは、キリスト教の利他主義的愛が前面に流れていて、バッハの曲には、そういう時代背景が映し込まれているのです。

それに対して、たとえばショパン(1810〜1849)の音楽に感じる愛は、求める愛である「エロス」であることが多く、時にはその愛が叶えられない悲しみを表現していることも少なくありません。エロスとは、ギリシャ神話では「もともと人間というものは一つだったのだが、あるエピソードがきっかけで男と女に別れてしまった。エロスとは、その分かれてしまった双方が、また元の一つに戻りたいと願う気持ちのことをいう」とあります。

ショパンの生きた19世紀前半は、すでにフランス革命や、産業革命を経験しており、社会が成熟し、個人の主観というものを大いに主張した時代でもありました。ショパンの音楽は民衆に向けての「説教」ではなく、自分自身の内面に語りかけた、もっと個人的な「日記」のようなものに近いと言えるでしょう。

バッハもショパンも、その音楽は共にロマンチックです。しかし、そのロマン性は、けっして同質のものではありません。彼らの生きた時代そのものが、彼らを通じてそれぞれの作品に映し込まれているからです。なぜバッハを、ショパンのように弾いてはいけないのかという理由は、作曲家を取り巻いている背景全体をまるごと見ていけば理解できるわけです。

「音楽バカには、なるな」ということはよく言われることですが、これは「本当に意味のある演奏」をするためには、音楽という部分だけをやっていてはいけない、むしろ音楽の背景にある歴史、思想、宗教、哲学、科学、などの一般常識の「全体」をまるごと勉強しなさいということです。
コンクールに上位入賞した、テクニックばりばりの演奏家が、その後、意外に伸び悩んでしまうことがあるのは、彼らが楽器をいかに上手に弾くか、きれいに響かせるかという、「部分」だけにしか関心がない、という場合があるからかもしれません。人間のこと全般について興味がなければ、弾くためのテクニックだけを極めてみても、人を本当に心から感動させることはできないでしょう。

12.オンリー1を目指す。

少し前に、深夜のドキュメンタリー番組(NTV)で、盲目のテノール歌手の特集がオンエアーされていました。
彼は、沖縄県出身で、生後間もない頃に看護婦のミスで、目に劇薬を点眼されてしまい、失明してしまいました。在日アメリカ軍の兵士であった、彼の父親は、間もなく帰国してしまい、その後、彼は、不自由さといじめに耐え抜いて、40歳半ばの今日まで生き抜いてきたようです。

しかし、彼は、子どもの頃から、歌うことが大好きで、小学生の頃、よくお風呂屋さんの湯船に浸かりながら、大きな声で歌ったりしたそうです。その後、音楽大学の声楽科に進み、卒業後は各地の学校などを回って演奏活動を行なっているそうです。

ドキュメントの中では、ある中学校での演奏会の様子を紹介していました。
演奏会の中頃で、彼は演奏を聴いていた学生達に向かって、自分はこれまで「ナンバー1」を目指したのではなく、「オンリー1」を目指して歌い続けて来たと言いました。また、自分と母親を捨てた父親を恨み続け、さらに自分の目を失明させた看護婦を殺して、自分も死のうと思ったこともあるとも告白していました。
しかし、教会の牧師さんを始め、様々な心有る人々と出会い、また、歌が、音楽が、自分を支えてくれたというのです。自分が犯罪を犯さずに今まで生きてこれたのは、こういった人々との出会いと、音楽が自分を育てくれたからだと、しみじみと語っていました。

音楽は、自分の心を見つめさせ、自分という存在を音を通じて、表現することができます。その時に人間にとって、もっとも価値のあるものは何かということに気付かされるのです。音楽は、誰が一番であるとか競争するものではなく、これが自分の感じ方だ、これが自分だけの音楽だということを表現することです。また、音楽は、同時に人も育てるのです。

彼は、学生達に向かって「ナンバー1ではなく、オンリー1を目指してがんばってほしい」ということを、何回も繰り返し語っていました。
受験のために、常にナンバー1を目指している学生も少なくないでしょう。しかし、盲目である彼が、様々な困難をくぐり抜けることができたのも、時には犯罪さえも起こしかねなかった心を変えさせたのも、音楽を通じてオンリー1を目指した結果であるということが、彼の歌を聴けば誰もが納得するのでした。一人の人間の生きざまを歌を通じて、目の当たりにした学生達は、深い感動を持ったようでした。

これは、ある音楽教室での話しですが、ピアノが大変達者に弾くことができるある生徒が、発表会のプログラムの順番が一番最後でなかったので、大変がっかりしてしまい、発表会後に、その教室を辞めてしまったという話しを聞いたことがあります。
その生徒は、勉強の方でも、学内一番、二番を競うような生徒で、ピアノでも、常に自分が一番と思っていたのでしょう、それまでは、発表会のプログラムで、いつも最後を飾っていたのですから。でも、今回は、プログラムの最後ではなかったので、弾く気力が無くなったというのです。

生徒は、誰でもが、発表会のプラグラムの順番を見て、自分は誰それよりも上手だ、上手でないということを、自分で勝手に思い込み、気にします。しかし、実際のところ、発表会のプログラムの順番は、生徒の弾く技術力の巧稚よりも、曲の性格のバランスで並べることが多いような気がします。
曲が華やかなものが最後に来ることが多いと思いますが、技術力のある生徒が必ずしも華やかな曲を選ぶとは限らず、地味でも、より曲の内面性が豊かなものを選ぶこともあります。そうすると、そういう曲はプログラムの中頃に置かれることが多いでしょう。

音楽の専門家が演奏を聴く時は、それぞれの曲の中に、演奏者の、その人らしさがいかに表現されているかを聴きます。テクニックの巧稚よりも、感性の豊かさの方が価値があるのです。ですから、自分がプログラムの何番目に位置するかによって、一喜一憂するのは無意味で馬鹿げたことです。

私自身は、自分のことは音楽家の端くれの一人だと思っていますが、自分の演奏を、誰よりもナンバー1になるようにがんばろうと思ったことは一度もありません。また、自分の演奏に満足したこともありません。芸術家は、自分の芸に満足していたのでは、進歩しないのです。
私は、学校を卒業してから、人まねでなく、自分の感じ方がうまく表現できることを、これまで目指してきました。音楽を深く知るようになると、音楽の表現は、オンリー1が大切なのだということに自然に気が付くのです。ですから、盲目のテノールの方のドキュメントを見て、大変共感しました。

私は、たまたま音楽によってオンリー1を表現できる手段をみつけました。しかし、ある人は、スポーツでオンリー1を表現できる人もいるでしょうし、また、ある人は舞踏や文芸などでオンリー1を表現できるでしょう。子どもたちが、それぞれ自分のオンリー1を表現できるものを見つけることができれば、彼らにとって大変幸せなことだと思います。
ところが、ナンバー1を目指したのでは、いつかナンバー1でなくなったとき全てが崩れ去るような気持になるでしょう。〇でなければ、全てが×なのだというように、○×式の短絡的な発想に、翻弄されてしまうのです。中学の時に、ナンバー1であっても、高校、大学と進むにつれてナンバー1でなくなっていくのは目に見えて明らかです。まして社会に出れば、ナンバー1であることは、ほとんど意味がなくなってきます。そうなった時にガラスの心は、砕け散ってしまうのです。学校教育でも、オンリー1を目指すことができる教育を施すことを望まれるでしょう。もちろん音楽の先生も、そのことを繰り返し生徒に教えなくてはならないと思います。