CSで、チェリビダッケの特集が組まれていて、これはまたとない貴重な記録で、チェリビダッケファンに限らず、音楽に興味のある人にとっては、考えさせられることの多いプログラムでした。
私は、音楽を専門に学び始めてからの長い間、オーケストラのアンサンブルというものが好きではありませんでした。
もちろん、子どものころは、無条件にオーケストラの奏でる色彩感豊かな音色と、表現の多彩さを充分楽しんではいました。
しかし、自分が、音楽を本格的に学び始めて、アンサンブルとは何か、音楽とは何かということを理解するようになったとき、オーケストラのアンサンブルがあまりにも大味なものとしてしか聴こえなくなってしまい、また、派手なリアクションに終始する著名指揮者のスタンドプレイにも心地良いものを感じませんでした。そんな中で、今から約20年程前に、チェリビダッケ指揮のロンドン交響楽団のライブがFM放送で流されていて、その緻密で、しかも生き生きとした表現に息を呑みました。
オーケストラのアンサンブルで、これほど繊細なものは聴いたことがなかったのです。
それ以来、チェリビダッケの演奏に注目し続けました。今回、CS放送では、数多くの演目が紹介されましたが、その中でも数本のドキュメンタリーがとくに興味深いものでした。
チェリビダッケにとって、音楽を演奏するということは「体験」をするということだというのです。チェリビダッケが、まだベルリン・フィルハーモニー・オーケストラの指揮者だった若い頃、ある演奏会が終了したあと、聴衆の一人らしい婦人が楽屋にかけつけて「これです、私が、探していたものはまさにこれです」と言われたのだそうです。
チェリビダッケにとっては、これは最高の誉め言葉だったと回想していました。チェリビダッケによると、私達が、ホールなり、あるいは普通の室内であっても、演奏するということは、そこに音楽があるのではなく、そこには「体験」しかないと言うのです。
作曲という行為は、作曲者自身が音楽を創造しながら感動するという「体験」というものがまずあって、その「体験」を楽譜に記すということに他なりません。
演奏する者も、「その作曲者の感動の体験は、これだったのだ」というものを、演奏者自身が追体験しなくてはならないのです。つまり「まさに、これだ。作曲者が体験した感動はこれだったんだ」という体験を演奏者が追体験したときに、演奏という行為が初めて成功したことになるわけです。
これは、オーケストラに限らず、ピアノやフルートなどの独奏楽器を演奏するときも同じです。たとえば、私達は、何のためにピアノを弾くのでしょうか。
楽譜の通り、間違えずに正確に弾けたとしても、それだけは、筆記試験を卒なくこなしたということと、ほとんど価値が変わらないでしょう。
音楽が、「体験」するということなら、体験のない演奏というものはまったく無意味なものになります。私達が、くりかえし練習するのは、間違えなく正確に演奏するためではなく「まさに、これだ」という瞬間を体験するためなのです。
チェリビダッケの演奏を聴くと、「まさに、これだ」という瞬間が数多く体験できます。
チェリビダッケによるあの奇跡のようなドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、私にとっては、今までの自分の音楽体験の中でもっとも素晴らしい体験でした。
まさに啓示を受けたといっても過言ではありませんでした。ただ、チェリビダッケの演奏の素晴らしさは、録音を再生して聴くのではなく、生演奏のときに、最大に体験できるようで(これはチェリビダッケだけに限られたことではありませんが…)、私には、その体験がないので、チェリビダッケが亡くなってしまってその機会が永遠に失われてしまったのが残念です。
たとえば、チェリビダッケの演奏は、総じてたいへんテンポが遅いのですが、チェリビダッケの生の演奏を体験した人によると、その遅さは、ホールという大空間では、まったく自然に聴こえ違和感がないといいます。ところが、それがCDとなって、せまい自宅の空間で聴くと、遅いテンポが気になるというわけです。
つまり、チェリビダッケにとっては、演奏する場の空間に、響きが充分調和するように演奏することも重要なことなのでしょう。
チェリビダッケは、「テンポというものは、聴く人に知覚できる速さでなくなはならない。内容が豊かな音楽ほど知覚するのに時間がかかるものだ」といっています。また、物理的にも、良く響くホールでは、遅めにテンポをとらないと聴く人が知覚しにくいわけですね。ですから、チェリビダッケの演奏は、聴いていてたいへん解りやすいという特徴があるような気がします。
たとえば、私にとっては、ブルックナーはまったく理解できない音楽でした。でも、チェリビダッケの演奏を聴くことで開眼できました。「ブルックナーが体験したことは、これだったんだ」ということが、私にも解り易く追体験できたからです。チェリビダッケから学ぶことは、私にとっては、まだまだ数多くあります。
チェリビダッケは、録音を嫌いましたが、没後、未公開の録音が紹介されるようになって、それは、やはり私たちにとっては宝の山です。