音楽を演奏する時に、必ず心がけなくてはならないこと。

1.音楽は、人と人との心を合わせること。

2.全ての音楽には、夢がある。

3.音楽の語り口は、フォーマルに。

4.音楽は、踊る。

5.肌触りの良い音楽作りをする=美しい練習をする。


1.音楽は、人と人との心を合わせること。

芸術作品の中では、人間が創作したのではなく、その作者の体を借りて、超自然な存在が降りてきてメッセージを示しているような作品に出会うことがあります。
ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』は、間違いなく、そういった作品の一つでしょう。
牧神が吹くパンフルートを模して、曲は、フルートのソロから静かに始まります。その後、ハープの分散和音を背景に、ホルンのソロが雄大に奏でられ、聴く人は、もうすでに大自然の広がりと大気の流れの存在を感じさせられます。やがて、初めのフルートのメロディーが変奏され、様々な楽器によって響きの厚みが増し、まったく想像もしてなかった世界が広がり、それがあまりにも予想を超える発展のしかたをするので、音による色彩の美しさや、命を持った者のような躍動的な動きなど、まるで、大パノラマの風景を「観ている」ような感覚になり、聴き終わった後は、あまりの体験にしばらくその場を動けなくなるくらいです。

音楽は、すごい、こんなにも美しく、しかも、大自然の風景やドラマを感じさせることができるなんて、またこれを創作した一人の人間の中に、こんな世界が存在していたのかと、「人間」の素晴らしさを再認識させられます。また、この音楽を再現している演奏者も、ドビュッシーと心が通じ合い、その世界を忠実に描いている、それを聴いている自分も、同時に、ドビュッシーの心の内面を追体験している。

ドビュッシーは、もう何十年も前に亡くなってこの世には存在しないけど、残された楽譜を元に、ドビュッシーの心が演奏者の心と通じ合い、最終的に、聴く人の心とも通じ合えている。音楽は、こうして、人と人との心を通じ合わせることができる、そのことに大きな意味があるのだと思うのです。

音楽も、クラシック音楽の場合、大抵、作曲した人は亡くなっていることがほとんどです。でも、楽譜という「手紙」を通して、演奏する人は、作曲者と心が通じ合う可能性があります。もし、通じ合うことができれば、今度は、その心を、聴く人にも通じるように試みます。作曲者、演奏者、そして聴衆の三者の心が音で持って通じ合えれば、その演奏は大成功といえるのではないでしょうか。

  2.全ての音楽には、夢がある

音楽であれば、ポップスでもクラシックでも、必ずその音楽には「夢」があります。
これは、音楽に限らず、文学、映画、などの芸術、また、あらゆる商品、サービス、教育など、人が関連するものは、全て、その中に「夢」が含まれます。もし「夢」がなければ、そこには魅力が存在せず人々の関心を引きません。お菓子一つとっても、そのお菓子を一口、口にしただけで幸せな気持ちにさせてくれる、そのお菓子には、それだけの夢があったことになります。何かを商品開発するとき、それが人と関わるものなら、必ず、夢のあるものを作ろうとするのではないでしょうか。

音楽の夢とは、いったいどういうものがあるのでしょうか。
長調の音楽では、こんなにも幸せです…、楽しい…、希望があります…、など想像できそうです。また、悲しげな短調の音楽でさえ夢があります。モーツァルトは、お母さんが亡くなった後、多くの短調の音楽を書きましたが、その音楽には、その亡くなった母にもう一回会いたいと願っているかのように想像できる音楽が多いように思います。短調の場合、ただ悲しいというだけではなく、幸せだったときに戻りたい、あるいは、幸せでありたいというような願いを込めている、そうした「望む思い」が切ない響きを通して「夢」を表現しているのでしょう。

その音楽の中に、どういう「夢」が込められているのか、感じ取ることができたら、その夢を、他人事ではなく、まるで自分のことのように音を通して語るようにすることで説得力を持ちます。

「音楽は、人真似してはいけない」と良く言われます。実は、芸事では、初めの段階では、洗練された表現や、それを実現させるための技術の「型」を学ぶために、あえて先生の真似をするということから入るのがほとんどです。でも、ある程度、伝統的な正しい基本を真似できたら、今度は、人真似ではなく、自分のなりの表現や語りを出さなくてはならないのです。

カラオケなどでも、もうCDそっくりに歌っているのに、何か心に響かないということがあります。それは、どんなに上辺だけを上手に真似ても、その音楽の「夢」を自分の「言葉」として語っていないからです。つまり、一つの「型」を上手にアピールしているだけで、本当に「自分はこういう思いがあるんだ」という何か切実なものが欠けて伝わってしまうのです。

プロの演奏家でも、綺麗な音で、しかも間違えないで演奏できているのに、自分ではどうも納得できないということがしばしばあります。その原因は、その音楽がどういう「夢」を持っているのか分からない、また、分かったとしても、それが自分のことのように語ることができない、ということなのです。

「お芝居の台詞は音楽のように、また、音楽は台詞のように表現する」とも言われます。音楽は、音を通した台詞なのだと思います。聴いていて、「あー、この人の音楽は本物だ」と思うのは、例外なく、音楽の夢を自分の言葉として表現できている人だけです。

音楽の流れの中で、このフレーズにこそ夢があると思われる場面では、音を湧き出るように演奏します。湧き出る=スプリングです。
温泉や泉など、大地から水が湧き出るものを英語ではspring(s)と言っていますが、「春」も、大地から命のある草花や、冬眠していた生き物たちが湧き出るのでspringと呼ばれているようです。
音楽も、その流れの中で、夢があるフレーズの場合は、その流れの中から湧き出て、「夢」をアピールしなくてはならないでしょう。そうでないと、音楽は平板なままで、たとえ演奏者がその音楽に夢を感じていても、聴いている人には、それが伝わりません。
「パパ、ママ、だいすき…」の「だいすき…」の部分を湧き出るように言うと、ものすごく胸に染みて相手に伝わるのではないでしょうか。これを平たく言い通せば、もうセリフの棒読み状態で、思いはなにも伝わりません。
ある時は小さく、またあるときは大きく「夢」は湧き出ます。もちろん、その湧き出る表現は、恣意的ではなく、あくまでも自然に聴こえるようにしなくてはならないのは言うまでもないことです。

音楽の表情には、大小様々なspringがあり、この場面こそはspringだ…というように積極的に、あたかも自分のことのように思いをアピールすることで、音楽の表現は生きてくるのだと思います。

3.音楽の語り口は、フォーマルに。

人とお話をするときに、二つの種類があります。
普段、家族や友達と会話をするときは、馴れ馴れしくお話をするのでカジュアル、お客様を前にした会話や大勢の前でスピーチをするときなどは、改まった口調になるのでフォーマルです。
音楽の語りかけは、常にフォーマルでなくてはならないと思っています。

何かを人に伝えたいとき、その思いが切実であればあるほど、その語り口調は、丁寧で真剣なものになるでしょう。
過去に、レッスンなどで、素人の方の演奏を聴いていると、その音楽の語り口が、普段の馴れ馴れしくおしゃべりをしているかのように演奏している人が多いことに気がつきました。まるで、ガールズトークのように、お話の内容よりも、話していること自体が楽しい、つまり音楽でいえば、その内容を語ることよりも、音を出していること自体が楽しい…。
それは、それで、「音」を「楽しんでいる」ので、文字通り「音楽」の在り方の一つだとは思いますが、それは、自分だけのために音楽をしている、自分が出している音でもって、誰かがその音楽に耳を傾けている、ということを前提にしていない演奏です。

自分が楽しければ、他の人も楽しいはず…、本当でしょうか。
ガールズトークは、会話をしている本人たちは楽しいでしょうけど、周りにいる人にとっては、うるさいだけで何も楽しくないですよね。
それと同じで、自分だけのために音楽をしている人は、自己満足しているだけで、周りの人は、その音楽でもって幸せな気持ちにはなれないのです。音楽は、人と人との心を通じ合わせることです。練習のときでさえ、必ず、聴く人がいるのだということを前提に音を出さなくてはならないでしょう。
そう思って演奏すると、その語り口は、練習といえども自然にフォーマルになっていくはずです。

他人に、夢を語るときに、丁寧な口調で、しかも品格を感じさせるような上品な言い回しになるようにすると、聴き手は、すんなりと内容を受け止めてくれます。音楽の語り口も同じで、とくにクラシック音楽の場合「まるで、NHKのアナウンサーになったつもりで、音楽を語ってみてはどうですか…」ということをアドヴァイスさせていただいています。アナウンサーは、その訓練のなかで、それぞれが育ってきた方言の癖をとり、美しい日本語の発音を目指すことをするようです。音楽でも、妙に訛っていたり、へんな癖のある言い回しをしてしまうことがあり、それを、品格を感じさせる上品な物言いになるようにフレージングできるように、心を込めるというのは大切なことでしょう。


また、音楽は、基本的に舞台芸術ではないかと考えています、そうすると、音楽の内容が、後ろの客席を含めた隅々に伝わるように、発音しなくてはならないでしょう。これは、大きな音でということではなく、たとえ小さな音でも、気持ちが伝わるように明快に発音する。心地の良いイントネーションを見つけて、けっして大げさでなく、自然な言い回しになるようにする、…などです。

音楽を舞台で演奏しない、比較的狭い個人宅や、すぐ側で、誰かに音楽を聴いていただく場合も、フォーマルな口調で発音することには変わりありません。聴いていただく人が大切な人であればあるほど、丁寧に品格のある語り口調になるのは自然なことですよね。
基本的に、人間には、それぞれ「人」としての尊厳があって、その「人」の存在自体がとても尊いものだと考えます。
「人」とは自分自身も含めて、いったいどういう存在なのか、ただ偶然発生して、利害関係だけで存在しているのか、あるいは何か意味のある存在として生きているのか。

私は、人とは「愛情」を常に内に秘めていて、その愛情でもってお互いに高め合って生きていく存在だと考えています。
愛情には、「男女の愛」「無償の愛」「友情としての愛」、この三つの種類があると言われています。この三つの愛が、他人と自分とを結び付けている大きな絆で、そのことに気がつけば、一人ひとりがとてもかけがえのない大切な存在として感じられます。人の尊厳とは、お互いに「愛」を持って育んでいく尊い存在として認め合わなければならない…、という宣言なのではないかと解釈します。

演奏が、フォーマルな語り口調であればあるほど、あー、この人は「人」を大切な存在だと感じて音を出しているなと感じます。逆に、カジュアルな語り口で、アグレッシブ(攻撃的に)、思いやりのない音を出している人は、「人」のことを召使のように利害関係でしかみていない人だなと感じます。事実、そういう人は挨拶もしませんし、何かを問いかけても返事もしません。そういう人でも、必ず内面には「愛」を秘めているには違いないのですが、その「愛」が、まだ上手く育まれていない、つまり、親などから「与えられる愛」ばかりを一方的に享受され続けられて、自分が他人に「愛を与える」という経験が少ない=愛がまだ未熟なのだなと解釈します。
たぶん、愛情というのは一方通行では育たないものなのでしょう。

繰り返しになりますが、音楽は、やはり、人と人との心を通じ合わせるものです。音楽には、必ず「夢」があって、その夢を共有することで、人は、内面に、こんなにも美しくスケールの大きい世界を持っている、けっして人は孤独ではない、希望は捨ててはいけない…ということに気づきます。
演奏には、その人が、人をどういう存在として見ているかが、その語り口に出てしまいます。フォーマルな音楽の語りかけが、誇張や恣意的ではなく、自然にでるようにすることで、本当に音楽を表現しているという手ごたえが感じられるのではないでしょうか。

また、クラシックを演奏するときの服装が、ドレスなどフォーマルな装いをするのも、その音楽の性質がフォーマルであるが故だと思います。中身と、見た目も合致していないとチグハグですよね。クラシックは、けっして気取っているわけではないのですが、人を大切に思うが故の品格の良さというものが常に内在するのです。
日本人を含めた、とくにアジア系の人に多いのですが、情熱のあまり、品性を逸脱してしまうようなアグレッシブな演奏になってしまうのは、どうかと思います。アグレッシブというのは、音楽の上では、ほめ言葉ではありません、自分勝手な攻撃的な演奏をする人のことを、とくにコンクールの審査員の間では、あの人はアグレッシブだというようにあまり良い意味でなく使われるようです。

音楽は、人が存在しているからこそ意味があるもので、人を意識しない音楽などありえないでしょう。結局、音楽とは、人とはどういう存在か、その認識の違いで、表現の質が変わっていくような気がします。音楽は、人間学でもあるのでしょう。

4.音楽は、踊る。

古くヨーロッパでは、踊りが、自分が何者であるかを示す手段としての意味合いがあったそうです。
ヨーロッパでは、国によって言語が異なりますが、それでも、国を超えた共通の踊りがあって、パン屋さんはパン屋さんの踊り、靴屋さんは靴屋さんの踊りなど、職業ごとに共通の踊りがあり、お互いに踊りあうことで、国が異なっても、それぞれが何者であるかを分かり合えた…、これは、職業だけでなく、私は結婚をお祝いしている、あるいは逆に、私は、愛する人の死を悼んでいる、というように、今、自分はこういう気持ちや感情を持っている存在なのですということをアピールするのにも、それを踊りに託してアイデンティティ(自分が何者であるか)を表現することができたそうです。

これは、実際に身体を使うものだけではなく、音を躍らせることで、同じようにアイデンティティを示すものも数多くあったと思われます。
ヨーロッパの古い音楽ほど、数え切れないほど舞曲があったのも、踊りが、国境を超えて、自分のアイデンティティを示すものであったことと無関係ではないでしょう。たとえば、サラバンドなどは、自分は「人の死を悼んでいる者です」ということをアピールするもののようです。

ヨーロッパの音楽は、舞曲と分類されていない楽曲でさえ、アイデンティティをアピールするために踊る振る舞いをするように見えます。これは、個人的な見解ですが、おそらく、ほとんどのヨーロッパの音楽は、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンなどでも、古くからの伝統として、音が踊っているという要素が必ず取り入れられていると思います。音が、踊ることで、その曲のアイデンティティが明快になるからです。

音楽を生き生きと表現するためには、その音楽が踊っていること…というのが、私の意見です。

何か、音楽に、生命感がないと感じられるときは、音楽が踊っていない、のっぺりしています。音楽をフォーマルに語らせつつ、音楽を生き生きと躍らせる…、それで、音楽が見る見る蘇って来る感じがします。

音楽を躍らせるときに、演奏者自身は、無闇やたらに、あまり身体を動かさない方が良いでしょう。
操り人形を躍らせるとき、もし、同時に、操る人も踊るように身体を動かせば、人形よりも、操る人の方が目立ってしまいます。操り師は、身体の動きを止めることで、人形の踊りを観客に集中させることができるのではないでしょうか。音楽の演奏も、ガチガチに身体を固めて演奏しなさいと言っているわけではなく、自然な動きに留めるくらいにして、音楽そのものを豊かに躍らせる…。それで、音楽の表現力がより豊かに、上品にアピールできると思います。

そもそも、踊りそのものは、個人的にはとても憧れます。バレーでも、フィギアスケートでも、音楽に合わせて、あれほど優美に躍動的に、肉体美を表現している…、あんな風に踊ることができたら、どんなにか素晴らしいことか…。人間は内面も素晴らしい世界の広がりを持っているけど、肉体そのものの方も、それ自体、芸術作品のように美しい。身体をリズムをつけて動かすことで、手足のすらっとしたラインがより延長されたように見え、舞台やリンクで踊っている一人の人間の存在感が、とても大きく感じられます。
身体を自由に伸び伸びと動かすことのできる「喜び」や、生きていることの「幸せ」のようなものが、舞踏の持つ「夢」なのではないでしょうか。同時に、それは(音楽は音が踊るという側面があるので)音楽の持つ「夢」の一つでもあると思います。 

5.肌触りの良い音楽作りをする=美しい練習をする。

最近は、ニトリなどの巨大な家具センターに行くことが多いです。そこでは、体育館のように広い室内の空間にクラシック音楽が流れています。
そのクラシック音楽がとても、上質な良い演奏で、つい足を止めて聴き入ってしまいます。たいていは、バロック音楽からロマン派くらいまでの室内楽が多く、てとも肌触りの良い演奏がほとんどです。こういう肌触りの良い音楽が流れていると、肌触りの良いベッドやソファーを買いたくなるのかな…と思ってしまいます。

もし、自分が、この同じ空間で、ピアノやフルートなどを演奏してみたら、ここにいるお客は、家具を心地よく選んでくれるだろうかと、ふと、想像したりします。

音楽や、演奏そのものは目に見える「物」ではないのですが、瀬戸物や家具のように、商品としての完成度が求められていると思います。つまり、こうして家具センターで流すことができるくらい、肌触りの良さ、表面の仕上がりの美しさを目指すべきなのだと。

ですから、私たちは、音を出すときには、不用意に出すのではなく、商品として通用することができるほどの価値のある美しい音で、そして洗練されたイントネーション、音楽の持つ「夢」を生き生きとspringさせる…などの繊細な音の扱いが必要なのです。


「絶対ミスしない、いつでも美しい音を保つ、品格があること、総合して、音楽が肌触りの良いものになっていること」こういう音楽の表面上の仕上げの美しさを整えるということは、皆さんやっていそうで、意外とおざなりになっていることが多いような気がします。

では、どうしたら音楽を磨き上げることができるかというと、それは、「美しい練習の仕方」を実践するということです。

音楽の練習は、その練習する音が、好むと好まざるに係わらず周囲にどうしても聴こえてしまいます。間違った音を連発させたり、つっかえたり、弾き直したりの連続だと、周りの人が強いストレスを強いられます。もちろん練習している人自身もストレスになります。だいたい、こういう練習だと、練習している人がパニックになりながら練習している状態で、これは、とても汚い練習の仕方です。


それを避けるためには、絶対間違えない、また、つっかえないように音楽の流れを安定して続けることができる、ゆっくりとしたテンポで丁寧におさらいします。それは、もう止まりそうなくらいゆっくりでも良いのです。つっかえたり、間違えたりを繰り返すよりも、どんなにゆっくりでも、間違えず、音楽が流れ続けたほうが遥かに精神衛生にも良いですし、何よりも結果的に最短時間で演奏できるようになります。さらに練習している人の精神は安定し、様々なことに気づきながら演奏し続けることができます。これは、美しい練習の仕方です。

音楽を練習している最中も、その人の人生です。本番での晴れ姿だけが、その人の人生ではありません。本番よりも、練習している時間の方がはるかに長い、そしたら、その練習をより充実したものにした方が、より価値のある人生になると思いませんか?。
お料理も、材料を下ごしらえして、だんだん美味しくなっていく過程を楽しみながら料理するほうが良いに決まっているし、お掃除も、だんだん部屋などが美しくなっていく様子を楽しみながら行ったほうが疲れを感じさせません。
音楽の練習も、本来は辛いものではなく、だんだん音楽に命が芽生え、生き生きとしていく様を楽しむ、そして、何回も演奏を繰り返して、繰り返すたびに、新しい発見をしていくことが楽しいのです。

音楽を練習するには、@美しい譜読みをする、A美しいテクニックで演奏をする、B美しい練習の仕方をする、ということが原則だと思います。

音楽を表現するには、@音楽の中にある「夢」を見つけて、それを他人事ではなく、自分のことのように語る、またその「夢」はspringさせること、A音楽の語りは、常にフォーマルであること、B音楽は踊っていること、C肌触りの良い音楽作りをする。

この合計7か条を気にかけていれば、どんどん音楽を発展させることができるでしょう。
ただし、演奏が上達するかどうかは、練習をどれだけしたかに係わってきます。当たり前のことですが、練習しなければ上達しません。ごく稀にですが「ずっと習っているのに、上手に、思ったとおりに弾けないのはどういうこと?」という質問されたことがありますが、これはもう「練習が圧倒的に足りません」としか言いようがありません。

音楽教室は、産業的には、生徒さんが音楽を演奏できるようにするためのサービス業なのですが、正しく、道を逸れないで、音楽を創作できる方法をお導きできたとしても、上達自体は、ご本人の練習の量の問題になります。
上達するかどうかは、ご本人の自己責任です。第三者がどのように手を貸したり差し伸べても、ご本人自身が練習を行わないとどうしようもないということです。これは、当たり前のことなのですが、改めて、ご了承願いたい点でもあります。
だからと言って、けっして突き放すようなことはありません。お忙しい最中、どうしたら最良の解決策が取れるか、ご一緒に考えながら道を探るよう努めます。

(14.8.2010)

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