現代フルート奏法

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1.フルートは、積極的な表現を得意とする。

2.フルートは、牧神の笛のように。

3.息の雑音を少なくする音色づくりのためのポイント。

4.響きの豊かさと、腹式呼吸の関係について。

5.本当のことを知りたい〜腹式呼吸の各種方法についての検討。

6.ヴィブラートの方法

7.音量の中庸性を保つ。

8.歌う演奏をするために。

9.いつでも、詩的に表現することを心がけたい(〜名演奏家たちの肖像)。


1.フルートは、積極的な表現を得意とする。

フルートは、ヨーロッパにおいてはバロック時代に流行した楽器でした。
バロック時代の音楽表現は、明るく軽い音色が好まれ、フォルテを基本としていました。そういった環境の中でフルートがとくに流行した理由は、それまでの笛の主流であったリコーダーよりも音量が豊かで、リズム感をより鋭く表現できたからだと思います。フルートは、積極的な時代の流れに合致していたのです。

しかし、その一方で、明るい音色で占められていたバロックの楽器群の中では、当時のフルート(トラベルソ)は、くすんだ音色をしており、他の楽器群とは一線を画していました。
ヴァイオリンは一般の平民を象徴する楽器とされており、トランペットは、天国を象徴する楽器だと、当時は目されていました。その中で、フルートは王を象徴する楽器でした。
フルートのくすんだ音色が、成熟した最先端の時代を、一歩リードする王のイメージがしたのかもしれません。事実、フルートは王侯貴族の人々に好まれて演奏されていたのです。

バロック時代のフルートであるトラベルソは、音色は落ち着いた趣きがありましたが、積極的な表現を得意としたことには変わりありません。たとえば、フルートのための作曲された音楽は、バロック時代から近代に至るまで、必ずといってもよいほどマーチ風の付点音符のリズムが使われています。
そういった例は、ヘンデルのフルートのための作品、モーツァルトのフルート協奏曲第1番の第1楽章のテーマ、アルルの女のメヌエット、トゥルーのフルートのための作品等々数多く挙げることができます。

フルートのレパートリーは、積極的な時代であるバロック時代において、数多くの名曲が生まれました。古典の時代にも、まだフルートの作品はありました。しかし、ロマン派時代に入ると、ほとんど皆無と言ってよいくらいにフルートのための作品は激減しました。
人間の心の内面を内省的に語るロマン派時代にとって、フルートという楽器はあまりにも積極的過ぎたのかもしれません。ロマン派時代の作曲家は、フルートよりも、もっと落ち着いた音色を持つクラリネットやホルンなどに興味を持ったのでした。

2.フルートは、牧神の笛のように。

キリスト教では、人間は、父なる天の神から鼻に息を吹きかけられて、魂のあるものになったといいます。次元は異なるとは思いますが、そのことは、フルートを吹く人が、ただの物体であったフルートに、息を吹きかけることで命を持たせることと似ているような気がします。
私たちは命を持っていますが、その命を息を通じてフルートに与えていくわけです。それはまるでギリシャ神話の中に出てくる牧神のようだと思います。牧神が吹く笛は、人間はもちろんのこと、草木や動物、その他の自然に宿る神々など、命のあるもの全てを心地よく魅了させるのだそうです。生きている者の命を、より共鳴させ感動で震えさせるわけです。
私は、フルートをそのように演奏できたら良いと考えています。

自然の全てのものに、命が宿っているという考え方を汎神論といいます。ヨーロッパでは、ギリシャ神話などに代表されるように、古代からもともと汎神論の世界観を持っていました。しかし、一神教であるキリスト教が広まるにつれて、汎神論の考え方は否定されるようになります。
やがて、啓蒙思想やフランス革命などを経験するようになると、キリスト教の原理主義的な考えに縛られなくても良くなってきます。そこで、再びヨーロッパに、汎神論的な世界観が戻ってきます。
とくに近代になって、ドビュッシーやラベルなどによって、汎神論的寓話を題材にした作品が生み出されてきます(文学や絵画の世界でもそうです)。フルートは、その時に、再び華やかに登場することになりました。
フルートは、牧神の笛をイメージさせます。牧神が吹く笛の音は、自然の神々や、人間、動物、草木などの命を共通して豊かに振動させました。つまりフルートは、汎神論的世界観を表現するのには、もっとも象徴的な楽器だったのだと思います。これは、ヨーロッパだけではなく、日本における横笛も、同じではないでしょうか。日本にも、古代から独自の汎神論的世界観があり、笛は、そういった命のあるものの魂を揺り動かすのでした。
いずれにしても、フルートの演奏のポイントは、息を通じてフルートに命を与えるということに尽きるのではないでしょうか。

3.息の雑音を少なくする音色づくりのためのポイント。

今からだいぶ前になりますが、オーレル・ニコレの演奏を、それこそ50センチほどの間近で聴いたことがあります。その時の印象では、息のシューシューシャーシャーという音は皆無で、純粋に密度の高い楽音のみが、あたかも目に見えるのではないかと思われるほどはっきりしていました。
かといって金属的な堅い響きではなく、クリーミーな香りのする、暖かく柔らかい音でした。
息の雑音が少なく、しかも密度の濃い音にするために、プロのフルーティストとアマチュアとでは、技術的に何が異なるのか今日に至るまでずっと考え続けました。

その結論の一つとして、まず考えられることは、プロのフルーティストは、アパチュア(唇の隙間)と、そこから吹き付けられる歌口のエッジとの距離が大変近いことが挙げられるのではないかと考えるようになりました。
たとえばリコーダーの音を聴いていると、息の雑音は目立ちませんし、音も密度が濃くはっきりしています。そうするとその楽音の秘密は、固定された息の吹き出し口と、その息が二つに分かれるエッジとの距離が関係あると直感したのでした。
その距離は、ソプラノで約5ミリ、アルトで約1センチほどに見えました。おそらく、その距離よりも長くなると、リコーダーの楽音は、雑音と共に密度も薄くなりカスカスになってしまうのではないでしょうか。かと言って、それより近いと、空気がきれいに二つに分かれにくくなるのだと思います。

考えてみれば、フルートの場合、生身の人間のからだを通じて息の吹き出し口を形成しているので、アパチュアから吹き出されるくっきりとした空気の柱は、思っているよりも短く、おそらく1センチにも満たないと思います。
7〜8ミリ以上離れると、空気の柱はたちまち乱気流になってしまいます。アパチュアと、息の吹きかけられるエッジとの距離が遠すぎると、一度形づくられたハッキリとした空気柱がエッジに到達する前に、乱気流に化けてしまい、その空気の不規則な乱れがシューシューシャーシャーという息の雑音を生み、音がカスカスになってしまう原因の一つになるのだと思います。

そうするとフルートでも、アパチュアとエッジとの距離は、アルトリコーダーと同じように少なくとも約1センチ以下にすることが、もっとも密度の濃い音にするために重要なポイントになるように思います。
そのために、たとえばフランス式に、フルートの頭部管を内側に回し、歌口のエッジの、外側のラインを管体の中心線に合わせるようにすれば、それだけでアパチュアとの距離が劇的に近くなってきます。
プロのフルーティストは、ほとんど例外なくフランス式に楽器を組み立てているようです。
たとえば、ニコレが自分のフルート(ムラマツ9K)を、テーブルに置いたのを観察したことがありますが、そのときに歌口は天井に向かって真上を向いていました。フルートはテーブルへ置くと、外側に全体が傾きますから、そのときに歌口が真上を向いているということは、フランス式に、頭部管が内側にかなり回っているということです。

頭部管のリッププレートを側面から見ると、まるで下唇の形に見えます。そうすると、フランス式に組み立てて演奏している演奏者を真っ正面から見てみると、演奏者自身の下唇が、フルートのリッププレートにすっかり隠れてしまい、聴衆側に見えるリッププレートが、新たな下唇のように見えます。
もともとの上唇と、リッププレートによってかたちづくられた下唇とが一体になって、あたかも一つの唇のように見えます(図1)。
正面から見てそのように見える演奏者は、息の雑音が少なく、密度の濃い楽音がします(ニコレ、ゴールウェイ、ラリュー、グラーフなどみんなそのように見えます。とくにゴールウェイは、アパチュアとエッジとの距離が驚異的に短いようです)。

図1)下唇とリッププレートが一体化している。


ところが、演奏者自身のもともとの唇が上下ともそのまま丸見えで、リッププレートによる下唇と合わせて、三つの唇が見えてしまう演奏者の音は粗いようです(図2)。アパチュアとエッジとの距離が遠すぎるのです。

図2)唇の形が三つある。


フランス式の設定で吹くときは、リッププレートに顎を当てるのではなく、下唇を当てることになります。しかしかそれでも日本人は、オーバーショット(いわゆる出っ歯)の人が多く、フランス式に楽器を組み立てて吹くと、上唇で歌口を覆い過ぎてしまい、音が出にくくなることがあります。
そういう場合は、下顎をアンダーショット(受け口)ぎみに出すと、歌口を塞ぎ過ぎないで済むでしょう。
また唇が厚い人は、それだけで歌口の外側のエッジから遠くなってしまいます(唇の薄い人の方がフルートに向いているとよく言われますが、それはおそらく薄い方が、エッジとの距離をより短くできるからだと思います)。
そういう場合は、下唇だけを横に引いて唇を薄くしマウスピースに当てることで、エッジとの距離が縮まるようです(上唇は柔らかく維持する必要があります)。

またランパルのように、アパチュアを唇の横に設定することで、よりエッジの距離を短くする方法があります。唇の正面は厚いので、薄い横の部分を用いれば、ぐっと距離が短くなるわけです。
そうすると最大限、アパチュアとエッジの距離を短くする方法は、楽器をフランス式に組み立てて、唇の横から吹くということになりそうです(モイーズはその典型でしょう)。

4.響きの豊かさと、腹式呼吸との関係について。

アパチュアから吐き出される空気の柱を長くするためには、腹式呼吸で、奥深い息を吐きだすことが一つのポイントだと思います。また息のスピードを安定させることにも重要になってきます。
よく音がひっくり返ったり、音程が揺れたりする演奏を聴くことがありますが、そういう演奏をする人は、歌口に向かって常に「フーッ」と胸の力だけで吹きかけているようです。

フルートを吹くときは、「フーッ」ではなく、「ハーッ」だと思います。たとえば、両方の手を口をあてて、一気に息だけで急速に手のひらを暖めようと思ったときに、「フーッ」と吹き込んだのでは手のひらがより冷たくなってしまいます。
一秒でも早く「ハーッ」と暖めようと思えば、息を吐く時、お腹が急速にへっこんで横隔膜が上がっていくのを体感できるはずです。その動きは、腹式呼吸の息を吐く動作そのものです。

また以前、NHK教育TVでナポレオンズによる手品教室が放映されていましたが、その時のテーブルマジックとして、テーブルの上に置いたワインのコルク栓が、指を近づけただけで念力が作用したように動きだすというものがありました。
そのタネあかしは、口をわずかに開いて、息の音がしないように、お腹の底から息を静かに吐き出すというものです。これも腹式呼吸の息を吐く動きそのものです。そうすると腹式呼吸で息を「ハーッ」と吐き出せば息の雑音そのものも少なくなるということになります。

ニコレなどの超一流の演奏を生で聴くと、彼らが「ハーッ」とお腹の底から暖かく息を送り込むことで、フルートの音が、まるであぶり出したかのように浮き出て聴こえるのを確認することができます。けっして強引に「フーッ」と吹きかけて、叫んだような音にはならないのです。

そのような方法で息を吐き出すと、特に低音が驚くほど豊かに響かせることができます。深く吐き出された息が、フルートの長い管の端まで、余裕を持って送り出すことができるからでしょう。また高音部においても、攻撃的な音ではなく、柔らかい響きを出すことができます。中音においても、音がひっくり返るようなことは皆無です。それでいて、音をたいへん豊かに柔らかく響かせることが可能になります。

いずれにしても、腹式呼吸で息を吐き出すときは、腹筋によって内臓と肺を分けている横隔膜を下から上へ押し上げていくわけです。よくフルートを吹くときはお腹に力を入れてと言われますが、それは横隔膜を押し上げるときに使われることになります。
「お腹の支え」と言われているのは、音楽が要求する表現に対応した、横隔膜の柔軟な動きをつかさどる腹筋の力のことを指しているわけです。ですからただ単に、「ウッ」とお腹に力を入れて腹筋を固めているのは間違いと言えるでしょう。

腹筋によって持ち上げられた横隔膜は、思ったよりも高く上げることが可能で、レントゲン写真に映った映像では、乳頭の線よりもさらに上まで持ち上げることができるようです。テレビなどで、ヨガの達人が息を吐きながらお腹をへっこませるパフォーマンスを見ることがありますが、肋骨内の最上部まで横隔膜が持ち上げられたお腹は、すっぽりとへっこみ、縦に収縮された腹筋を左右にゴロロンゴロロンと旋回させることができるほど空洞になっています。
ヨガのように極端でなくとも、腹筋によって横隔膜を自分の意志でコントロールできれば、肺のなかの空気を余すことなく最後まで使いきることができるわけです。しかも息の最後のさいごまで、アパチュアから吐き出される空気柱は、推進力を失うことはありません。

5.本当のことを知りたい〜腹式呼吸の各種方法の検討。

演奏を開始するときに、空気を吸い終わったら間髪いれずにすぐに音を出し始めるということはあまりないでしょう。たいていは、空気を吸ったら、アンブッシュアを整えたり、音楽に意識を集中させるために、一瞬、息を止めてから、吐き出すことが多いです。問題は、「息を止めているとき、あるいは音が無い、たとえば休符などのときに、からだがどういう状態になっていなければならないか」です。

普段の生活の中では、「息を止めて」と言えば、肺一杯に吸いこんだ空気が漏れないように「喉」で止めています。ところが、腹式呼吸の場合、空気を吸い込んだ後、「喉を開けたままで、吸い込んだ状態を維持します」。空気を吸うときに、横隔膜が下方向に引っ張られますが、この横隔膜を引っ張ったままであれば、喉を開けた状態で待機し続けることができるのです。これがまず「お腹の支え」ということの始まりになります。ここまでは、どの専門家の方々にとっても異論がないと思います。

さあ、ここから先、息を吐き出すときにいろいろな説が一般に流布されていて、演奏者を混乱させています。
一つは「息を一杯吸うと、肺の中の気圧が、からだの外圧に対して高くなるので、何の力も入れなくても、息が自然に流れ出すので、その流れでもって音を出し、肺の中の気圧が減ったときに、初めてお腹で押し上げる」という説。
しかし、これでは、お腹の力を抜くことになり、それはお腹の支えを失うということになってしまいます。「アコーディオンの蛇腹を引っ張り上げて、急に手を離して萎むに任せて音を出している」のと同じです。
音を出す原動力が、体内外の空気の圧力差でもって行なわれているとしたら、なんとも頼りの無いものではないでしょうか。しかも、息を吐き出す原理が、音を出している途中で変わってしまうという、なんとも不可解なことになってしまいます。

それからもう一つ代表的な説には「空気を一杯吸うことでお腹が出るが、そのお腹の出た状態を保ったまま息を吐き出す」というものがあります。
お腹が出た状態を保つというのは、お腹の支えを維持したまま息を吐き出すということを言いたいのだと思いますが、これもよく考えると変ではないですか?。お腹がへッ込まないとしたら、いったいどこを収縮させているのか。それは胸を収縮させているということに他ならないのではないでしょうか。肋骨の間には、肋間筋がついていて、その筋肉を収縮させることで肋骨が縮んで息を吐く、それはつまり胸式呼吸ということです。
空気を吸う時には腹式呼吸なのに、息を吐き出すときは胸式呼吸に転じるという、何か釈然としないものになります。

こういう奇妙なことになったのは、「お腹の支えを維持して」ということの誤解に基づく結果なのではないかと思います。
たとえば、「アコーディオンの蛇腹を充分引っ張り上げて、そのまま維持しているということがお腹の支えの始まり」でした。アコーディオンで音を出すときは、その膨らんだ蛇腹を手のひらで押していく、でも、手を止めれば、音は途中でも止めることができます。手の支えがあるので、途中で安定して音を止めることができ、また再開することができるのです。

フルートの場合も、まったくこの原理と同じなのではないでしょうか。お腹を下から持ち上げていく(場合によってはお腹の表面の筋肉も同時に使うこともあるでしょう)ことで、息が安定して吐き出せる、ピアノ、フォルテ、クレッシェンドもデクレッシェンドも、大きな手のひらのような横隔膜を腹筋で支え続けているので、自由自在にコントロールできるのです。
休符が頻繁に出てきても、お腹で押すことを一時停止させれば、喉をあけた状態で音の無い瞬間をいくつも作ることが出来ます。
この一時停止というのは、お腹の力を弛緩させるのではなく、お腹の筋肉の収縮を止めるにも、それを止めるための力は必要で、そのこともお腹の支えということの一部になっています。肺の中にある空気が50%のときでも、20%のときでも、いつでも喉を開いた状態で音を止めることが出来ていることが、お腹の支えができていることの証なのではないでしょうか。

息の吐き出しについて「」

フルートを演奏する場合、息を出すときには、喉を開けることで空気が流れはじめ(一気に開けると空気が暴走してしまい、すぐに息がなくなってしまいます)、その空気の量とスピードを、横隔膜を持ち上げることでコントロールするわけです。
しかし、喉の開け方と、横隔膜の押し上げる力とのバランスを保つことは難しいことです。というのも、上半身が固く緊張していると、喉の絞りが必要以上に強くなってしまい、せっかく横隔膜によって下から空気を持ち上げているにもかかわらず、息の通りが悪くなってしまうことがよくあるからです。

普段の練習では調子が良いのに、先生や聴衆の前では音が出なくなるということがよく起こることがあります。それは上半身が必要以上に固くなってしまっているのです。
フルートを演奏している最中は、誰かが肘を触れたら、肘がグラッと動いてしまうくらいに、肘や肩の力が完璧に脱力状態になっていなければならないでしょう。その状態で、お腹の支えが伴っていれば、飛躍的に音が豊かに響きだします。

上半身の脱力を導く良い方法は、演奏中に上半身を動かして緊張を和らげることが有効だと思います。もちろん、これは教則本に書いてあることと反することです。しかし、ニコレもランパルもよくからだを動かして演奏していますね(おしゃれなラリューだけは動かしませんが)。
グラーフは、レッスンのときに生徒に歩きながらフルートを吹かせることをさせるといいます。これは、上半身の余分な緊張をほぐすためではないでしょうか。
ですから、私は、初心者でからだが固まっている人には、からだを動かして演奏しなさいと言うようにしています。もちろん、からだでリズムをとることは絶対にいけないことです。しかし、音楽の流れやフレーズの流れに沿って自然にからだが動くことは、上半身=喉の緊張をほぐすためにはプラスになっていると思います。

逆に、上級者には、あまりからだを動かさないように演奏しなさいと言います。上級者はからだを動かすことに慣れ過ぎていて、しばしば本能のみで演奏しがちになるからです。
からだのうごきを少なくして、意識が自分の心の内面に向かうようにすることで、集中力のある内省的な演奏に近づけることが可能になるでしょう。

6.ヴィブラートの方法。

ヴィブラートは、一昔前までは、横隔膜でかけるものだとされていました。
しかし、1983年にヨッヘン・ゲルトナー氏による「フルート奏者のヴィブラート(シンフォニア刊)」という本が発刊されると、しだいにヴィブラートの方法が考えなおされるようになりました。
「フルート奏者のヴィブラート」という本では、実際に、フルーティストが、からだのどこを用いてビブラートをかけているのか、レントゲン撮影や筋電計などを通じて解明を試みた様子を紹介しています。
実験の被験者の中には、オーレル・ニコレのような名フルーティストも含まれていました。

実験の結果、フルーティストは、誰一人として横隔膜を動かしてヴィブラートをかけている奏者はいなかったということが明らかになりました。
実際には、簡単に言えば、喉か、胸の筋肉を使っていたのでした。

今までの、伝統的なヴィブラートの練習方法は、暑い日差しを受けた犬の呼吸のように、「ハッ、ハッ、」と、腹筋の力を入れたり緩和させたりを素早く行うことを応用させたものでした(これは、比田井 洵版の「アルテ 第二巻」にも練習方法が紹介されています)。その練習方法は、まず、ハッ、ハッというお腹の弾みを用いて、一拍の中に、タンギングをしないで、音を二つに分割させる練習をします。それができるようになったら、三つ、四つと分割させ、スピードを上げていきます。
やがて、切っていた音をつなげれば、基本的なヴィブラートの動きとなるわけです。

しかし、この方法は、大きな問題点を持ちます。
それは、基本的に腹筋を緩めた状態でなければ、ハッ、ハッという腹の弾みが付かず、これでは、音を安定して出すための、横隔膜の支えをつかさどる腹筋運動が使えないのです。そうすると、これは、結果的に胸式呼吸ででしか、フルートを演奏できないことになってしまいます。

しかし、この練習が無駄になるわけではありません。
事実、ゴールウェイは、一週間に何時間かをかけて、必ずこのハッ、ハッの練習をするのだそうです。しかし、彼は、自分のからだの、どの部分でヴィブラートをかけているのか、自分では本当のことは分からないんだと言っていました(公開レッスンで)。
分からないけども、このハッ、ハッの練習は欠かせないのだと言うのです。

重要なことは、このハッ、ハッという練習で、一定の周期性を持ったヴィブラートの振動の原形を体感することです。第二の段階として、今度は、横隔膜を押し上げるために腹筋を収縮しながら、このハッ、ハッを試みてみるのです。
そうすると、腹だけがゆっさゆっさと揺れていた振動が、胸の方へしだいに移動していくことが体感できるでしょう。おそらく、この振動が胸の筋肉によるヴィブラートということになるのだと思います。

その具体的な振動の様子は、たとえばハラハラと、あるいはシクシクと泣くときの、胸のあたりの振動に似ています。人は、大笑いをするときは、確かに腹をゆさゆさ揺らしながら笑いますが、泣くときは、腹は揺れないでしょう。
泣くときは、むしろ腹を収縮させながら、胸を震わせます。胸の筋肉によるヴィブラートは、その状態に近いものがあると思います。

また腹筋を使って横隔膜を押し上げ、音を豊かに出すことができれば、喉でヴィブラートをかけても悪い結果にはならないと思われます。
もっとも悪いヴィブラートは、腹をただ単にゆっさゆっさ揺らして出されたヴィブラートと、お腹の支えがないまま喉でかけられたヴィブラートです。
ヴァイオリンでたとえれば、前者は、弓を揺らしながら弾くのと同じで、後者は、弓によるボーイングの推進力を失った状態で激しく指で弦を揺らしたのと同じ状態でしょう。

どこでヴィブラートをかけるにしても、もっとも優先されなくてはならないのは、腹筋による息の支えです。極端に言えば、これさえしっかりしていれば、どこが振動していても良いのだと思います。

ビブラートの練習方法として、タンギングの連打を応用させるものもあります。

タンギングをトゥトゥトゥ…と素早く連打して、部屋じゅうにフルートの音が響き渡るようになったとき、歯の裏側から徐々に舌を離していきます。
喉と舌は繋がっていますから、タンギングをしている段階で、喉も振動していることを自覚するようにします。
歯から舌が離れても、喉の振動だけは維持するようにすれば、規則正しい振動を得ることができます。
注意することは、タンギングの連打の段階で、あたかもベルを連打して響きが増幅するかのような、豊かな響きが得られていなければならないということです。
これは、正しい腹式呼吸ができていれば全く難しいことではありません。
もし、これができないまま、舌の振動を喉に移行させれば、「チリメンビブラート」になります。

お腹の振動による練習方法は、その振動をお腹から上部に移動させることで、ビブラートのヒントとなるようにするという方法でしたが、これは、逆に、舌から喉へ振動を移行させる(上部から下部へ移動)ということで、ブビラートに応用させるもので、お腹によるものよりも、より直接的で効果があります。

ミッシェル・デボストは、最近の彼の著書の中で、「ビブラートは心でかけるものだ」と言っています。
実はこれがもっとも大切なことで、いくら訓練よって音を震わせることができても、それに歌心が入っていなければ、ビブラートにはなりません。

歌いたいという切実な思いがあって、初めて音というものは自然に振動するものなのではないでしょうか。
ですから、歌心のある人は、特別な訓練をしなくても美しいビブラートがかかることがあります。
自然にビブラートがかかるようにするためには、歌や弦楽器などの音楽をたくさん聴くというような、音楽体験の積み重ねが必要だと思います。
その上で、上記のような練習もさらに生きていくと思います。

また、フルートのヴィブラートは、早くて、浅いヴィブラートが良いとされています。
フルートという楽器は、オーケストラの中では高音域を受け持つ楽器です。高い音というのは、父なる天の神からもたらされた精神性を象徴します。しかし、音にヴィブラートがかかるというのは、音が踊る、つまり肉体を持つ喜びを表現することになります。
昔は、オーケストラにおいてフルートは、ヴィブラートをかけないことが常識でした。ヴィブラートのかかっていないフルートによる高音は、ストレートな音で涼しく奏されるため、清らかな、あるいは孤高の精神性を最大限に表現することにつながったのだと思います。
ですから、フルートでヴィブラートをかけるのなら、その振動が目立たないようにかけないとならないわけです。

フルートに対して、チェロは、低音を受け持つ楽器です。そのヴィブラートは、周期が遅く、波が深いヴィブラートです。低い音というのは、母なる大地の神から与えられた肉体を象徴します。その肉体を持った喜びを、チェロは、あの低い音をさらに豊かに踊らせる(豊かなヴィブラートをかける)ことで表現しているのです。

母なる大地の神(肉体)を象徴するチェロ(打楽器はそれを補佐する)、父なる天の神(精神)を象徴するフルート、その両方の要素を併せ持った人間的なヴァイオリンやヴィオラ。オーケストラは、そういった、それぞれの神々と、人間たちの調和を保ちながら音楽を奏でます。
それぞれの楽器は、自分の役割にふさわしい表現をしなくてはなりません。フルートとチェロとのヴィブラートの質が違うのは当然のことなのです。

自分がフルートでヴィブラートをかけて演奏する場合、有名なソリストのヴィブラートを猿まねするよりも、オーケストラの中で、自分が吹いたときに周りの楽器と調和するかどうかを想像しながら演奏することの方が良いことだと思います。
その方が、自分の感性による調和のとれたヴィブラートが表現できる可能性が大きいでしょう。ですから、オーケストラワークを練習することは、ヴィブラートのために良いことでしょうし、もちろん独奏曲を吹く時も、オーケストラの中のフルートとしての表現を、というイメージで練習することが、良い練習になるかもしれません。

7.音量の中庸性を保つ。

フルートの場合、「吹き過ぎるな」ということを注意されることがあります。
フルートは、低音が出にくく、高音が比較的、出やすいという楽器の特性があります。そのために、何も考えずにフルートを吹けば、高い音ばかりが目立ち過ぎてしまい、低音から高音に至る音量のバランスが崩れてしまいます。そういったバランスを無神経に無視して、高音部だけをむやみに吹きっ放しに演奏した状態が、「吹き過ぎる」ということだと思います。

吉田雅夫先生の「よい演奏をするために(シンフォニア刊)」では、こうした響きの中庸性を保つ方法を、下記のように述べています。

要約すれば、「高音ばかりが大きくなってしまえば、積極的なものが、より積極的なものの方へ片寄りすぎてしまう。また、低音が、小さくなると、消極的なものが、より消極的な方向へ片寄り過ぎて、響きの中庸性を崩してしまう。中庸性を保つには、高音に向かう時は、ディミヌエンドするつもりで演奏し、低音に向かうときはクレッシェンドするつもりで演奏する。
また、高音に向かうに連れて落ち着いた音色に、また、低音に向かうほど明るい音色で演奏する」

積極的なものと消極的なものとの、中庸性が保たれるように演奏することが、フルートのフレンチスクールのスタイルというわけです。ランパル、ニコレ、ラリュー、ゴールウェイ、など皆、そのように演奏してますね。
つまり、彼らは、フレンチスクールの洗礼を受けているフルーティストということになります。

ニコレの演奏する、バッハの無伴奏フルート独奏のためのパルティータを聴いてみると、高音が、バスを演奏する低音よりも、決して音量のエネルギーが越えないことを確かめることができると思います。また、低音は暖かい音色で、高音は、渋い落ち着いた音色をしています。
他のフレンチスクールスタイルのフルーティストも、注意深く聴いてみれば、そういった演奏の特性を持っていることが分かります。

そうすると、フルートを演奏するときは、まず低音を豊かに響かせることができる、ということが大前提になるわけです。
フルートを練習する時は、ロングトーンが欠かせませんが、その中でも、まずは低音を重視すべきでしょう。その低音を豊かに響かせるコツは、前の章で述べた通り「ハーッ」という息使いの持続=腹筋による横隔膜の押し上げをマスターすることと、アパチュアと、歌口との距離の関係にあると思います。

こうしたバランスの注意点は、フルートという楽器の特性とリンクしています。しかし、他の楽器ではまた違うバランスの取り方があると思います。
たとえばピアノの場合は、最高音部の弦と、最低音部との弦を比べてみると、圧倒的に低音部の弦の方が質量があり、音のエネルギーも大きいです。
ですから、右手がメロディーで、左手が伴奏を奏するというごくオーソドクスな楽曲をピアノで演奏する場合、何も考えないで弾けば、伴奏ばかりが大きくなり、メロデイーは埋没してしまいます。
ピアノの場合は、高音ほど響かせ、低音は押さえ気味にしたほうが、響きの中庸性を保つことができると思います。

しかし、演奏する作品の時代によっても、音域によるバランスの取り方が若干変わってくるでしょう。
たとえば、積極的な時代のバロック時代では、低音は軽く響かせた方が良いでしょうし、消極的な時代であるロマン派の音楽では、低音は豊かに重く響かせても良いでしょう。
しかし、いずれにしても、響きの方向性が片寄り過ぎてしまうことは、どの楽器を演奏するにしても、常に注意しておかなければならないのは言うまでもありません。


8.歌う演奏をするために。(「続、ピアノ奏法」の1.とほぼ同じ内容)

今年、ゴールウェイが来日し、東京で催された公開レッスンでこんなことを述べていたそうです。
「これはとてもおもしろいことなんですが、私は音楽家の人に『これ、ちょっと歌ってみてくれないか』と言うと『いや、歌えません』という人が多いんです。でもベートーヴェンのヴァイオリンコンチェルトは弾けるのですが、これは歌えないという人がいます。これは何か信じがたい事実です。私はフルートを吹くときはいつも心の底から歌うことを大事にしています。歌うことによって、フルート奏法をすぐ進歩させられると私は確信しているからです」(アルソ出版「ザ・フルート」第34号から)

フルートは、歌口に息を吹きかければ音が鳴ってしまい、心の中が真っ白のままでも、なんとなく楽譜の通りに指を動かすことで、吹けたつもりになってしまいます。でも、それだけでは音楽にはならないのは言うまでもありません。

自分でフルートを演奏していて、「どうも今日の演奏は良くないな」と思うことがあります。そういうときは、心の中で歌っていないということに気が付きます。音程の広がりや、和音の響きを指まかせにしてしまっているのです。
本当は、メロディーを心の中で歌い、その「心の歌」に沿うようにして、息遣いをコントロールし、指を動かさなくてはならないのです。その「心の中の歌」のことを、ソルフェージュと言います。

フルートを演奏していて、あるフレーズがどうもシックリいかないというときは、実際に、そのメロディーを声を出して歌ってみると良いでしょう。その時に、心地よく歌える抑揚を見つけるのです。それができたら、今度は、心の中で、声に出して歌ったときと同じように歌い、その歌に、息と、指を合わせていきます。そうするとたいてい良い結果が得られます。
また、速く演奏しなければならないフレーズで、どうしてもつっかえてしまう場合も、「全てを指まかせにしているのではないか」ということを疑う必要があります。どんなに速いフレーズでも、口に出して言うことのできないほど速いフレーズというものはほとんど存在しないと思います(トリルやトレモロなどの速い動きは、ヴィブラートと考えて良いでしょう。また、オブリガートのような波打つフレーズは、コロラトゥーラソプラノのイメージがします)。

基本的に、西洋音楽は言葉ですから、音楽を演奏するときに口に出して歌うことのできないほど速い動きというのは、音楽ではなくなってしまいます。ですから、どんな速いフレーズでも、実際に心の中で歌って、それに息と指を合わせていくことで、良い結果が得られる場合が多いでしょう。

結局、歌うようにフルートが演奏できるかどうかは、その演奏者がどれほど歌体験があるかということに係っているのでしょう。歌を聴いたり、自分の声を使って歌ったりという歌体験が、どの器楽奏者にも必須なのです。

私は、ピアノも教えていますが、小学生くらいの生徒に対しては、弾くことよりもソルフェージュを重視します。弾く時間がなくなっても、自分の声を出して歌うことを優先させます。その時に使うテキストは、技術的なものよりも、歌っていて心地の良いものを選択します。
聴くにしても、自分の声を出して歌うにしても、ヨーロッパの民謡(ヨーデルなども含む)体験が豊富だと、ハイドンやモーツァルトなどの古典が、大変身近なものに感じられます。

ちなみに、私は、中学生の時にスイスやオーストリアなどのヨーデルや民謡を聴いて、思わず涙してしまうほど感動したことがあります。東京の下町に越してきて何年も経った頃の私は、それらの伸び伸びとした牧歌的な歌声に、なぜか国境を越えて、郷愁のようなものを感じたのです。大自然の包容力に包まれた、これらの歌を生んだ豊かな土地へ帰りたいという想いに駆られたのでした。
その後、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームス、ヴォルフ、シュトラウス…などの歌曲を聴くようになり、レコードやFM放送でエアチェックしたテープは歌曲だけでも結構な量に上ります。

もちろん、だからといって私自身、自分が、常に、歌に満ち溢れた演奏をしているのかといったら、そうではないのです。繰り返しになりますが、楽器を演奏するときに、指まかせにしても音が鳴ってしまうので、ついそれに慣れきってしまい、「心の歌」を忘れることがあるのです。

自分の演奏に満足できないとき、私は、自分が「歌を忘れたカナリヤ」のようになっていないかをまず疑います。逆に、心の中で歌った通りに、演奏できたときには、たいへん充実感を感じます。
私は、この充実感を再び得たいがために、練習を繰り返しているような気がします。

9.いつでも、詩的に表現することを心がけたい(〜名演奏家たちの肖像)。

私がフルートを吹き始めた1970年代、レコード屋さんの店頭には、フルートのレコードも比較的多く置かれていました。今日では、一般のCD店には、フルートのCDは2〜3枚ほどしか置いていないことも珍しいことではありません。一時的に大量に売れるポップスのCDに対して、枚数の出ないCDは、年々出展が少なくなっていくのだなと、少々がっかりです。

今のレコード業界は、人気ドラマ等とタイアップした主題曲を中心に売りばら撒くことで、商いを維持しているように見えます。そういった状況でミリオンセラーになったCDは確かに大量に売れますが、その反面、いつまでも印象に残る曲は少なくなっているという話しを良く耳にします。今や、音楽は使い捨ての消耗品なのだという感が非常に強くなりました。いつまでも心に残る真に価値のある楽曲や演奏を収めたCDが、年毎に店頭から姿を消していくことは寂しいことだと思います。

1970年代のレコード業界は、ポップスでもクラシックでも、良い音楽を時間を掛けて売るのだという姿勢が残っていて、そういう環境の中、フルートのレコードも、現在に比べて結構数多く店頭に置かれていたのです。中でも、クラシックのシングルレコードというのも存在していて、当時、小学生だった私にとって、自分の小遣いで買うには、シングルレコードはありがたい存在でした。

クラシックのシングルレコードの中でも、フルートの演奏を収めたものは比較的多かったと思います。ラリューの演奏よるフルート小品集や、ニコレの演奏でモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」、ランパルと読売交響楽団によるモーツァルトの「フルート協奏曲第2番」などが印象に残っています。

一番初めに買ったフルートのシングルレコードといえば、ロジェー・ブールダンというイギリスの老齢のフルーティストの演奏による小品集でした(伴奏はハープ)。ビゼーの「アルルの女のメヌエット」、グルックの「精霊の踊り」、ボッケリーニの「メヌエット」、アルトフルートで演奏されたシューマンの「トロイメライ」、ヘンデルの「ラルゴ」が収められていました。
ブールダンは、現在では、ほとんど知られていないフルーティストで、いわゆるヴィトゥオーゾフルーティストとしての流れから外れている位置にいます。しかし、未だに、私はブールダンの演奏の枯れた味わいを忘れることができません。ブールダンの演奏には、詩を朗読するような、音楽を言葉のように語りかける表現に魅力があったのです。歳を重ねた人間だけが語り得る、深い洞察と心が感じられました。

最近、私は、音楽の表現というものは、詩の朗読のようでなくてはいけないと思うようになりました。外国の映画を観ていると、ときどき詩の朗読の場面を見ることがあります。「大草原の小さな家」や「赤毛のアン」などでは、子どもたちが家庭の中で詩の朗読をしたり、あるいは、大人たちが聖書を朗読する場面が出てきます。
そういう様子を見ていると、欧米での家庭では、詩や聖書などの朗読が生活の一部としてごく普通に行われているのではないかと思いました(もちろん現代の欧米では分かりませんが)。

そうすると、「詩」とは何だろうということになります。ただ単に情報を伝える公文書的な作文とは違うでしょう。詩とは、ある時に感動した瞬間を、言葉でもって保存した、生きた文章と言えると思います。詩を読むとき、あるいは人に読み聞かせるときは、その詩が作られた感動の瞬間が、時空を超えて、再び人間の心に対して感覚的に再現されなければならないでしょう。

音楽を作曲するということも、言葉による詩を作るのと同様に、ある時に感動した瞬間を、音でもって保存するということなのではないでしょうか。音楽を再現する人(演奏者)は、その保存された感動の瞬間や雰囲気をうまく再現しなくてはならないでしょう。

そういう観点から音楽を捉えていけば、明らかに音楽を演奏するということは、音による詩の朗読といえるのではないかと思うのです。欧米人は、日常的に詩を朗読することが当たり前であり、そうすると音楽は、より人間の感覚に訴えるために、言葉による詩の朗読よりも、一層、直接的な表現の手段として発展したきたのではないでしょうか。
また、そもそも欧米の言葉の発音や流れ自体が、元々たいへんメロディカルで、西洋音楽の場合、言葉というものが自然に音楽という形に発展したのではないかと思えてなりません。

私たち日本人は、普段の生活の中で、詩の朗読といことはやりません。詩を心を込めて朗読するということは得意ではないのです。音楽も一種の詩の朗読だとすれば、日本人は、詩的な感興を含んだ表現が不得意な民族と言わざるおえないでしょう。
日本人の演奏は、機械的で冷たいということは良く言われることですが、それは演奏される音楽が「詩」になっていないからなのではないでしょうか。音楽の表現が、スポーツのようにスピード感の快感や、表面的な響きや音色の美しさのみではダメなのだと思います。また単なる情報を無機的に伝える作文のようになってもダメです。

優れた演奏家は、必ず音楽を「詩」のように再現します。カラヤンであれチェリビダッケであれ、彼らは彼らの語調でもって音楽を語り、音楽のどのフレーズの部分をとってみても、詩の朗読のような余韻が残ります。
演奏の記録が残っている歴代のフルーティストの中で、ゴーベールやエネバン、モイーズなどの演奏を聴いていると、彼らは本当にフルートの大詩人だったんだなという思いがします。20世紀前後のヨーロッパの良き時代の香りが、田園詩のような牧歌的雰囲気をもって表現されています。

最近のフルーティストの中では、とくにゴールウェイの演奏は、大変詩的な演奏だと思います。彼の音楽に対する詩的な想像力の豊かさは、大変素晴らしいものがあると思います(そういえば、イギリスで、ゴールウェイにフルートの手ほどきをしていた先生の先生が、あのブールダンだったということを最近知りました)。
最近聴いたエマヌエル・パユの演奏も、大変詩情豊かな音楽作りをしていると感じました。

そういう訳で、私は、音楽の表現の善し悪しを、「その表現が詩になっているかどうか」という基準で判断するようになりました。それは、自分で演奏するときの基準にもなっています。
このページをご覧になっている皆さんの中で、もし楽器などを演奏をなさっている方がいらっしゃれば、自分の演奏が「詩」になっているかどうかを認識しながら演奏してみてはいかがでしょうか。きっと表現がより自由になって、練習が楽しくなるでしょう。