●あれから10年・・・



あの震災から、もうすぐ10年が経とうとしている。

震災の日、わたしは神戸市中央区の自宅にいた。午前5時46分、突然の揺れと傾く家の中で目を覚ます。何がおきたのかはわからない。これが地震だとわかったのは、しばらくしてから。2階で寝ていたため1時間以上は家の中から外に出ることはできなかった。外に出てはじめて、一瞬にして変わり果てた街の姿を目にする。動きを遮断された長い一日。兵庫県庁周辺、三宮・元町周辺の状況はいまでもこころの中に映像として蘇ってくる。山手幹線の大渋滞、鳴り響く緊急サイレンの音、そして余震。なすすべもなく呆然と立つ人々。とにかく情報がない。この地震のことを詳しく知ったのは午後2時頃。それまでは、なにもわからなかった。
壊れた家の中から外に出たとき、家の前の公衆電話から電話をし、連絡を受けた家族が実家より夕方ようやく辿り着いた。避難所もわからず、情報も錯綜していたため、その車のハンドルを握り、大火災と渋滞の中を、どこをどのように通ったのか、兵庫区・長田区・須磨区を通り姫路の西の実家へと向かう。まるで戦場のような、映画の中にいるような、震災直後のあらゆる光景を自分自身の目で見ることとなった。実家に辿り着いたのは次の日の朝方ちかく。
中央区の自宅は全壊。当時の勤務地は阪急西宮北口の北西。震災の翌々日、勤務地まで迂回路を使い辿り着いた。ここでも職場周辺の変わり果てた姿を目にすることとなる。勤務をしていた建物は半壊、復旧には1ヶ月半を要した。2月中旬に中央区の自宅は自衛隊の協力により取り壊した。思い出の多い家だった。2月下旬より、少しずつ復旧していく電車・バスを乗り継ぎ、勤務地と実家のあいだを毎日通勤。片道3時間あまり、毎日平和な地域と変わり果てた被災地の光景を目にしながら、被災地の職場へと向かう。呆然としながら、被災地の姿を見て、また被災地の人々とふれあい、こころを痛めることも数多くあった。
5月中旬ぐらいであったであろうか。電車・バスの復旧がようやくなされる中、心身ともに疲れ果て、その姿を家族が心配し、JR芦屋駅からすこし東にある親戚のマンションを借りることとなった。阪急夙川駅まで徒歩20分ほど、職場まで通勤した。人もほとんどすれ違わない、壊れた家がなくなった土地を横に毎日通勤する。ここでもやり切れないこころの痛みが幾度となく込み上げてきた。
震災から1年と少し経ち、勤務地も少し落ち着いた。「もういいだろう。あとのことはこの地域の人々に任せよう。自分自身のケアもしなければ・・・疲れた・・・」そう思い被災地の職場から離れた。これ以上被災地の職場にとどまることに心身ともに限界を感じていた。そして実家近くに新しくできた職場へ転勤した。被災地のことなど何もわからないような、まるで別の世界。実家近くの職場で約7年近く。以前はすぐ近くにあった神戸がずいぶん遠くの場所となってしまった。震災のとき、自衛隊の協力を得て取り壊した家のあとには、まだ建物を建てていない。動物的本能であろうか、それとも震災の体験から逃げているだけか、以前はあんなに親しんだ場所であるのに、今は近寄りがたい場所となってしまっている。
昨年より、勤務地は神戸市西区。被災地に少し近くなった。震災から、かなりの月日が経ちわたし自身、こころのケアはもうできたものと思っていた。しかしながら、いま神戸に戻ってみて被災地を離れていたわたしのこころは、被災地を離れていた間、止まっていたのではないだろうかと思うことが多い。あれからもう10年ではなく、まだ10年しかたっていないのではなかろうか。街はきれいに蘇っているが、わたしにとって震災のこころのケアはまだできていないのではなかろうか。あるいはこの何年間、静止していたのではなかろうか。
神戸を離れている間に、こころを動かした災害も数多くあった。そのなかでも特に心身ともに影響を及ぼしたものとして2000年10月06日におこった鳥取県西部地震と2001年9月11日におこったニューヨークテロ事件があげられる。
鳥取県西部地震では、その揺れを職場でも感じ、阪神・淡路大震災の揺れの記憶をからだが呼び起こすこととなった。しばらくめまいが生じ、休憩室で休養した記憶がある。
ニューヨークテロ事件は米国という日本から離れた地域ではあるが、偶然にもその日は職場から戻り、NHKの22時のニュースにより、生々とした映像がテレビ画面をとおして目に入ることとなる。ビルの崩壊の姿に、阪神・淡路大震災の被災地でのビル倒壊の姿が、重なり合った。

先日、兵庫県こころのケアセンター開設記念―こころのケア国際シンポジウムに参加させて頂いた。久しぶりに訪れたこの地域である。少し時間があったので隣の『人と防災未来センター』を観覧する機会ができた。地震の再現映像に、からだは震災当時の体験をしっかりと記憶していた。

震災から10年近くが経とうとし、時の流れとともに人々のこころの思いも複雑になっている。この10年を被災地の復興・復旧とともに歩んできた人々、被災地を離れた人々、そして再び被災地へ戻ってきた人々、大規模災害の場合、被害が広範囲の地域に及ぶため、生活していく上で、何らかの形で、当時の体験を呼び起こす要因に触れることが多い。また現代社会、メディアの発達により、あらゆる映像・情報がリアルタイムに入ってくるため、震災による体験を呼び起こすことも多々ある。その当時のこころの傷を引きずっているのか、あるいはその後に生じたさまざまな災害・事件による影響なのかはわからないが、わたしのこころの中には震災当時の映像がまだはっきりと残っているし、からだもその当時の感覚を記憶している。もう10年なのか、まだ10年なのか。その時間の流れも人それぞれであるが、わたしにとってのこころのケアは、まだ時間を要するように感じる。
あの震災による体験によって、どれだけの人々が、いまもなお、こころの傷を背負って生きているのかはわからないが、今後も継続して多方面にわたり、こころのケアの活動が展開されることを望むし、またその活動に力を注ぎたい。


●あれから15年・・・