●あれから30年・・・



2025年1月04日(土)、年末年始に1週間程の休暇があったのは何年ぶりであろうか。
あれから30年!この文章を書くべきか書かぬべきか、何を書けばよいか。今この時まで考えている。
あれから25年!は書けなかった。

朝起きて見ているか見ていないかわからないテレビの映像を眺めながら、30年間を頭の中で回想すると頭の奥の記憶を呼び起こすため結構クラクラとめまいが生じたりするものである。
平和な日常生活、それを一瞬で別のものに変えてしまうのが自然災害。地震の場合、ほとんどの人がその前兆を感じ取っていないため、その瞬間から受ける精神的ダメージは特に強い。
一瞬の数秒!
それまでの平和な世界とその後の世界が大きく変わってしまう。
夢の中の出来事?映画の1シーン?
現実のこととして受け入れられない!

それでも被災地に居るものはそれを現実のこととして、そのことを受け入れて生活をしていかなければならない。
一瞬の出来事が、復興には目に見えるもので3ヶ月〜1年、もっとかかる。
精神的な復興にはさらに長い時間を要する。

1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分に発生した兵庫県南部地震に伴う大規模災害;阪神・淡路大震災。当時、神戸市中央区在住、勤務地;西宮北口。震災により住んでいた家は全壊となる。
震災当日の記憶は忘れないように頭の中に留めているが前日までの平和な日常生活の記憶は殆ど思い出せない。壊れた家の中から出てきたとき山手幹線の歩道にいた人たちの静まりかえった姿、直後の元町・三宮の様子、倒れたビルなどはあの時肉眼で目に焼き付いている。それでもその記憶も曖昧になりつつあるが。
1996年(平成8年)2月末までは兵庫県西部の実家より、西宮北口の勤務地までいろいろな手段で通勤した。短期間ではあるが芦屋の東地域から通勤したこともあるが。
壊れた建物、更地になった土地の横の道を通勤することは、とても辛いものであった。
自分自身の精神的復興もしたく、大きな目に見えるものの復興がされつつあった震災1年後に西宮北口から実家近くに勤務地を変更したが、ここは別の世界。

2004年(平成16年)7月ころより兵庫県北部の豊岡市が勤務地となっていたのであるが、10月20日(水)、台風23号により円山川、出石川の堤防決壊などにより、豊岡市周辺は大水害となる。
地震ではなく水害ではあるが、豊岡市において、2007年(平成19年)6月 まで、勤務地として働くこととなる。
秋祭りを終えた豊岡の町が、台風による円山川の堤防決壊により、一夜にして被災地へと変わる姿を目にしてしまった。円山川の決壊は朝、マンションの9階東側の窓より見ることとなる。

2009年(平成21年)5月ころより兵庫県北西部の佐用町が勤務地となっていたのであるが、8月9日(日)台風9号の影響により、佐用郡佐用町は大水害となる。災害が起きた夜の雨の降り方は、豊岡市に水害がおきた夜の雨の降り方とよく似ていた。佐用郡佐用町では2012年(平成24年)2月末まで、勤務地として働くこととなる。

このあとも、スケールとしてはさらに大きな自然災害があちこちで発生している。
被災した地域は1日でも早い復興が望まれる。復興していかなければならないのではあるが、復興が被災者にとって焦りとなることもある。
受け入れなければならないのではあるが、新しい建物や道路ができていくと、自分自身が取り残されていくように感じることもある。
あの時の出来事は何であったのであろうか。でも現実におこったことである。
私はかつて離れた地域(神戸市中央区、西宮市、豊岡市、そして佐用郡佐用町)にその後あまり行っていない。
行く機会もなかったのではあるが、もしかしたら自分自身の心を見つめ直してみると、
無意識に、復興した被災地の姿を見ることによって、かつて見た被災地の姿が上書きされて、夢の中の出来事とされるのを自分自身で恐れているからかもしれない。


これが30年たったわたしの震災体験記です。













●あれから20年・・・