鈴木さんは「高校時代に1500mで活躍していた選手が数年後にスタミナだけを増した普通の大学生となって箱根の華を飾ることを一概に手放しで喜んでいいものなのだろうか」と書かれていますが、これは具体的にこういう選手を想定してのことだと思うのですが、わたしは勉強不足でこのような選手が存在するのかよくわかりません。でも、箱根で華を飾る選手は決して「普通の大学生」とは思えないです。鈴木さん流にいうなら、「スピード的な基礎を作っていない大学生」ということなるのでしょうか。でも箱根で華を飾る選手が「スピードがない」とは思えないです。鈴木さんも28分台を持つ者は数十名もいると書かれているのですから。永田選手のように学生のときに27分台を出される選手はきっとでてこられるとわたしは思っています。
 「箱根」を目標にすることはわかりやすいですけど、関東の大学生が「箱根」だけをみて競技に取り組まれていると、わたしには感じられないのです。それぞれの選手がそれぞれの目標をもって取り組まれているはずです。「箱根」ばかりみているのは、マスコミであり、そのマスコミの情報がすべてとしか判断しようのない「観客」のほうではないでしょうか。「関東の大学生」をもう少しあたたかく見守ることはできないのでしょうか。陸上というのは、シビアな競技です。勝ち負けが一目瞭然です。自己記録を出すというとき、故障と隣あわせというのは、われわれ市民ランナーにさえあてはまるようなことなのです。そうやって陸上に取り組んでいる学生たち、みんな生身の人間という視線を鈴木さんは、どこかに忘れられているのではないでしょうか。
 それは、鈴木さんの最後の文章に如実に表れています。
 「法政は『将来がある』として徳本のリタイアを決断し」とありますが、徳本さんはふくらはぎの肉離れ(ひふく筋断裂とアキレス腱損傷)しているのです。将来があろうとなかろうと(もちろん将来はだれにでもあります)、肉離れした選手を止めるのは、当たり前のことでしょう。また「順大は故障の岩水を外してきた」ともありますが、故障の選手をはずすのは、これもまた岩水さんでなくても当たり前のことでしょう。岩水さんは、単に故障ということでなく、月陸によれば肺気胸ということでした。息を吸い込むと苦しいという選手を外すことは、「箱根」がどうのということと、全く関係のないことなのです。最後の箱根で「華を飾れなかった」選手を最後に持ち出してきて、彼らの将来を占うようなことを、なぜ書かなければならないのでしょうか。
 鈴木さんには、陸上選手が「駒」のようにしか見えていないのだと思います。徳本さんの無念、岩水さんの無念をほんの少し思いやる気持ちは持ち合わされていないのでしょうか。本文の主旨とはまったく離れて、なぜ彼らの名前を持ち出す必然性があるのでしょうか。
 陸上選手は、頑張っているのだから、無条件に応援していればいいのか、という反論をもたれるかもしれません。でもわたしが言いたいのは、批判するにしても、その対象をモノのように見るのではなく、生身の人間に対しての考えであってほしいということです。(了)                     (2002年1月26日

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花子のノート(Top)

*28分台の大学生は30人程度という情報をいただきました。
 「箱根」組を中心にカウントしてみるつもりですが、どこまでつかめるか自信がありません。

補足

:

*書きたかったけれど、書ききれなかったこと。
 
「こうしたら、こうなる」ということは、いったいどれくらいのデータをとれば「実証」できるのでしょうか。
 ここでいえば、「関東の大学にすすめば、スピードがつかない」ということは、有意差をつけて実証する方法というのはあるのか、「専門家」の方がいらしたらおうかがいしてみたいです。
 
 「結果」というのは、努力の賜物などといいますが、それが一筋縄では結果に反映しないところが、陸上競技のおもしろいところであり、きついところだ思っています。

 スピードランナーといえば、鹿児島商工→京セラ→カネボウとすすまれた入船選手の記録が要注目ですね。1年ほど前まで、1万のジュニア記録をもってられた旭化成の高尾さんは、最近ご自身のHPで、関東学院への進学が決まっていたけれども、旭化成にすすまれたことを書かれていました。大牟田高校の大津くん、村上くんは、たしか実業団へ進まれるときいています。「箱根」を過大評価しているのは、やはりマスコミではと思います。
 さらに注目選手は、アラコの前田選手(京産大)、山本功児選手(京産大)、それから立宇治の生徒が進学している立命館の学生の今後に注目していきたいと思っています。