碇高原から

 碇高原は確か丹後町にあったと思います。網野をスタートして久美浜へ、そして再び網野を通って弥栄町へ。そして最後の町の丹後町です。
 碇高原でのトランジェットポイントでは、同じようにぶどう糖の袋を入れ替えて、ドリンクも入れ替えました。何か口にしないとと、エイドに行ったら、おにぎりがあったので、食べようとしたけど喉が通らないから、スポーツドリンクでご飯粒をバラバラにして、飲み込みました。さっきのポイントと同じようにサバスのゼリーもドリンクで飲み込みました。飴の補給もして、さぁスタート。これからはひたすら下りです。
 去年はこの下りをキロ7分で降りてしまったために、さらに脚を壊してしまったので、今年はかなり慎重にいきました。足首に、「だいじょうぶかぁ? まだ生きてるかぁ?」と問いかけながら。それでも、かなりの勾配で下っているので、調子よく下ることができました。進んでいると、丁度20キロあたりを一緒に走っていたランナーにたくさん会いました。自分があらためて復活したんだと実感しました。
 このあたりになると、下りで苦戦しているランナーが多かったのは意外でした。わたしは、上りは歩いて下りは走るということをしていたのですが、その逆のパターンのランナーも多くて、勾配ごとに前に行ったり、後ろに行ったりで、結局はだいたい同じくらいの位置にいるのでした。
 スタートから10時間を過ぎようとしていて、だんだんと涼しくなっていくのがわかりました。山から見える海の景色は絶景でした。何度も「きれーい」と口に出して言って、こんなところを走れる自分に感謝しました。
 リタイアしないでよかった。もしかしたら完走できるかもしれない。びっくりするようなことが起ったけれど、それを受け入れながら、次のポイント、次のポイントと前に進むことだけを考えていたら、こんなに走ることができました。ここまできたのだから、完走したい。絶対にがんばろうと、決意あらたにしました。
 山を降りると今度は丹後町の海沿いを走ることになります。
 平坦な道だったので、それなりに調子よく走っていると、前に知った顔。ひびさんじゃないですか!
 応援に来られるってことは、うかがっていましたが、まさかほんとうにお見えになるとは!そして、こんな長いコースなのに、よく見つけてくださいました。ひびさんと併走しながら、今はこんない調子いいけど、最初、リタイアしようとして今走っているのは、オマケであること、交通規制のないマラソンなので、網野の町で、止めてほしいと思ってもいいタイミングで青信号になってしまうことなどを話ました。そうやって自分のピンチ話を聞いてもらえるというのも、自分のためにはよかったのかもしれません。ひびさんは、スポックさんの伴走隊には激励済みということでしたが、わたしはそのときは、スポックさんたちは、わたしの前を走っているものとばかり思っていました。だって、上山さんの実力は、練習会や甲子園マラソンのときに十分に存じているので、わたしより後ろにいるわけがないと。わたしが途中でゲロゲロやっている間に、当然、前に行ってられると思っていました。
 しばらく海沿いを走って、トンネルがみえたら、今度は旧道に入ります。此代という旧道ですが、これがまた碇高原の半分くらいの標高を5キロたらずで上ってしまうのですから、これの辛いこと。去年は、ここで絶望的になったけれども、今年はちゃんと覚悟はできています。「ここからは歩こう」と心に決めて、ひたすら歩きました。このあと下りもあるし、残り時間を考えると無理して上るほどのことはありません。(もっとも、このときにわたしに走れる体力があったかどうかは定かではありません。)
 旧道を上った一番上が85キロあたり。そのあと一気に下がって87.9キロポイントが最後の関門時間です。この関門さえ越えれば確実に完走がみえてきます。
 そして丹後町役場、最後の関門時間からはかなり余裕をもって到着することができました。この時点で、去年のタイムをクリアできていました。去年は、足首が痛くてとても走れる状態ではなかったけれど、今年は、平坦なところなら十分に走れます。
 87.9キロポイントには、おぜんざいもあったけれど、食べたいという気持ちにならなかったので、ここのエイドも、すんなりと過ぎてしまいました。「わぁー完走だ」と、確信しながらエイドをあとにしました。

油断大敵 ガス欠に

 丹後町の海沿いのコースは、これまたたいへんな絶景でした。海岸線にはわたしが大好きな棚田もあって、その棚田で農作業をされている様子をみながら、何度わたしは、「シアワセモノだー」と思ったことでしょう。コースは、前半に比べたら、アップダウンがないようですが、実際にはそんなことなくて、間人(たいざ)では、気の遠くなるような坂道が続いていました。
 丹後町でも地元の方の応援がたくさんあって、どれだけわたしの身体を動かしてくれたことか。去年は、応援されても、一瞬、走るのが精一杯でしたが、今年はそれなりに長い間、走ることができます。なかには「こんな坂道、ごめんさないねぇ」とまで言ってくださる人がいて、好き勝手にみなさんの生活道路を占拠して走っているわたしたちに惜しみない応援をしてくださる地元の方にどれくらい感謝していいかわからないくらい、感謝の気持ちでいっぱいでした。
 「間人(たいざ)かー。間人カニって美味しいらしいんだよね、などと思う余裕も少しはありました。
 90キロを越えて、残り10キロ。
 ここまできたらもう完走も同然ですから、まわりのランナーとも、「もう大丈夫ですね」と安堵しながら、過ぎていきました。
 丹後町の海沿いを走っているときに、ふきこさんと一緒になりました。ふきこさんは、今年の後醍醐天皇足跡マラソンで、さぼちゃんと3人で走った方です。90キロを越えているのに、とってもお元気でした。わたしはというと、もう歩いても完走できるなと思うと、つい、甘えて歩きたくなっていました。
 そして、87.9キロのポイントを過ぎて安心したのか、飴もぶどう糖も摂っていないことに気づきました。残り10キロといえば、100キロマラソンでいえば、もう完走したようなものでしょうけど、よく考えたら「あと10キロ」って、そう生易しい距離ではありません。フルマラソンでいえばまだ32キロ。35キロからの7キロにこれまで、どんなに苦しんできたことか。そう思えば、「もう完走した」と思ったのは完全に錯覚で、まだまだレースは続いているのでした。
 あと5キロのところにきたら、走ろうと思っていたけど、完全にガス欠で脚が動きませんでした。
 うわぁ、やばいと思って、飴やらぶどう糖やらゼリーやらを流し込んで、あと3キロのところから走れるようにしようという思いで、トボトボと歩き始めました。情けないというか詰めが甘いというか、なんとも自分らしいなぁと思いつつ、やっぱりガス欠になってしまったことは大反省です。

丹後歴史街道2002
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