「3.1ビキニデー」に参加して
1.ビキニデー?
「ビキニデー」が「第五福竜丸事件」にすぐにつながらない、「ビキニ=水着」をイメージしてしまって、ワンテンポ遅れて、「そうそう、第五福竜丸が被爆した事件だった」と頭のなかで置き換えていました。京都生協では、毎年「ビキニデー集会」の参加呼びかけをしているので、第五福竜丸事件というのが、「1954年中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた水爆実験で、放射能を含んだサンゴ礁の白い灰がマグロ漁操業中の第五福竜丸に降下し、乗組員23人が被爆をした」ということは知っていても、「ビキニデー」という名称と核廃絶運動がわたしのなかでは、なかなか繋がりませんでした。
「3.1ビキニデー集会」に参加することを、友人たちの間で話題にしたところ、「第五福竜丸事件のことは、平和の学習で習った。焼津へ行くなら是非、その様子を教えてほしい」と言われました。事件のことは教科書にちゃんと載っていたそうで、ついでに16歳の高校生にも聞いてみると、「学校で習った」ということなので、どうもわたしの年代というのは、当時、生まれていなくて、かつ教科書に載る頃には成人していたという、そういう世代だったのかもしれません。だから、もし生協にかかわっていなかったら、「ビキニデー」のことなど、全く知らないまま生きていたでしょう。
京都から静岡までは、新幹線で1時間半です。あまりにも何も知らないまま集会等に参加するのはよくないと思い、ビキニデーに関する資料をいくつか読んで、昼食をとっていたら、あっという間に着きました。
2.「虹のひろば」
午後に静岡駅から徒歩で5分ほどの会場で開催された「虹のひろば」(主催は日本生活協同組合連合会と静岡県生活協同組合連合会)に参加しました。その集会で印象に残ったことは、日生協の品川専務が、生協がする平和の活動の意味についてとても明快に説明されたことと、「平和についての50人のインタビュー」、そして第五福竜丸の乗組員の大石さんのお話でした。
@生協の平和の活動について
品川専務は、平和の活動について、@いろいろな意見があるけれども共通の願いを大切にする。Aヒロシマ、ナガサキ、ビキニと核兵器の被害者として、核兵器反対を訴えていくこと。B多くの人がかかわれる運動であること。の3つを挙げ、そして来年の被爆60周年に被爆者を組織して国際的にアピールしていく節目の年になるということ言われました。(被爆者の高齢化を考えると、来年が大きく組織できる最後の節目の年になります。)平和活動の目的については、わたしが普段、感じていることとぴったり一致しましたし、京都生協でのスタンスも当たり前のことですが同じです。(日生協→京都生協→組合員という同じルートのなかにわたしはいるのだから。)
A「平和ですか?」
「50人のピーストーク」は、コープしずおかの店舗の来店組合員、静岡大の学生、教員、計50人に、「平和とは?」「日本は平和ですか?」「世界は平和ですか?」というインタビューの様子を撮影したものでした。平和については、家族の団欒や食事を食べているところなどのことが語られ、そして、日本は平和、世界は平和でない、というのが一定のパターンでした。その理由も尋ねていて、日本は戦争をしていないから平和で、世界はイラクのような状況があるから平和ではない、ということでした。わたしは、平和というものが「家族団欒、家族との食事」という狭いコミュニティのなかで考えられていることや、日本が平和で、世界が平和でないといっても、それは実感を伴なったものではなく、アメリカによるイラクの攻撃や、自衛隊派遣などのニュースや映像をみて、そう感じているだけのような気がしていました。自分の実体験以外はものを言ってはいけないというものではありませんが、日本では悲惨な事件に巻き込まれることだってあって、たまたまわたしは運良くそういう事件に遭遇していないだけだったら、それは平和とはいえないのではないかと、たくさんの人のインタビューをききながら、自分にとっての「平和」が定まっていないことが不安になってきました。
そんななかでコープ静岡の組合員さんが、「平和……、難しいですねぇ。幸せならわかるけど、平和は……、なんだろう」と言われたこと、また静岡大学の教員の方が「平和について個人のことなのか、社会のことなのか」と棲み分けた考えを示されたことは、わたしにとって大きな発見でした。
今、わたしが考えている「平和」は、「安心してくらせること」です。そして日本は平和かどうか、つまり安心してくらせるかについては、否だと思います。わたしたちの日常は、あまりにも不安が多くて、今、この瞬間は安心してくらしていても、いつそれが崩れるかわからない脆弱な社会です。だからわたしは、今、日本は平和でないと思っています。
ところが「世界は平和か」という問いに対しては、多くの方が答えていたように、「戦争や紛争があるから平和ではない」という答えしか見つかりません。戦争や内戦、紛争下では、もちろん安心してくらせないけど、でも、それはわたしにとっては実感のない、テレビの映像で見るもの、現地でのレポートから感じとるものでしかありません。日本は平和ではないといいながら、でも、戦争が起きている国よりは平和だと思っています。そういう「豊かな国」にいながら、他国のことを「平和ではない」ということに後ろめたさを感じています。「豊か」というのは、経済的なことで、貧困が内戦や紛争の原因の大きな要素であることを考えると、経済的な豊かさを得ている国からそうでない国を見下ろしているようなその気持ちをどうおさめればいいのか、わたしにはまだわかっていません。
B大石又七さん(第五福竜丸元乗組員)のお話
大石さんは、『第五福竜丸事件の真実』という著書を出されていて、積極的に講演をされているようで、わたしが新幹線のなかで読んできた資料のなかにも大石さんの話されたものもありました。大石さんが、日ごろどのようなことを講演されているのかという情報を得るのは容易になったけれども、直接、お話が聞けるというのは、このような大人数が集まる機会があってのことです。大石さんの肉声で語られる第五福竜丸事件、これが静岡という「現地」へくることの意味だと思います。(現地という言い方は、ヒロシマ・ナガサキでいう現地ではなくて、第五福竜丸の母港としての「現地」をいいます。)大石さんが語られたことでもっとも印象に残ったことは、「放射能による病気も怖いけど、妬みも怖かった」ということでした。妬みというのは、被爆した第五福竜丸の乗組員は、補償金として200万円が支払われています。当時としてはかなりの大金(もちろん今でも大金ですが)ゆえ、「第五福竜丸に乗っていればよかった」とまで言われたそうです。
大石さんは、被爆者への偏見と妬みから逃れるために東京に移り住まれました。元乗組員として被爆体験を積極的に話されるようになったのもごく最近のことだそうです。
読売新聞には、次の記事がありました。
「大井川町の元甲板員、吉田勝雄(74)は『五十年たっても目に見えない圧力はある』と吐露する。『被ばく者』としてさまざまな偏見や差別があり、自分も仲間も苦労してきた。思いを語ろうとしても、ある種の団体に利用されそうになる。そんなことが積み重なってきた。『事件を風化させてはならず、みんなに分かってもらいたい。しかし、表す方法が見つからない。』」
第五福竜丸事件が核廃絶運動の大きなきっかけになりました。でも一方で運動への考え方の違いから分裂するという不幸な歴史を作ることになります。「思いを語ろうとしても、ある種の団体に利用されそうになる」と、どうして被害を受けた当事者がさらなる苦悩を背負わないといけないのか、来年のヒロシマ・ナガサキの被爆60周年には、そういうことを乗り越えて、被害者が自分の言葉で自分のことを語れるようになることを望まずにはいられません。
最初に「生協の平和活動」としてあげられた「多くの人がかかわれる運動」ということの意味をあらためて考えたいと思います。
「虹のひろば」では他にも、「新しい憲法のはなし、憲法第九条」の朗読や、紛争地域での活動報告、静岡大の学生さんによるコンサート、歌(世界にひとつだけの花)の合唱などがありました。ひとつひとつについてそれぞれ感想はあるのですが、ここでは簡単に書きます。
「世界にひとつだけの花」が、絶叫みたいな歌い方で、とても一緒に歌う気持ちになれなかったのは残念でした。わたしとしては、あまりあの歌を「平和の歌」と捉えたくないというのがあります。昨年の紅白歌合戦ですが、それらしいことをスマップのメンバーが言ったようです。「ひとりひとりが大切にされること」ということが、「人権」につながって、それが「平和」ということにつながるということだと思いますが、わたしにはまだ人権と平和がちゃんと結びつけられていないのだと思います。
「新しい憲法のはなし」は、とても美しくて、力のある文章だと思いました。憲法前文や九条の朗読のほうは、わたしの心にはあまり届きませんでした。九条の解釈の歴史のなかで、その条文の美しさに酔っている場合ではないのではないか、今、現在、進行している「自衛隊のイラク派遣」に九条は役に立つのだろうかと思っていました。
2.平和活動交流会
場所をコープしずおかへ移しての交流会に行きました。コープしずおかは、いわゆるオフィスビルのいくつかのフロアにあります。そこの会議室をお借りして全国の仲間と平和活動交流会をしました。
京都生協からの参加者のなかで3つの会場に分散して入って、活動の交流をしましたが、「自分たちはこういう活動をしている」ということだけでは、あまり参考にならなくて、「何を大切にしているか」というそういうところの交流ができればよかったと思いました。
でも、「楽しく」活動することは大切だけれども、「押さえどころは押さえておく」ということでは、参加者は一致できたと思います。他の会場の様子もお伺いしたところ、発言する人に(時間的な)偏りがあったり、こういう即興の交流会の難しさがあったと思います。平和活動こそ、全員参画のワークショップの手法がとりいれられないものかと思いました。
交流会が終わったら、静岡からJRで焼津に移動して、宿泊先へ行きました。部屋は奈良の方と一緒でした。「かんぽの宿」という安い宿泊所ですが、食事がとっても美味しくて大満足でした。夕食も朝食も、海の幸を美味しくいただきました。
3.久保山愛吉さんのお墓へ
2日目は、第5福竜丸に通信員として乗り込まれ、被爆して半年後に亡くなられた久保山愛吉さんのお墓へ献花をする「墓前行進」に参加することになっています。ただ、この行進だと人数が多いので、実際のお墓は遠くからみるだけになってしまうという配慮から、地元のコープ静岡の組合員さんのご案内で、久保山さんのお墓へ先にお参りをして、焼津の町をご紹介していただくというコースを設定していただきました。
久保山愛吉さんのお墓がある弘徳院へいくまでには、はんぺん工場がいくつかあって、焼津があらためて漁港であることを感じさせられました。お花が運びこまれたり、横断幕がはられたりと、墓前行進の準備が始まろうとしているときでした。少し奥にある久保山さんのお墓にお参りをして、同じ敷地内の少し離れたところにある、久保山さんのご兄弟のお墓にもお参りをしました。久保山さんの弟さんは、日露戦争で亡くなられていますが、そのお墓がとっても立派で、「戦争で死んだ」人のお墓はとても立派にすることができたそうです。お墓の敷地内の上のほうにあって、陸軍の星印が墓石に彫られていました。
わたしが住んでいる深草は陸軍の16師団があったところなので、その星印は日ごろからよく目にしているので、「軍」というものの力の強さをみせつけられたような気がしました。
久保山愛吉さんは、ご兄弟を戦争で亡くされ、ご自身は戦争のための「核実験」で生命を脅かされ、亡くなられました。久保山愛吉さんの反戦への思いは、ご兄弟の戦死を経験されていたことと深くかかわっているのではと、ご案内の方に説明していただきました。
その後、地元の神社や焼津の海岸沿い、分骨されている愛吉さんとすずさんのお墓など、風がきつくて寒いなか、案内していただきました。歩きながら、第五福竜丸事件のこともお話していただきました。(わたしもなんとなく知っていて、もしかしたら有名な話かもしれませんが、わたしは感動したので紹介します。)
ビキニ環礁での水爆実験が行われたときは、夜明け前なのに「太陽が西からのぼった」と思われるほど明るくなり、そしてその3〜4時間後に放射性物質を含む灰が降ってきたということですが、それが水爆実験によるものだということをもちろん、乗組員の人たちは知らされていませんでした。漁労長の見崎さん、通信士の久保山さんは、核実験かもしれないと察し、日本への帰ることを判断されたそうです。ビキニ環礁の近くを通るのが最短距離だったけれども、それを避けたこと、外部へ何かを発信したら、アメリカに傍受され日本に帰れなくなるかもしれないということで、外部との通信をやめて、そして焼津にも静かに戻られたそうです。見崎さん、久保山さんの判断があったから、こうやって水爆実験の被害のことが明らかになったのかもしれません。1日に被爆して、焼津に帰ったのが14日。なにも情報がないなかで不安に思いながら、外部との通信を遮断して日本に向った第五福竜丸の様子を想像するだけで、辛くなってきます。戦争のための道具を開発する実験が、たくさんの不幸をもたらしました。
コープ静岡の組合員さんによるご案内は、焼津駅で終了。そこでお礼を言って、今度は「本番」の墓前行進へ参加しました。愛吉さん、すずさんが愛したバラの花を献花することになっていて、バラの花(有料)をもって歩きました。今年は50周年ということもあってか、マスコミ取材も多かったようです。
4.「被災50周年3・1ビキニデー集会」
2日目の午後は、焼津文化センターで「被災50周年3・1ビキニデー集会」(被災50周年2004年3・1ビキニデー集会静岡県実行委員会、原水爆禁止世界大会実行委員会主催)に参加しました。この実験で被爆したロンゲラップ島の住民の方のお話を聞けたり貴重なお話もありましたが、時間の関係で1人5分程度の話しが次々とされるので、頭の中が整理しきれないままになってしまったことは残念でした。また、最後のほうに登場した自分たちのことを「若者です」と言って、平和活動を紹介する「若者」に対しても、よくわからないものがあって、この運動の閉鎖的な部分を感じてしまいました。「多くの人がかかわれる活動」をわたしはめざしたいと思いました。
5.おわりに
今回、わたしは平和募金で「3.1ビキニデー」関連の行事に参加しました。いろいろと感じたことはあったけれども、「募金で参加した」ということが、わたしのなかでは一番大きなものとなりました。「募金で行かせてもらったのだから、なにかを感じてこなければ、学ばなければ、伝えなければ」という思いが強く、積極的に「知ろう」という行動につながりました。自発的に学ぼうとしたことは、どんどんと吸収することができて、学ぶこと、知ることの楽しさを感じました。募金で参加しなければ、ここまで積極的にはきっとなれなかったと思います。「3.1ビキニデー」のこと、「平和募金」のこと、いろいろな形で今後、伝えていきたいと思います。
ありがとうございました。