1954年中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁*1で行われた水爆実験*2で、放射能を含んだサンゴ礁の白い灰はマグロ漁操業中の第五福竜丸に降下し、乗組員23人が被爆しました。当時は米国とソ連の冷戦状態*3から、大国による核兵器の開発が激化し、この事件は「核兵器廃絶」の運動*4を作るきっかけになりました。

第五福竜丸事件

ミクロネシアの東端にあり、サンゴ礁が隆起した20の環礁と5の単独島からなり、計181平方キロ。人口は5万30001920年から25年間日本の委託統治領でした。

アメリカは、太平洋戦争後の1946年から1958年の12年間に67回の核実験を行い、科学と軍事の両面からデータ収集を進めました。

1954年3月1日にビキニ環礁で実施した水爆実験は、「ブラボー」と呼ばれ、広島原爆1000個分の破壊力で、環礁には直径約1.6キロ、深さ約60メートルのクレーターができ粉々に砕かれたサンゴは、吸い上げられ「死の灰」となって東向きの風にのり、環礁の東190キロにあるロンゲラップなどの島々、1.7万平方キロの範囲に降り注ぎました。

太平洋戦争後、ソ連を中心とする東側(社会主義陣営)とアメリカを中心とする西側(資本主義陣営)が対立していました。軍備拡張(特に核武装)をしながらも、実際には相互の武力行使がない対立状況でした。
世界は二分され、1950年に朝鮮戦争、続いてベトナム戦争が起きました。世界中に米ソの代理が起き、戦闘地域は80箇所をこえていました。
1990年代に東欧社会主義国、ソビエト連邦の崩壊で終焉するまで、冷戦構造は緩和、激化を繰り返しました。

1954年5月9日東京都杉並区の婦人団体、読書サークル、PTA、労組の代表39名が杉並公民館で「水爆禁止署名運動杉並協議会」を結成して、「全国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」という杉並アピールを発表しました。
(アピール文)「広島・長崎の悲劇についでこんどのビキニ事件により、私たち日本国民はみたびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にも恐ろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされ苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもととしている一般国民の不安もまことに深刻なものがあります。水爆の実験だけでもこのようなありさまですから、原子戦争が起こった場合の恐ろしさは想像にあまりあります。たった4発の水爆がおとされただけでも日本全土は焦土となるということです。(以下略)」

*1 マーシャル諸島ビキニ環礁

*2 ビキニ水爆実験

*3 アメリカとソ連の冷戦

*4 核兵器廃絶運動のはじまり

第五福竜丸は、全長約28メートル、幅約6
メートル、140トンの木造遠洋マグロ漁船。

参考資料:毎日新聞2月29日、3月1日 2004年3・1ビキニデー「虹のひろば」資料

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