北京オリンピック予選がメインとなる10月号。
男子は北京への道を絶たれたとはいえ、みんなで頑張って応援したその試合の様子を活字であらためて振り返る、そんな思いでページを開きました。
18ページ「GOLE AREA」というタイトルで杉山茂さんが北京オリンピックのアジア予選について男女のチーム戦いぶりを振り返られています。
杉山茂さんは、NHKでスポーツ中継にずっと携わってきた方で、ご自身もハンドボールをされていたようです。。(これは後日、調べてわかりました。最初に読んだときは、杉山さんがどういう立場の方が存じていませんでした。)
見開きの2ページ。10段弱の割り付けで、そのなかの約1段字数を割いて、「室内競技の応援」という小タイトルをつけて、アジア予選の応援に関して書かれています。
まず最初に、4年前の神戸でのアテネ予選でのファンやサポーターに「心地よさを感じていた」ということを書かれています。(「ファンやサポーターの批判眼にある種の心地よさを感じた」ということですが、この文章の意味がわたしにはよくわかりません。批判眼って、どういうふうに感じものなのでしょう? おそらく「感覚」で書かれているのだと思います。)
そして次に豊田の応援に触れ、
「応援のリードにハンドマイクを使い、勇ましい曲をナマ演奏する制限なしの熱狂は今後は一考されるべきではないか」とあり、
インドアスポーツとアウトドアスポーツでのボリュームの違い、盛り上がるための音は「人」の声までにしておかないと、インドアスポーツの独特の楽しさは損なわれる、それがオリンピック予選という場の戦いであっても、と結ばれています。
この件を書くために、あらためて雑誌を開き、該当箇所に目を通し、上記のような要約、抜粋をしましたが、腹立たしさ以前の悲しさを感じています。
杉山さんは、ご自身の思われたように書かれたのだと思います。
そしてそれが「ハンドボール」に掲載された。そういう認識だと思います。
ほんとうに、振り返ることすら辛いけど、ここはきっちり自分の思いを書いておこうと思います。
杉山さんは、豊田での応援が気に入らなかったということだと思います。
好き/嫌いとかそういうレベルではなく、「耳障りだった」ということだと思います。
おそらくそれは、ハンドマイクを通して聞こえてくる声と、ブラスパンドの音が原因と思われたのでしょう。
それはそれでいいです。
快/不快は、その人固有のものであって、何をもって心地よいとするのか、そして何をもって不快とするのか、それは個人の感性の領域のものだと思います。
たとえば、わたしは「布団たたき」の音がとっても不快で、その音が聞こえてくると一瞬でもノイローゼ状態になります。
ところが布団たたきの音は、日常で当たり前の音だから、まったく不快でないという人に最近、会って、かなり驚いてしまいました。
子どもの泣き声に過剰に反応してしまう人もいれば、何も感じない人もいる、というように、同じ音であっても、その聞こえ方というのは、人によって違うようです。
そういう意味で、あの応援スタイルは、杉山さんには不快だったのだと思います。
それを「インドアスポーツの独特の楽しさは損なわれる」というのも、ずいぶんと言葉足らずだと思います。
「インドアスポーツの独特の楽しさ」って、どういう意味で使われているのか、この文章からだけではわからないです。
インドアスポーツとアウトドアスポーツの「違い」って何なのでしょう?
わたしが観るスポーツは、どちらかというとアウトドアスポーツが多いです。
野球、陸上、ラグビー。インドアスポーツは、ハンドボールだけなので、比較のしようがありません。
野球は応援団(ブラスバンド、チアリーダー、応援団)、陸上は人の「声」、ラグビーも「声」以外の応援は、わたしは聞いたことがありません。
ハンドボールの応援は、太鼓、チアホーン、そしてメガホンからの肉声、そんな感じでしょうか。
そういえば、春高バレーで優勝した大阪国際滝井高校に、友人の娘さんが進学することになっていたのですが、まだ入学前だというのに、ブラスバンド部ということで、埼玉アリーナに駆り出されたということを聞いたので、ブラスバンドの応援はアウトドア、インドアは肉声、という棲み分けはできないようです。
同じ野球でも、日本では鳴り物入りの応援は名物にすらなっているところもあります。
「キヨハラのトンボ」を球場で聞いて感動する人もいるでしょう。
一方、メジャーリーグでは鳴り物はありません。
でもときどきびっくりするような「ブーイング」が聞こえることがあります。
でも、そのブーイングって、偉大な選手という裏返しということをのちほど知りました。
応援のスタイルというのは、その競技、そしてどこに所属して競技をしているかによって、違ってきます。
たとえば、わたしは、高校野球の応援は大好きで、縁もゆかりもない高校でも、わざわざアルプスに行って一緒に応援してしまいます。
ところが、大学野球になると、応援部の取り仕切る応援スタイルがあまり好きになれないのです。
なんというか、応援のための応援みたいに感じてしまって、わたし自身、楽しめないのです。
でも、だからといって、その応援をやめてほしいとは思っていません。
大学の応援スタイルというのは、歴史があってそれ沿った応援をされていることがわかっているからです。
関西学連の試合をみていて、国立大学の試合のときに、応援部が入ることがあります。
普段の応援(応援がある大学も少ないですが)と違って、その大学の独特の応援がされるのですが、それもまた歴史のある応援と捉えています。
人によって感じ方はいろいろであるはずなのに、杉山さんはマイク声とブラスバンドが気に入らなかった。
じゃあ、肉声でどういう応援がよかったのでしょうか。
批判をするなら、具体的に書いてもらえれば、ちゃんと伝わるのにと思います。
それでは、そういう個人の思いを、専門誌に掲載する意図はどこにあるのでしょうか。
イヤだったから、イヤと書いた。
それが通用するのが「ハンドボール」という雑誌なのでしょうか。
みんなで一所懸命に応援フレーズを考え、どうすれば会場のみんなと一体感をもって応援できるか。
そしてそれがプレイする選手たちのどれくらい伝わるのか。
そういうテーマで、応援スタイルをにわか仕込みのみんなで整えてきたはずなのに。
何を根拠にこういうことが言われたのか、杉山さんにはぜひ、お伺いしたいと思います。
インドアスポーツの独特の楽しさってなんですか?
それは、ブラスバンドやハンドマイクを通しての声に消されるような楽しさですか?
わたしたちの応援は、選手のみなさん、どうでしたか?
力になりませんでしたか?
実際にあのコートに立っている選手に、「今後は一考されるべき」ということであれば、その批判は真摯に受け止めなければならないと思います。
でも、選手のみなさんは、どうだったのでしょう。
ぜひ、お伺いしたいです。
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花子のノート