丹後町から網野へ(94.7キロ キロ10分)

 もう完全に歩いても大丈夫なところまで、やってきました。
 海岸線に入ると景色がいいです。沈む夕日は曇っていて完全にはみれないけれど、走り始めたのは、まだ夜明け前だと思うと、不思議な気がしました。太陽に「今日、一日ありがとう」(何がありがとうなのかは、よくわからない)、「美しい景色をありがとう」と感謝しながら進んでいきました。壮大な屏風岩をみながら、なんか絵のなかにいるような気分になりました。
 日本海を右手に西向きに進んでいたので、この海のずっとずっと先が山口なんだなと思いました。山口には、HPにいつも寄せてもらっているfujiさんがいらっしゃいます。完走できたら、HPに書き込みいにいけるなぁ、いきたいなぁと思いながらすすみました。もう10時間以上走っているので、意識していろいろなことを思考するようにしました。100キロの大会に出ることは、書き込んでいたので、「ダメでした」でなく、「完走できました」と報告できたら嬉しいなと思いながらすすみました。
 「間人(たいざ)」という街も通過しました。間人カニで有名なところです。今度はカニを食べに来たいと思いました。間人の旅館街でしょうか、ここでもたくさんの応援をもらいました。もう結構、ボロボロなので、ちょっと恥かしかったです。ほとんど走ってるふりだったと思います。せめて顔は笑っていたいと思って、応援されたら必ず「ありがとうございます」と返すようにしました。
 かぎろひ132キロのスタッフをしたときに、応援のことばには随分と気をつかって「頑張ってー」と言わないようにしたけれども、やはり応援は「頑張って」に限るなと思いました。頑張らないと走れないんだから。もし、「頑張って」という応援をされて、気分を害したなら、それは気分を害するほうが悪い思いました。「頑張る」っていい言葉です。

 海岸線をしばらくすすんだらまた少し中に入って、いよいよ網野町に戻ってきました。網野から始まって、久美浜、網野、弥栄、丹後、そして網野です。
 最後の関門の94.7キロ地点もクリア。ようやくここにきて、完走を確信しました。キロ10分だから2.5キロを25分を越えないように、歩きました。このときのわたしの考えた理由がおかしくて、今もし走って、こけたり、足をぐねったりしたら、ゴールできない可能性があるから、ここは確実に歩くというものでした。ようこんな都合のいい理屈を考えるなと、今思えば不思議ですが、そのときはそう確信していました。

最後の5キロ (100キロまで キロ10分)

 94.7キロをすぎたら、あと5.3キロ。距離表示も「あと○キロ」というものに変わります。キロ10分だけははずさないように、必死で歩いていました。そのときは普通に歩けたけれども、右足首が結構、痛いのは自覚していました。力を入れるたびにズキズキする感じです。でも、前へすすみたいという気持ちは十分あったので、ひたすら歩きました。
 どこの地点が忘れましたが、右手に蛍光のリストバンドのようなものを渡されました。暗くなってきたので、ランナーの安全確保のためでしょう。そういえば、野辺山でもこんなのもらえるのよね、わたしはそれをもらう前にリタイアしてしまったけれども。
 85キロを越えてからは、たくさんのランナーに抜かれました。75キロ以降のところで、抜いていって見覚えのあるランナーもたくさん、いました。やっぱり歩くより走るほうが速いにきまってるよな、と思いました。今度100キロに出る場合は、名実ともに完「走」したいと思います。
 左手に離湖という湖が見えました。暗いのでなにか幻想的です。
 そして八丁浜。網野北小学校はもうすぐです。こんなに長いあいだ走ったけれども、あと何十分で終わりかと思うと、不思議な気持ちになりました。身体はガタガタなのに、「もう終わりなんだ」と思えたのは不思議です。
 あと1キロくらいになって、せめてここからは走ろうと思い、走りはじめました。たくさんの方が、「もう少し」「よく頑張った」と声をかけてくださいました。
 13時間44分。制限時間15分前のギリギリの完走になりました。予定では51分だったので、予定よりうまくいったと考えるのか、後半、もう少し走っていれば30分切れたと考えるのか、いろいろありますが、やはり初完走ということで欲は言わないでおこうと思います。
 今日はいろいろいい条件が揃っていて、たまたま最後までこれました。
 たまたまでなくて、100キロを当たり前に走れるランナーに、次はなりたいと思います。
 ゴールでメダルをかけてもらいました。50キロのメダルは3つももっています。100キロのメダルは初めてです。ずっしりとした重みは心地いいものです。

丹後歴史街道100キロ
花子のノート
大会をおえて
花子のノート