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小笠原 広さん | ||
小笠原 広 昭和23年生 享年50オ
平成10年10月2日未明、胆嚢癌に因り鬼籍の人となりました。
生前は画材商、額装を生業としてわりましたので、知人、友人も多く
三ヶ月余りの闘病を知る者は10人足らずで、訃報が行き渡った時は、皆
愕然とした面持ちであったと聞きます。
彼の人生は、世に言う全共闘世代と一致しますが、生来の譜を持って
「ポップ、カルチャー」に興味を深くし、以来不承不承ながら家業に骨
を析り、両親を扶けて米沢はおろか、置賜地方一円の美術分化事業を支
えた一人でもありました。
私生活にっては、酔を愛し無類の音楽好きで、後年友を得て、渓流
に岩魚を追って夜を明かも、焚火を守れば輩を擢んでいたと聞きます。
他山の絵画、図版を額装に明け暮れた彼でありましたが、天賦の才か、
血脈か、自室で書き溜める、コラージュ、絵画が幾展も、現在残ってお
ります。
三回忌が西暦2000年に当たることから、彼の業績を報知し、回顧
を込めて、僅かではありますが「2000年カレンダー」を製作し、以
て領布するものです。 (尚 戸籍名「廣」を、故人が生前使用していた通り名「広」をあえて、位わせていただきました) 2000年カレンダー 製作友人一同 |
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以降は、加藤ちゃんとミッちゃん談 ひろちゃんの風貌は、サルバドール・ダリに似ている。 営業時間中はジャズしかかからない「ジャズ喫茶マイルス」に午後9時頃になると、ジミヘンのアルバムを抱え、赤いツナギを着て通ってくる人がいた。それが(小笠原)ひろちゃんだった。9時を過ぎるとマイルスでも、持ってきたアルバムを、大音量でかけてもらえた。 その時間帯のマイルスには、加藤ちゃんや加須屋さんも通っていた。 ガロが開店する前の昭和50年頃、ひろちゃんがフリークアウトというお店を始めた。 たしか、2階にあるお店だった。 一方、ガロは、当初はライブ喫茶で生演奏をやっていた。しかしE×××さんがギャラを請求し始めたので、ライブはやめてしまった。(ご飯を食べさせるだけではだめだった?) | ||
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