思い出話 プロジェクトからのお願い
小松の加須屋君より
皆々様にはこの不景気にもかかわらず、器用にかつ多様にそれぞれお過ごしの事とお慶び申し上げます。
先だって(1998/02/14)は大変ご機嫌なコンサート 無事御成功の段誠に慶賀の至りでございます。影に日向にご尽力頂いた皆様方には本当にご苦労様でした。
やむを得ずとはいえ参加できなかったのが日ごとに悔やまれ、今晩見る事になるビデオに至ってはうらやましいばっかでした。
つきましては、コンサートに参加できた面々や、できなかった面々にもお願いなのですが、コンサート当日キーボードの上にじっと鎮座ましましていた"ヒロ坊"と一緒に過ごした"あなたの青春時代の思い出"をめいめい各々綴って頂きたいのです。あくまでも主役はあなたで"私の青春米沢時代""軽音研と私"とかその文章に"ヒロ坊"が1行でも出てくれば良いと思うのですが。文章スタイルは何でもお好きな方法で面白おかしくも、涙涙の青春時代でも、そこは得意な皆様にお任せいたします。
ご存知のように彼には"黎"と"耀嗣"という二人の男の子がいます。とてもナイーブでやんちゃな子達です。彼らは、今後成長と共に"おやじ"について"その人となり"について考える時がきっとくるでしょう。そんな時にいろんな人"横澤 浩"を少しでも知っている人から、どんな事でもなんでも"おやじ"に関する事を聞きたいと思うでしょう。彼らがそんな時、"おやじ"を想像できる材料が少しでも多く手近にあれば彼らにとって貴重な宝物になる事と思います。
皆さんからの投稿は今後不定期発行予定の軽音研OB会誌に随時発表していくのも面白いと思います。お手数おかけすると思いますが、私もできる限りの協力をさせて頂きますので宜しく皆様にご連絡寄稿の要請をお願いします。
いま、2/14のかけらを求めて福島から米沢へと在来線を旅していますが雪どころか桜までも終わってしまったようです。カラフルな2両連結の電車は"板谷駅"につきました。"スイッチバック"や"くじらもち"なんぞ出てくると非常に愉快なのですが。こんばんはおもいきって天元台か小野川かどっかに宿を求めてみましょうかっと。
山々の緑は淡く、限りなくやさしい顔をしているのに、これからの夏に備えてしっかりと力を貯えていることを想うと、人も優しい顔をしている奴ほどその中身は限りなく力強く混沌としているのであろう。(軽音研の面々のように)
以下、投稿文書です。
思い出話 投稿 「また、どこかで」
川口
「大きなくしゃみ、かわいらしい笑い声、真室川音頭、金は天下の廻りもの説..等々」、横澤さんの人と生はこれらのキーワードで私の心に生きています。
学生時代に軽音楽研究会で初めてお会いし、それから私の半生に相当する20年あまりの間、お付き合いさせていただいたことになります。 学生時代はもとより、結婚後の現在に至るまで、山形、福島、仙台、新潟、石川、福井、東京、名古屋、京都、大阪、広島などの各地で、さまざまな思い出があります。
学生当時、米沢の軽音研では、別々のバンドで活動していました。横澤さんがギターを弾いていたバンドで私はヴォーカルとして1曲だけですが、参加させてもらったことがあります。学園祭の体育館でのコンサートでした。恐れ多い先輩のバンドに、私一人で緊張していたように思います。
卒業論文の追い込みで実験データのグラフをお手伝いした際には、ロットリングやインスタントレタリングの使い方を教えていただいて、完成後には余ったシートやテンプレートを山のように譲り受け、今でも時折使わせていただくことがあります。
また、軽音研OB会誌の編集長をされており、私へ引継ぐ時に夏の暑い四畳半の下宿で、冷やそうめんをすすりながら二人で編集作業をしていた場面が思い出されます。 その後、編集業務は後輩に引き継ぎましたが、しばらく休刊しているようです。でも、今回のことを機に復刻することになりそうですよ。
卒業後は、長井の旧家の研修所、中小企業大学校。そして大阪に住まわれていた頃は私も名古屋に出向していたものですから、近鉄特急で何度となく通い、一緒にクラプトンやジェフ・ベックのコンサート、映画のロードショー、大阪の「うどん」や「うどんすき」も教えていただき、ケントスではオールディズで踊ったこともありました。
ある時、杯を交わしたあと勘定を払おうとする私を制して「そのお金は川口の後輩のために使ってよ。そしたらその後輩がそのまた後輩のためにお金を使う。 これ即ち”金は天下の廻りもの説”っていうんだよ」。 連鎖的に人のつながりを表すこの”説”には大いに共感するところです。
私が新潟で結婚した時も、最も遠方の大阪から来ていただき、十八番のディープパープルナンバーを弾いてくださいました。
その後も、横澤さんの結婚披露宴を含め、たびたび夫婦ともども出かけていきました。
ただ、九州へ移られてからはさすがにお会いできず、そうこうしている間に、このような残念なことになってしまいました。
「ハハハハハハッ」という笑い声、得意の「わたーしゃーまむろがーわの...」の歌。横澤さんへの想いは尽きません...。
またどこかでお会いできますよね。
思い出話 投稿 「一期一会」
加須屋
文字どおり生涯の友となり得た事をうれしく思っております。学生時代から、彼の短かった四十年ほどの人生の、約半分に何やかやとお付き合いさせて頂いた事になります。
その間の彼との接点には必ず酒がありました。バンドの練習の後は必ず飲んでいました。コンサートでは音だしに全力を尽くし、打ち上げではもっと力を発揮していたと思います。 当然“私も”ですが。
とある天気の良い春の事です。当時軽音研で重宝がられていた《ダットサントラック》で菅野氏と3人、長井方面へドライブ。 『マスカッツ、ココナッツ、バナナ・メロン』とめったに歌わない彼にも強制して3人は大声で合唱しながら目的の喫茶店へ、彼はこだわりの紅茶のオーダー。
その帰り彼のおばあちゃん家から黒ビール1ケースをゲット。彼の下宿で早速の酒盛りです。他の下宿人も加わり大騒ぎ、スティクでそこいらじゅう叩きだす輩や、それだけでは物足らず、空瓶を全部並べてその上を滑るは、踊るは、転ぶは、大変です。
いつも大騒ぎは彼の部屋、叱られるのも彼、次の日の後片付けも彼、翌日お昼はお得意の冷や麦、パンツ一丁で掃除機をかけながら、こだわりの麺を茹でます。
というように彼の学生時代のエピソードには必ずといっていいほど酒が絡んでいます。そして前準備と後片付けには彼の姿がありました。
さてさて、学生時代の酒盛りはもちろん後々友人の結婚式や家族ぐるみの一泊旅行など、皆集まれば、誰にも負けないくらいそれぞれ人生を楽しんでいました。
1回目の手術を終え、少し落ち着いてからでしょう。九州時代に暫く音信が途絶えるのですが、久しぶりに拙宅へ遊びに来るという電話が入りました。
その時始めて私に“ガン”、“入院”、“手術”の話をしてくれたと思います。新潟から川口も呼んで、いつもの飲み屋でわいがや、いつも通り飲んで、そして次の日もいつも通りこたつにへばりついていたのですが
“かあちゃん(私の妻)水くれ〜”
“俺も薬のまんならんようになった。 これと、これ、ほいでこれが抗がん剤”
といって自慢していました。
あまり関心を示さず、確か
“吐き気なんかせんのか?”
と聞いた程度でした。ついでに手術の跡など見せていきました。
その後一、二度来ているはずです。けれど病気の事など特に話す事なくいつも通りその“時”を楽しみました。
そして最後の“一会”になるのですが、前年の何月頃だったでしょう。ちょうど築地で御神輿が出ていました。
東京駅だかで待ち合わせして例によって銀座のライオンへ
“黎”と“耀嗣”を連れて行きました。子供達はおおはしゃぎ。彼らを時に叱りながら、2度目の手術の話を少し、彼のガンと死とはぜんぜん関係ないものと思っている私には、とても後数ヶ月の話には聞こえてきませんでした。
私も体調を崩していた時でしたので二人とも“生と黒”の“中2杯”が限界でした。
その後、勝鬨橋のマンションから子供二人も一緒に、築地で御神輿を見ました。私が“黎”を連れ、彼が“耀嗣”を肩車して。
そして地下鉄の入り口で別れました。
彼はそれが最後だろうと確信していたでしょうか?
翌年 2月 菅野がぐしゃぐしゃの声で泣きながら電話してきたのです。
“加須屋〜! 横澤死んだぞ〜”
思い出話 投稿 「ええ」
大槻
クリーム色(アイボリーって言うんですか)のストラトの生音良かったと思います。フェンダー生で見て触れたのは横沢さんのが初めてでした。
ガロの2階の日あたり良好の暑い部屋で、窓には、なりは小さいがうるさい扇風機がぶらさがっていた気がします。そこでそうめん食ったような
気がします。
私はまだうぶで、5年生、6年生が新鮮に写っていたころのことです。
こてこてこてこてという響きがとても心地よかったです。
思い出話 記事 「横澤さん三回忌」
川口弘昭
思い出話 投稿 「加須屋さんの通夜参加報告」
角谷
加須屋さんの通夜、告別式に参加しました。
ほんとに懐かしい人達が集まったという感じです。
楽しいイベントだったら良かったのに・・・
通夜に集まった人の数のすごさに加須屋さんの人望を感じました。
棺の周りでみんなで酒をくみかわした時は私はボロボロでした。
加須屋さんの穏やかな顔が救いでした。
通夜の後は某居酒屋で大宴会でした。(18人だっけ?)
いやー飲んだ飲んだ。告別式の時まで頭が痛かったもんね。
でもこういう席に加須屋さんがいないのはやはり寂しい。
P.S.
夜中の3時出発という大強行軍の編集長はちゃんと帰れたのでしょうか?
P.S.その2
トップにあった写真はいつ頃の写真でしょうか。
角谷のP.S.について 川口より
ちゃんと帰れました。心配ありがとうございます。
今日変えてしまいましたが、7/5のトップにあった写真は、先の5月4日にみっちゃんからの借用した写真のなかの1枚で、「2階を掃除してたら、横澤さんのメモ付きで出てきた写真」だそうです。加須屋さんのバイバイショウ(1981年3月)の時のもの。偶然なのでしょうか