野口雨情の詩になる童謡“赤い靴”をはいていた女の子にはモデルがありました。明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、このときすでに「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見えることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。
景行天皇第二皇子の日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、之を平定するため吾嬬国に行く途中、この地で逆賊が起り尊を殺そうとして原野に火を放った。尊は佩用(はんよう)の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を振り草を薙ぎ払ひ火を逆賊の方へなびかせ尊は無事に難をのがれた地を草薙という。 その後佩用されていた天叢雲(あめのむらくも)の剣を草薙の剣と名前を変更になり草薙神社に神剣として奉られる。今より千八百六十余年前である。