あっしが小学生のころ、プラモ狂四郎という漫画がありました。プラモデルのデータをスキャンして、仮想現実の中で主人公たちがそのプラモデルを操縦させて戦うというものでした。あっしでなくとも同世代くらいの人なら、プラモ狂四郎を読みながら自分のガンプラ(ガンダムのプラモデル)を握りしめ、そういう仮想現実内の戦いを想像したことはあるでしょう。
日本の場合、夢の対象はアニメなどに出てくる巨大ロボットが多い訳ですが、アメリカの場合はスーパーヒーローになるようです。ヒーローたちのアクションフィギュアで遊びながら、自分がヒーローになったりヒーローたちの戦いをサポートしたりして、自分自身の冒険物語を紡いでいくのでしょう。またたとえばガンマニアの中にも、映画やテレビドラマの主人公が使っていた銃が好きという人の中にそういう心は生きているのでしょう。
そんな子供(あるいは、子供の心を持った人たち)たちの夢、人形が実際に動いたら……そんな夢をフィルムに焼きつけたのが、このスモール・ソルジャーズです。
監督はジョー・ダンテ氏。グレムリンの監督と言ってもいいし、ピラニアの監督と言ってもいいでしょう。もっともグレムリンもただかわいいお子さま向けの映画ではなく、わりとグロテスクなところがあったり、反骨精神と言うかあまのじゃくな部分が顔を覗かせたりしています。
内容は、アクションフィギュア版グレムリンです。以上。じゃなくって。
この作品のキーワードは”設定”と言えるかもしれません。主人公たちの側につくゴーゴナイトたちは、元々は教育玩具向けのキャラクターで、故郷「ゴーゴン」から迷い出たゴーゴナイトたちが人間社会の事を学んで行くという設定になっています。そのため、主人公たち人間にもなじんでいきます。
一方のコマンドーエリートは最初から戦闘のプロフェッショナルで、敵として設定されたゴーゴナイトを殲滅するためなら手段を選ばないよう設定されています。そのためゴーゴナイトをかばった主人公=人間を敵として認識します。
ゴーゴナイトは言わばやられ役で、コマンドーエリートに勝てないよう設定されています。設定の中にしか存在しない故郷を思い、そして主人公を助けるためにその設定に立ち向かうゴーゴナイトたちは、なかなかいいです。
一方のコマンドーエリートたちも戦争映画のパロディとして非常によくできており、おもちゃがオーバーに演じることで戦争映画、または戦争自体のバカらしさを戦争映画&アクション映画好きのあっしとしては恐ろしいくらい的確に暴いてみせます。
だからと言ってただ単純に戦争反対、ラブ&ピースな内容ではなく、ダンテ監督は主人公とゴーゴナイト以外のほとんどを茶化してみせます。その視点は、かなりひねくれていますが、それゆえに逆にわりと正しい方を向いているのかもしれませんね。
なおコマンドーエリートたちの声は戦争映画「特攻大作戦」の俳優の人たちが当てているそうです。一方のゴーゴナイトたちは、イギリス出身のロックバンド、スパイナルタップの人たちが担当しています(だってそうクレジットに書いてあるんだもん)。
あっしはあまりドラマは見ないもので(見るのはアニメか、テレビ東京のローカル旅行番組とかが多い)、踊る大捜査線は見ていませんでした。だからそれが映画化されたときも、所詮はテレビの延長ざんしょとタカをくくっておりました。ごめんなさい。私が悪うございました。
テレビ番組の映画化というと、テレビ版ファン向けのサービスという面が強く、劇場版機動戦艦ナデシコは開き直って同窓会をやってみたり。テレビ版を見ていなければ、人物の相関関係などがわからないということはよくあります。ストーリー性の強い連続ものだとどうしてもストーリーやドラマを引きずってしまうからでしょう。一話完結ものでも大まかな流れはあったりするので、その辺を無視すると失敗しがちです。
踊る大捜査線の優れている点は、登場人物の説明に決して手を抜いていないことです。普通の映画同様、見ている間にキャラクターの相関関係などがちゃんとわかってくるようになっています。それが単にテレビ版をなぞっただけかどうかはわかりませんが、よくできていることだけは確かです。
ストーリーも、いくつかの事件をうまくからませて伏線を丁寧に張り巡らせ、最後にはきっちりと終わらせています。いくつかの謎もいい具合にあっしの浅はかな予想を裏切ってくれて、なかなかいい具合です。警察内部などに関してはだいぶリアリティを持たせ、それでいて娯楽性を損なわないようにしている点も注目です。
唯一、小泉今日子さん演じる殺人鬼の後半の役どころは、羊たちの沈黙を意識しすぎてちょっとハズしぎみでしたが、演技自体はものすごくいいです。オタク系の雰囲気がうまくにじみ出ていて、歯列矯正器がいびつな感じをうまく出しています。演技という点では、柳葉敏郎さんも無理してるんじゃないかってくらい張り詰めた緊張感を顔に張りつかせているのが非常に印象に残りました。
パンフレットによると、劇場版だからといって気負わずに作ったということだそうですが、それはテレビ版をどれだけ丁寧に作っていたかということなのかも知れません。ちなみに一緒に見に行った親父もほめていました。
ある程度の人たちはとうの昔に知っているし、あっしもようやく感じ始めたことですが、TVアニメが行き詰まりを見せているような気がします。真剣なものを作るのに様々な規制があったり、仮に力を出しても力不足だったり。技術的には、金さえ出せば世界最高水準の物ができるとはいえ、つまらないわけではないが、どこか型にはまって硬直した感じが拭い去れない。
日本のアニメには新しい血が流れないといけない。アメリカのアクション映画が今、香港アクション映画を取り込んで力をつけているように。同じアニメでも、実験アニメや非商業アニメ、海外アニメには何かがあるかもしれない。そういう作品を見て何かを感じ取って損はないはずだ。
そういうわけで、邪眼です。フランスの芸術集団「ル・デルニエ・クリ」の製作によるアニメーションで、何人かのアーチストがそれぞれに作品を持ち寄っています。しかしフランスのアニメーションだからといっておしゃれで粋だったりするわけではありません。
人間の内側にある猥雑だったり暴力的だったりする衝動やイメージをフィルムに叩きつけるように描いています。それはアニメーションという手法を使うことによってワンクッション置かれた形になり、ある程度人に見られる姿を取ることができます。
自分の思いやイメージを他人に理解できる形に翻訳するのが創作という行為の重要な要素だとあっしは思います。この作品はどちらかというとイメージの表現に重きを置いたものですが、完成度の高さや緻密さと違うところにあるもの、日本的なアニメとは違う新しい血の匂いがあるように思います。