1998年9月11日(金)

1989年から1991年、わたしは全く経済体制の違った国を見た。
ルーブルは信じがたいくらい暴落した。物を持つこと以外に信じられることはない!!ということも身体で覚えた。

だからといっては変だが、ロシアへ来ることが決まって以来、子どもの洋服特に真冬の防寒具、おもちゃ、長い冬の間に読める本などを入念に用意した。準備は今年に入ってすぐに始まった。子供服のバーゲンには必ず行った。
家で遊べるおもちゃやゲームなどを買いためた。

ちょうど、中学生活のほとんどをロシアの学校でおくる上のむすめのためにわたしが中・高校生時代に読んだお古の本や夫が読んでよかった古典などを出来る限り多く選んだ。
わたしにとっては中学時代に読んだ本が今の自分の本当の宝になっていることを感じるから、わたしたちは多分他になにもあげることができないから、この宝こそむすめに伝えたかった。
それはまた、わたしたちの心を捧げることに他ならないと感じたから・・・。

夏目漱石、芥川龍之介、太宰治。樋口一葉、中原中也の詩集。宮沢賢治・・・・。ちょっと早すぎるかなと、夫と話し合い、自分がいつ読んだか思い出し、確かめながら、わたしたちは丹念に
「この本は持って行こうね。この本は帰ってからでいいんじゃない。」などと、云い云いしたものだ。

私たちはフランス文学とロシア文学が好きだったので代表的な文庫本はほとんど持っていた。
もう茶色に変色していたり、パラっとページをめくってみると拙い感想が書き込まれている愛書たちと呼んでも差し支えないものだった。

もしかしたら限りなく遠い昔のような、それでいてついこの間読んだような感じの本が次々に思い浮かんだ。そして、それにまつわる幼いながらも、何かを感じるということに真摯だったあの多感な青春の入り口を肌身に感じながら、一冊一冊選んでいた。

それらの本を読んだときの風景が胸をよぎり、あのころの心の動きが切ないまでに思い出される。

夫もそれは同じ思いだったに違いない。

いまある自分を作り上げるために必要不可欠だった本たち。
 
 

6月15日(月曜日)、船で送る全ての荷造りを終え、宅急便で埠頭まで出される荷物を見ていた。

運送会社G社は、東欧関係に強く確実だと聞いて安心しきっていた。これでまた一つロシア行きが近づいたのだ。学校の終業式を待って、すぐかの地への出発だ。

アパートを捜したり、学校を決めたり、自動車を買ったり、することは盛りだくさんにある。

だけど、この荷物がわたしたちの厳しいロシア生活に少しでも潤いと豊かさをきっともたらしてくれるに違いない。不要かもしれないものもあるかもしれない。でも後悔はしないだろう。

環境の激変するこどもたちやわたしたちにとって、時に安らいだ日本の香りをなげかけてくれることだろう。

1994年以降、ロシアには無い物はないとは聞いたが、それとこれとは話しが違う。慣れ親しんだものたちが生活を彩り、わたしたちにこの上ない安定感と安寧を与えてくれるに違いない。
 
 
 
 
 

ああ・・・・。
 
 
 
 

グっっグっ・・・・。
 

今の私の気もちを表現するのにどんな言葉を使っていいのか・・・。
 
 

おお、おお・・・・。
 
 
 

おっと・・・・。
 
 
 

G社のモスクワ駐在員から荷物は8月初めに到着していると、聞いていた。早ければ、8月第1週目には家まで運んでもらえるはずだった。
ところがお盆が過ぎても何の音沙汰もない。
電話をしてみると、2・3日後には配達できるということ。
2.3日過ぎてもまた、なんの連絡もない。
4.5日して、電話をしてみる。来週の水曜日には・・・と、答える。
その水曜日になってみても、またもや電話もくれない。
金曜日になって痺れを切らして、G社の駐在員に電話をまたぞろかけてみた。
来週中には必ず・・・と、言う。
「信じてイイノかなあ。」「大丈夫だろう。日本の会社だよ。」「そうねえ、ここはロシアだし、色々駐在員の人も大変でしょうからねえ。」「あんまり、プッシュしすぎても悪いだろうねえ。」

8月の28日にはモスクワ日本人学校の新学期が始まる。
焦ってきていた。
「ちょっと何とか言ってすぐ持ってきてもらわないと・・・。学校で使うものもあの荷物の中
にいっぱい入っているし。」
「そうだねえ。明日また電話してみるか。」
気温は日本の真冬並みに下がってきていた。遅くとも8月下旬には絶対、家まで届けられるとG社東京本社の人は日本で確約してくれていた。
8月下旬にはモスクワはとても寒い日が続くことを知っていたわたしたちは、とりあえず岡山の冬に通用するようなコートを1枚ずつはもって来てはいたのだが・・・。モスクワの8月下旬は岡山の真冬よりもっと寒い。
下のむすめは身体が弱いせいか寒さで、風邪をひき、喘息を併発し、おなかまでこわしてしまった。

さすがのわたしたちも我慢ができなくなった。
「わたしたちの荷物はどうなっているんですか?もって来てくれるといつも空約束ばかりで、そちらから連絡をいただいたこともないじゃありませんか。どうしてこんなに長い間荷物が来ないのですか。説明してください。」
「それが、税関の担当官の上官が夏休みでまだ職場復帰してないんですよ。9月の初めころには届けられると思います。」
「本当にこんどこそ、そうなんですね。じゃあ、そちらから電話をいただけますね。」
「ええ、こんどは9月の3日に電話をしますから。心配しないで下さい。」

9月3日になっても何も連絡はなかった。
だから、9月4日に今度もまた電話をかけた。
「ああ、いつもおさわがせしてすいません。また、岡山の吉田なんですけれど・・・。荷物はいつ持って来てもらえるんでしょうか。」
「来週水曜日には80%の確率でお届けできると思いますよ。水曜日に電話をください。」

9月9日(水曜日!!)午後時に夫は電話をかけた。
「あの・・・岡山の吉田です。」
「ああ、わたしです。じつは、東京本社が倒産してしまったんですよ。今日は届けられないですが、金曜日か、来週の月曜日には必ず、お届けしますから。決して心配なさらないように。」
「はあ、じゃあ、大変でしょうがよろしくお願いします。」
 

次の日、G社モスクワ支社へ電話をかけたが誰もいない。その夜、心配になって、知り合いに電話をしてみた。すると、G社のモスクワ駐在員はすでにこのモスクワにはいないという。
夜逃げ同然で9月9日夕方の東京行きの便で飛び去ったというのである。

「えっ??!」
 

夕刻4時にその人と話して、荷物のことは責任を持つと言明したばかりではないか。
一体、どうなるのか・・・わたしたちの荷物は・・・・。
 

今、現在、その荷物がどこにあるのか、どうやって受け取るのか、誰が責任を持つのか、荷物に保険をかけたのだが、それはどうなるのか、全く五里霧中の状態である。

ああ、わたしたちの荷物よ、いづこ。

寒い冬が早足でやってくる。ここしばらくの間はモスクワの天気はわたしたちに味方をしてくれている。

とてもあたたかな秋晴れが4・5日続いている。
 
 

どうかどうか、一日も早く無事に荷物が着きますように・・・・。
 
 

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