11月4日(水)
 

昨日、実に昨日の火曜日。
知り合いに会いに行った。その帰りまさにメトロに乗ろうと、メトロの入り口にさしかかったとき。
「パスポートを見せなさい!!」
と、若い警官に呼び止められた。
「持ってないんですけど・・・。」
「なんでだ。」
「何でって言ったって。家へ置いてきたんだもの。」
(実は家にもパスポートはないのだけれども・・・)
「いつもパスポートは所持していなければならない。怪しいので署まで来てもらおう。」


げっ!!




それは困る。

ロシアの人はこんな時絶対に融通は利かない。その上、自分のパスポートが今、ヴィザ更新のため外国人住民登録局にあると言わなければならない。
ところが、残念ながら、そのようなややこしいロシア語は夫の仕事であると信じて、その単語を覚えていないのである。
説明の仕方がないから、家にあるととりあえずは言ったのはいいのだが・・・。

しょっ引かれたくない!!調べられてヴィザなし滞在をしているとわかったら、一家もろとも豚箱に入れられるかもしれない。

んんん〜〜〜〜。

これは、困る。滅法困る。どうしよう。
ドゥニャンの口から変な言葉が衝いて出た。

「あんた、本当に警察官なの?女、一人歩いているのを連れて行こうとするなんて・・・。証明書を見せてよ。」
「何?疑うのか?」
「そうよ。だって危ないもの。」
「ちょっと来い。」
「いやよ。その前に知り合いと家に電話をかけなきゃ。で、電話のコイン持ってる?」
ロシアは公衆電話をかけるとき、ジェトンと言う特別製の茶色い小さなコインが必要なのだ。
「いや、持ってない。」
「じゃあ、私、知り合いで通訳してくれている人のところへまず行くから。」
と、勝手にトコトコ歩き始めた。
「オイオイオイ。どこへ行く?こっちじゃあないだろう。」
「いや、わたしはこっちへ行きたいの。だって、わたしじゃあロシア語は話せないから。」
「そんなこと問題ではない。パスポートを持ってないのが問題なのだ。」
「そんなこと言ったって、なんでパスポート持ってないのか説明できないんだもん。」
「しかし、どうしても一緒に署まで来てもらう。」

「エッー。じゃあ、電話をかけさせて。」
「ただでかけられる公衆電話が近くにある。そこでかけたまえ。」
「ほんとうに?大丈夫?嘘じゃあないんでしょうね。」
「ほんとうだ。試してみてもいい。」
「じゃあ、やってみようか。」

警官が連れていってくれた公衆電話はこわれて全く使えないではないか。
「これ、壊れて使えないじゃあない。やってみてよ。」
「うん。そうだな。使えないな。」
「どうする?」
と、ドゥニャン。
「署まで来て、それから電話をすればいいではないか。」

「あんた、ほんものの警官なの?怪しい・・・」
「一緒に来れば、本物かどうかわかる。」
「えー。行きたくないなあ。」
「そう言われても困る。付いてこい。」
「車で行くの?それだったら行かないよ。」
「いや、歩いていけるところだ。」
「本当?」
「とにかく付いてこい。」

まあ、仕方がない。ついて行くより他ないだろう。200mほど行くと、曲がりくねった路地に連れて行かれた。
「本当に、本当にここに警察署があるの?修理中のおかしな建物しかないじゃない。わたし、行きたくない!!」
「あのなぁ。あそこにパトカーが止まっているのが見えないかい?あの建物の裏側が署になっている。」
「でも、警察署の看板どこにもないじゃない。」
「いや、もう一回曲がればあるから。安心して付いてこい。」
「本当かな?」
しつこいドゥニャン。

「な!!なっ!!本当にあるだろう。看板が・・・。警察って書いてあるだろう?読めるか?」
「うん。本当だ。あんた、本当の警官だったんだねえ。」
変なところで感心してしまった。ちゃんと警察の制服は着ているが、証明書も見せないし、若すぎたのが運の尽き。ドゥニャンに怪しまれたのだ。

警察署に入ると、確かに大勢警察官がいる。その上、金属探知器のゲートまであるではないか。ガラスでしきられている部屋には、テレビで見る日本の警察署より閑散とはしているが、一応携帯トランシーバーなんかが置いてあって、何かの事件に備えて恐そうな面構えのおっさんたちが座っている。

ドゥニャンに圧されっぱなしの若き警官は、気を取り直して尋問を始めようとした。
「なんでパスポートを所持していないんだ。」
「待って、電話かけさせてくれるって言ったじゃない。」
「そこの電話を使っていいよ。でもその前にバッグを見せろ。」
「いいわよ。勝手に見てて。それより電話。電話。」
「オイ、いい万年筆を持ってるな。」
「当たり前じゃない。それドイツ製のモンブランよ。それより、電話をしないと。」
「これはいくらするのだ。」
「200ドルくらいかしら。」

「あ、もしもし、ドゥニャン、あのね。パスポート持ってないから、警察にしょっ引かれた。どうしよう。」
「行こうか。すぐに。」
「いいわ。とりあえず、今日会ってきた人に来てもらうから。」
「そう。大変だねぇ。何をしてあげられる?」
と、心配そうなヘンヘン。
「そこどこなの?」
「住所わかんないから、聞いてみるね。おまわりさんに。」

「ねえ、そこのおまわりさん。ここどこなの?夫に教えてよ。」
「そんなこと、どうでもいいだろう。この万年筆を俺にくれたら、無罪放免にしてやるから。もういい。」
「それ、困るのよね。舅からもらった大切な万年筆なんだから。」
「ねえねえ、ここどこよ。言ってよ。ほら、受話器。」
若い警官3人はニタニタして、取り合わない。
「もう、全く。はっきりしてよね。」

「ヘンヘン、じゃあいいわ。また後で電話する。」

「あんたどこから来たんだ。」
尋問は続けられた。
「日本よ。」
「中国じゃあないのか。」
「そう、残念ながら、わたしは日本人なの。」
「じゃあ、日本のハノイか?」
「日本にハノイはないの。わかってないなあ。」
と、ドゥニャン。
「今度はわたしの通訳してくれる人のところへ電話するから。」
「おまえ、結構、ロシア語喋ってるじゃないか。通訳なんて必要ない。」
でも、わたしには必要なんだもの。勝手に電話機を取って、かけた。事情を話すとすぐに来てくださると言う。助かった。

若いおまわりは3人で上官に、
「41ルーブル、罰金取って放免にしますか。」
「まあ、好きなようにしてみるさ。」
と、上官は言っていたのかもしれない。3人のうちわたしを連れてきた2人はまた巡回に外へ出ていった。
「ねえ、あのおまわりさんたち行っちゃったけど、わたしどうなるの?」
残りの一人に聞くと、座って好きなことをして待っていろという。
「じゃあ。」
まあ、焦ったって仕方がないし・・・と、持ってきた本を出して読み始めたら、知り合いが来てくださった。
「大変なことになりましたねえ。パスポートはどこにあるんです?。」
「実は、それが・・・わたしは知らないのです。夫が家にいますから、家へ電話をかけましょう。」
またまた、電話を勝手にまわしてかけていると、ガラス越しに年配の警察官が電話をしたいんだと叫んでいる。
知り合いは、要点がわかって、受話器を置き、パスポートの状態を説明しようとし始めると、若いおまわりは、一言だけ言った。
「ダスヴィダーニャ。」
「ハ?」
「ダスヴィダーニャ。」
「エッ?おしまい?」
「そう、おしまい。」
そんな・・・。気が抜けるではないか。ちゃんとわたしがパスポート持ってなかった訳を聞いてよ。


知り合いは、
「法治国家というものは、疑わしきは罰せずというものなんですが、ここは疑わしいものは全てほおって置かないのです。法治国家以前の体制なのですよ。ロシアは。」
と、おっしゃった。確かに疑わしきは罰せずと、社会科で習ったことがあるが、日本でも在日外国人には、こうやって来たのではないか。
長い間、指紋押捺などを強いて、外国人の人権を無視してきた。
パスポートを持っていないだけで善良な市民(ドゥニャンが善良かどうかは別にして・・・)を疑う。これはやっぱり、人権の侵害だと経験から良く分かった。
今回は、なんだか、おもしろい経験をしたということで終われたが、そうは言ってはいられない場合の方が多いだろう。また、わたしが日本人だということで、ことが簡単に終わったのかもしれない。
中央アジアやベトナム、中国から来ている人々はどんなにか用心深く、日々過ごしていることだろう。人には平和に自由に楽しく安心して日々住む権利がある。それが侵害されたということなのだ。

ロシアだけでなく、わたしたちも人の尊厳を守ることに注意を怠らないようにしたいものである。


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