1998年12月7日(月)

隣の隣に南アフリカのプロテスタントのミッショナリーの人々がアパートを借りて住んでいる。
いつも、3日に一度ずつくらい、お茶を飲んだり話しをしたり、一緒に買い物に出かけたりと結構楽しい付き合いをさせてもらっている。
茶色の目をしたそう大柄でない初老の品の良いスーザンとは、特にお互いの波長が合うのか、ああでもないこうでもないと日々雑多なことを、喋り合っている。

3日前、、スーザンが
「私たちこのアパートを3日のうちに出て行かなくてはならなくなってしまったの。」
と言う。
「どうして。」
「昨日、警察が来て、このアパートの居住証明書を見せろと言ってきて、わたしはロシア語が出来ないから、大家さんに来てもらったら、大家さんが税金を払っていないことがばれてしまって、彼女怒ってしまって、私たちに出て行け!と言うわけ。いわば八つ当たりよね。」
「へえ、だけど、心配することはないと思いますよ。だって、家賃を前もって払ってあるのでしょう?」
「そうよ。一月分までは払ってあるの。」
そのアパートを借りているのは同じ南アフリカ人のユーゴとリカという若い御夫婦である。
ただ、リカさんの出産のため、1月までここを留守にし、スーザンとベッツという女性に、住んでもらっているのだった。
「平気ですよ、きっと。何も心配することないと思いますよ。時々、ロシアの人は無茶を言う時があるけれども、実際、家賃は払ってあるのだし、彼女は何も口出しできないと思うから。」
「そうよね。じゃあ、様子を見てみるわ。」
と、言って帰っていった。



ところが、一昨日、いつになく朝早くドアの呼び鈴が鳴った。開けてみると、スーザンが悄然と立っているではないか。
「わたしたち、今日いますぐ、このアパートを出ていかなくてはならなくなってしまいました。」
「嘘でしょう。冗談を言っているのでしょう。」
驚いて、重ねて聞いてしまった。
「いいえ、大家さんがどうしても今すぐ出て行け!とすごい剣幕なの。」
「そんな。突然、ここを放り出すことなんて出来ないはずです。」
「そうでしょう。それなのに・・・・。」
あまりのことにしばらく言葉を失ってしまった。
「もう、私たちの全てのものをパックしたから、後は迎えが来るのを待つだけなの。」
「迎えって。」
「知り合いの家に、私たちのアパートが見つかるまで泊めてもらう積もりでいるのよ。」
何がなんだか分からない。ユーゴたちは、一月の末まで尽き700ドルの家賃を払ってしまっている。そのユーゴたちに頼まれて、彼女たちはここに住んでいるのだ。
ミッショナリーの世話役ということで、色々会合やパソコンでのインターネットの世話。事務的なこと。そうした煩雑なことを、彼女たちはユーゴから任されて、このアパートに住んでいると言うのに・・・・。

その大家はもう1月分まで12月を含めて1400ドルという高額な前家賃を手に入れている。
聞いていて、人事とは言え、だんだん腹が立ってきた。
「わたし、出て行くべきじゃないと思うわ。どうして出て行かなくてはならないの。家賃を支払ってあるということは、このアパートの管理権はユーゴにあるはず。そのユーゴの許可なくして、どこかに行っちゃうということはユーゴから任されたことをほおって置いて、他のところに行くのと同じことよ。それにモスクワは治安が悪いから、なるべく長期間はアパートを開けておくということは、避けた方がいいのは大家さんだって分かっているでしょうに。」
「そうでしょう。わたしもそうは思うのだけど・・・。わたしたちがこのアパートでの居住証明書を持ってないということで、大家さんともめているらしいし、その上、彼女は税金を払いたくないから、私たちが出て行けば、お金を返したって言えるわけよ。」
「そんな、無茶な。彼女はお金をもう支払ってもらったわけでしょう。そんな虫のいいはなし、どんなところでも許されるべきじゃあない。絶対にここに住みつづけるべき。居住証明書を作るのは彼女の仕事の一つだし・・・。なんて人なのかしら。全く。」

かなりボルテージの上がってきているドゥニャンはスーザン相手にまくしたてていた。
スーザンはすまなさそうに、ドゥニャンのお説はごもっともとうな垂れて聞いている。

「スーザン。ごめんなさいね。あなたに怒ってるわけじゃあないの。でも頭に来るんですもの。」
「ヨシコ。あなたの気持ちはよくわかるわ。ありがたいくらいよ。でも、知り合いのロシア人の誰に聞いたって、出て行くのが当然だって言うんですもの。」
「ハァ。」
「何で、そんなことを言うんだろう。わかんないなあ。」
「わたしだって、分からないのよ。ヨシコの言っていることは、全部たしかに道理に適っていると思うんだけど。でも、仕方がないらしいの。ロシア人は仕方がないって言うのですもの。」

「変よ。それって。わたしの夫が話しに行くから。スーザンの知り合いのロシア人にも来てもらって。変なものは変よ。ユーゴたちのためにも、あなたたちはここの留守を守らなければならない。」
「じゃあ、お願いしてみようかしら。」
「いいわよ。やってみるだけやってみましょう。でもパックしてある荷物は隠しておいてね。大家さんに出て行く気持ちが少しでもあると言うところを見せたらおしまいだから・・・。」

その日、ドゥニャンは猛烈に頭を回転させた。どうしてもどうしても腑に落ちないことに従うなんてことをしてもらいたくないのだ。スーザンはロシア語をほとんど喋らない。ベッツだって片言だ。
その二人をこの寒空の下、追い出して税金を払うのを拒もうだなんて、虫が好すぎるにもほどがある。
スーザンやベッツの不安も分かる。彼女たちの置かれている状態は宙ぶらりんにされて、警察にしょっ引かれるかもしれないからだ。それも一重にあの図々しい大家から来ているのだ。

あんまり頭に来たのでドゥニャンはチョコレートをどんどん食べた。

夜遅くなってスーザンから電話が来た。
「やっぱり、明日わたしたち出て行きます。」
「本当?もうちょっと頑張れば・・・。」
「やっぱり、知り合いのロシア人たちがここに居るべきではないと言うんですもの。郷に行っては郷に従えって言うでしょう。」
「そうねえ。」
ドゥニャンは無性に悲しくなってしまった。これ以上のトラブルに彼女たちは耐えられないだろう。
ドゥニャンだってロシア語が全く喋れなかったら、ロシア人の言う安全策を取るだろう。
しかし、それにしても・・・。ドゥニャンは釈然としない。
ユーゴが払った家賃は、何ナノ?!!だれか教えて!!


そうなのだ。ロシア人とは時にこういうことを平気で言ったりしたりする。ドゥニャンたちの9年前の大家アナトーリーだって、契約したことをしりから勝手に変えて、それが通らないとなると、冷蔵庫の電線をはさみでチョッキンなんて切ったりしたんだから。
こんなことをここで書くとヤバイのかもしれないが、ロシアのインテリとそうでない人たちとの間には、大きな溝いやいや、大河が横たわっているのだ。
うちの大家さんアルベルト・イヴァーノヴィッチも言っていた。インテリ以外はロシアでは信用できないと・・・。この言葉をそのまま真に受けることはできないが、ちょっとした事実であることも確かだ。

ん〜〜〜〜。ここがドゥニャンの辛いところである。ロシアの人たちはインテリであろうとなかろうと、普段、付き合うと底抜けに人が好い。おおらかで優しく、おせっかいだ。 <
BR> スーザンのケースのように利得が絡んだりすると、その態度は豹変することが多い。でも、何とか情に訴えてこの場合、収めることが出来ないものだろうか。
そうすると、また、豹が小猫ちゃんになる場合があるからだ。


どうすればいいのかな。ドゥニャンたちが大家と喧嘩してユーゴまで追い出しを食うなんて馬鹿なことは出来ないから・・・。





と、馬鹿なことを猛烈な勢いで考えたり、ヘンヘンに愚痴ったりしていると、スーザンがやってきた。
「知り合いのイリューシャが大家さんと話しをしてくれたら、明日、大家さんが警察に行って私たちがここに住む証明書を貰ってくるってことになったわ。ありがとう。一緒に心配してくれて・・・。」
と、帰って行った。
イリューシャはどんな方法で、何も聞かない機関銃のように出ていけを叫ぶだけだった大家を小猫にしたのだろうか。
今度、是非とも聞いてみなくてはならない。

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