1999年10月11日(月)

ロシアの学習というのは、主に暗記にある。
とにかく地理であれ生物・化学・物理、英語、フランス語果ては数学まで丸暗記。
しかもそれを一言一句間違えてはいけない。

社会科系や科学系では、教科書を一度に2・3ページは丸暗記をさせる。
数学にいたっては、答え方の書式が決まっていて、それが少しでもとばされたり、間違えたりしていたら減点対象となる。しかもそれが美しく判子で書かれたような筆記体で書かれていなければ、これも減点。

とにかく評価の基準がとても厳しい。

毎日の宿題に数学は50問以上、地理白地図塗り込み、書き込み。化学変化の式を先生がおっしゃった形に整えなければ駄目などなど。

とてもじゃぁないけど、やってらんない!って言うほど、緻密と言うか馬鹿らしいと言うか・・・。無茶苦茶なと言うか・・・。

考えるゆとりなど勉強にはこれっぽっちもない。しかも大量にそれが宿題となって出て、その後にコントローリナヤ・ラボータといって小テストが付き物である。

この小テスト、前にも書いたが、必ず成績が皆の前で全員のを公表する。
それはいいのだが・・・。

むすめはこのところ、先生が何をおっしゃっているのか、良く分かって来てしまったのだ。


先生方は成績の悪かった子どもたちに対して悪罵の限りを尽くす。
しかも、その子どもの回答を皆の前で公にして、間違いを見つけたものには’5’を挙げると、公言してはばからない。
これがまた、どうも一人数学のナターリア・ニコラエヴナだけじゃないのだそうだ。大体教師は出来の悪い子どものことを公衆の面前で言葉で容赦なく叩きのめすのは、悪いことだと思われていないらしい。

日本の教育現場でも暴力を振るう教師がいたり、ひどいことを平気でしたり、ひいきをしたりする先生がいらっしゃるのをよく聞くが、ここロシアに関しては、どう言えばいいのだろう。
とてもじゃないけど、付いていけないところである。


欧米諸国では、特にアメリカでは、勉強の基礎はともかく論理的思考と言うものを重要視するようだ。自分の言葉で要領よく何を考えているか表現し、説得するというのが大切だそうである。

ロシアは違う。
とにかく一部始終、はじめから終わりまで形に添って、形にハマッテ発表する。
暗記が苦手だったわたしなどは、ロシアではどうなっていたのだろうか。
幸か不幸か、上のむすめは記憶力にかけては秀でているようである。
しかし、それにしてもこの暗記の量はただものではない。

そしてそれを完遂出来なかった時の、先生の容赦ない叱責。


不思議なのは、ここまで形にこだわる教育が、こと服装とか喫煙とかになるとどうでも良くなるのかということである。
まず8年生以上の男子は大概タバコを吸う。しかも構内で堂々とやっている。
女の子はお化粧はしてくるわ、ピアスの穴を3つも4つも開けるわ、大忙しである。
その上、男女交際は当たり前。(もちろんステキな女の子も男の子もわんさかいる。ジャニーズなんて目じゃない。)
むすめのことを迎えに行って、すごいハンサムな男の子を見ると、お母さんに会いたくな る。どんなにステキな人なんだろう。どんな美人なんだろうと、好奇心がウズウズうずく。

まあ、そんなことは個人的好みだが、学習の時間の苦しみとプライベートな楽しみとは完璧に分けられている。


ロシアびいきのわたしは、こんなロシアが大好きだが、こと学習に関して言えば・・・。
是非が言えなくなる。

ここまで暗記教育を徹底すると、世界に冠たる学者がでるのか・・・。

ピアノにしてもとことん練習させる。形にキチっと嵌めて、それから感情移入を行う教育がなされるのだ。


古典を徹底的に読ませ、劇場などで素晴らしい演劇やオペラを学校を挙げて見に行く。
感性を充実させるのにはもってこいだ。しかし、芸術を楽しみ理解する心は、暗記教育によって培われるものなのだろうか。

知るということは、もちろん記憶していなければならないことが多くあるが、それと暗記とは全く別物であるような気がしないでもない。



文化大国ロシア。すごい芸術家を今日も続々と輩出する国、ロシア。
それとこの徹底的暗記教育との関係はどうなっているのだろうか。


自分で考え、感じる心を感受性を育てるのはどうやっているのだろう。
それはこのロシアの大自然が答えてくれるのだろうか。

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