1999年10月17日(月)

2年前、夏、ここモスクワの偵察を兼ねてこちらへ来た時、一番に驚いたのが、傷痍軍人が排気ガスのもうもうとした広い道路の白線の上で、車一台一台の窓辺に行って人々からの喜捨を頼んでいたこと。モスクワの車の排気ガスのひどさは耐えられるものではない。
それを顔面正面からモロに受けることになる。

粗末な板っきれでできた台車におへそから下はなかろうかと思うような身体を乗せて、手でこの台車をこぎながら終日物乞いをする。
それも30にもいかない若いあどけない顔をした兵士たち。



粗末な車椅子に乗り、2本の足が引き千切られているので、ズボンの部分を丁寧に折りたたんでじっと往来に座っている迷彩服を着た元兵士。

モスクワを歩くと必ずこうした人々に出会う。

アフガニスタンへの侵攻の時に、不幸にも地雷や爆弾にその身体の一部を吹っ飛ばされてしまったのであろう。

まだまだ若いその人たちの顔は、とてもまじめそうな、純朴な表情を持つ人、戦争のせいで人生を犠牲にされたやり場のない憤りが、そのまま苛立ちとなって目に鋭い光を宿す人。
悲しみと諦めのために生きることに艶を感じないほどくすんだ顔をしている人。

その後の人生でも色々あるのだろう。
足や手があって、自由に野を駆け巡り、愛しい人と一緒にディスコにでも行く夢を眠っている間見ることもあるだろう。
そして楽しい束の間の夢を見た時、どうしようもない不自由な現実に目を覚ました時、彼らはどんな思いを込めて、自分の人生を考えるのだろう。


始めて彼らを見た時、その理不尽さ、そしてこんな言葉を使ってはいけないのはわかっているのだが、その異形に恐怖の戦慄を覚えた。
それぞれの人々の背負っている重みが重過ぎて、苦しみが大きすぎて、どうしてその人たちを直視していいのか分からなかった。
その不幸が多大すぎて、この不幸を見るのが怖かった。

どうしてこんなむくつけの傷だらけの荒々しさを見なければいけないのだろう。兵士たちは手足を失うことだけで充分、その人生を贖っている。それを・・・こうして公衆の中に目を晒し、その戦争による障害ゆえに終日、なんとか生きるために、動きまわったり、或いは人に頼んでメトロの駅まで台車と身体を運んで来てもらわねばならないのだ。

生きるための夢と希望に溢れていなければならないはずの30歳前後の若者たちばかりである。


こんな現実を見せるロシアがだいっきらいだ!と、逃げたかった。



が、わたしには彼らから目を背けてただ逃げ出すことは出来なかった。彼らの方から目の中に飛び込んでくるのだ。


その人たちを見掛けるとわたしはできる限りの喜捨をすることに決めていた。
最初、もらってもらっていると言う気持ちであっただろうと思う。

どうかその悲しみと苦しみを少しでもいいから和らげて下さい。すこしでもいいから、今日一日の糧が与えられますように。


これは怖さの中から出た一種の同情心のようなものであったように思う。



最近、負傷兵士たちのことを見るのが怖くなくなった。恐れがなくなったと同時に、その怪我をした兵隊さんたちのその作業を彼らの仕事のようにみなしているようになっていた。
その仕事に対して、お金を支払っているのだ・・と、いう感覚である。

自動車で通るいつもの道路の白線上に同じ人がいる。
ほっとする。

よかった。今日も元気なんだ。
また、元気で会いましょう。今度もね。
と、あいさつがしたくなる。

背中に背負った重いものが下りたようである。わたしの方が随分気負ったものを持ち歩いていたのかな。


本当にああやって、わたしと出会ってくれていることがあの人たちの仕事である。
大切な大切なものを残してくれているような気がする。


あの仕事は夏のかんかん照りの日に行われる。寒くなった時もモチロン。 5・6度の寒さで、モスクワっ子は負けはしない。

苦しく辛い仕事だ。



そのお蔭で、きっとわたしは彼らの背負った負の部分を恐れずに、真っ直ぐに人として向き合っていくことが出来るようになっただろうと思う。
あの人たちにこんなに頻繁に会わなければ、そんなことは思ってもみなかったことだろう。


ただ、この国において障害をもち、一生を過ごすということは、日本において過ごすよりもっともっと大変かもしれない。年金もすずめの涙。生活に対する保障も福祉も充実していないし、障害をもつ人々には、何もかもが危険過ぎる。

だけど、わたしにとって、あの人たちとの出会いは大きい。
いつの間にか、心の中の何かがちょっとずつ変わりはじめて来たんだから・・・・。


ふと、気づいた時、ロシアによってロシアの人々によってドゥニャンの中の何かがちょっとだけ変わっていたことなのである。

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