1999年12月7日(火)

ドゥニャンはいつもプーシキン美術館へ行くと、階段を上り2階の一画にあるレンブラントの肖像画に会いに行く。
まずはレンブラントのコーナーへ行って、「アマン、アッソルとエスフィリ」を見る。
向かいあう3人のテーブルの上には静かな緊張感が漂う。
ちょうど画面上部向かって左には大きな大きな空間と無音の世界の深いブラウンだ。

そこに若々しい朱と金に彩られた女性の衣装。
右手前の方からの微かな光の中でぼぅと浮かび上がる豪華さ。可憐な若い女性の顔に不似合いなほど衣装は装飾に彩られている。
閑けさが画面を覆う。その閑けさの中で私はひとときの憩いを感じる。
身体の力が呆然と抜けていく、それでいて閑とした緊張感の心地よさにも浸っている自分を見出す。

その絵が飾られているパネルの裏側にまわると、キリストが十字架の刑に処せられ、
その十字架が運び去られる時の絵がある。キリストは若い。瑞々しさの残る若々しき顔に
自分の年齢を知らされる。キリストが若き人だった事。これは一つの邂逅である。 この人が・・・。愛を教えてくれたのか。
人類を愛したと言うのか・・・。
何百年と言う膨大な時間のなかでもなお且つ人の営みは営々と築かれ、崩され、また行われて来ている。レンブラントの生きた若き日を想う。

その向かい側のパネルには3枚の肖像画がある。
窓からの自然の光の中で、その絵は語りかけてくる。
まず、窓際にある中年を過ぎて、人生というものを見据えているそんな人の絵である。
顔には険しさと怒り、憤り、自分というものをもう一度考え直そうとしているのか。
その聡明な女性は眼光の鋭い眼差しを私に投げかけ、静かな苛立ちと矛盾に満ちた人生を投げかけている。
美しい衣装を纏っている彼女は上流階級の婦人であろう。
なんの不満が彼女の顔にあのような鋭い憤りをもたせたのであろう。それを素直に表わせない悲しみ。憎しみ。世の中を向こうにまわしてもまだあきたらないそんな挑戦的な目をしている。
しかし、彼女の怒りはなんと毅然としたものであろうか。その品格を衰えさせるものどころか、それによって彼女はもっともっと凛としかも岩のごとく座って、わたしたちを見据えるのである。


それと対照的に横にある修道女とも思われる老女の顔はどうだろう。
これ以上出来ないというほど自分を捨象しきった優しさ、しとやかさ。
深く刻まれた皺の中に、真実の柔和を感じる。彼女に出遭っていたら、全てが彼女の胸の中に埋もれ、許される時を待つのを感じられる。
その柔和さと自分をとことんまで排除する事によって霧のごとく舞い上がってくる愛そのものを彼女は淋しさとともに自分というものを形成している。
人の悲しみを和らげ、自分のものとする事にのみ存在してしかるべき心の動きが彼女の中に見え隠れする。
暗い光のなかで、彼女が徐々に姿を表わしてくるのもそのためかもしれない。 彼女の祈りは、私のためのものであろう。あなたのためのものであろう。しかし、自分のためには・・・。ああ、そんな形で赦してもらえるのですね。わたしたちは。
苦労をしていても、その苦労の中で摩滅されない力強いものを持つ彼女。それは祈りによって支えられるものなのかもしれない。そんな気持ちを起こさせてくれる絵である。


その横には帽子を被った老人の絵がある。意志的な目。頬が落ち窪んでいてもなおかつ矍鑠とした存在感がある。きっと誰の目にも彼は偉大な業績を残す強い意志を持っている仁の人である事がわかろう。
彼は今まで自分というものに疑いを持った事すらないであろう。意志の力が自己の中にある弱いものを遠ざけるからである。
しかし、齢というものには勝てない。
人生は時間という人の上に不均衡にあからさまに過ぎていくものをどうしても拒否させてはくれない。過ぎ去った時間を拒否しようにもあまりにも厳然と彼の中には過去が存在している。
それは悲しみではない、苦しみでもない。しかし自分の中に芽生えたどうしようもないジレンマなのである。それをこの先、どうやって強い自己の意思の中で折り合わせていくのか、彼は止めど無い不安に駆られる。しかしその不安も時間のうちにあるということを彼は知り抜いているのである。
だからこそ、それゆえにこそ彼は尊厳を持って時間を見据えてどっしりと構えるのである。



あぁ。レンブラントの絵は、その時々によって色んな事を語り掛けてくる。 そ
の絵は、現実よりももっともっと実在的である。
何度も何度も何度も、これからも私は、この絵に対面するためにプーシキン美術館に足を運ぶであろう。

次へ
モスクワ日記の表紙へ
ホームへ戻る