1999年12月10日(金)

今、これを書こう!と、決めた途端、あー、あれからもう10年も年月が流れたのかという感慨と、下の娘が健やかに伸びやかに育ってくれた感謝の念が湧いてくる。

あの日、わたしは病室の窓から一つ、大きく輝く星を見ていた。
箒になった白樺の林の間を縫って光りは、降り注がれていた。
ベッドの傍らの生まれたばかりの赤ん坊を祝福してくれているような、静かで強いまっすぐな白い光を放ってだった。

子どもを産んだ後の感慨は女性ならではの充溢した時である。満足感と疲労感、そして生命に満ち溢れた躍動感がふっくりと包んでくれる。
その感じにふさわしいほどの敬虔な光である。

だが、このお産の大変さは、身を持って経験しないと実際には決して想像だにできなかった。
まず、病院に入る時、用意していたもの全てが持ち去られてしまった。
ロシア語を全く理解しないわたしにとっては、唯一の慰め。唯一のよりどころであった産着やおむつ、赤ん坊のミルクなどが手元にない。
その上、一切の私物の持ち込みは厳禁だったのである。(下着までも・・・)
しかも、前もって約束していた夫の立ち会いは拒否されてしまった。
だから何も分からないまま、前日入院した時、呆然と連れて行かれた病室で立ち尽くすほか何もする事はなかった。

病院から支給された糊のききすぎた簡単なパジャマは肩をひりひりさせる。その上、さわるのも嫌な底が抜け、芯となっていたダンボールが見えて擦り切れている大きな汚れで真っ黒になった上履き。
80センチ角の布切れが何枚か手渡されたが、これが下着の代わりになるという事を知るのはずっと後になってからだった。

来ていた陣痛もどこかへ去っていってしまった。
「これでは産みようがないわね。」
エレベーターで連れて行かれたのは、出産待ちをしている女性達がたむろす病室。

逃げて帰れるものなら、今すぐにも逃げて帰りたかった。しかし、病院の出口という出口はカギがかけられ、エレベーターも監視のおじさんが乗っていて、その人でなければ動かせない。
全くの閉鎖空間。これほど人為的に閉鎖されている空間があるなどとは未だかつて経験した事がなかった。
病院に入院している人々はそれを当たり前のように、流れる時間のままに流されていっているようではあったが、わたしの神経には耐えられないものがあった。 どんな自由も束縛された空間。自分というものを捨象しなければ、この閉鎖的な空間から逃れる手はない。
慰みも何もなく、あるのは全くの無関心或いは無感動な目と、好奇に満ちた痛いほどの先の尖った視線だった。
病室にはそれぞれトイレとシャワーがついているのだが、その病室から出ようとすると、看護婦さんが病室の中で待ちなさいと。
しかし、身体の中でのお産の準備は着々となされていたようである。

それなのに、それを話すにも言葉がない。


ここまで書いて、なんとあの情景を書き続ける事はわたしにとって難しいのだろうと思う。言葉がなかった。何をするのも暗中呆然で模索すら出来なかった。
それに、わたしはロシアの医療を全く信じられなかったのだ。

病院の調度も病室の中も何もかもが古びて、固く重苦しかった。
なにより重苦しかったのは、外部の世界と全く遮断され、どうやって連絡を取って良いのか分からなかった事だろう。
あれは悪夢のような日々であった。

夫はわたしの病室を探して歩き、ここぞと思う所で思いっきり声を張り上げて、
「ドゥニャン、ドゥニャ〜〜ン」と、大声で叫ぶ。
少しでも夫の声が聞こえないかと、始終聞き耳を立てているわたし。


やっと夫の声を聞きとめると、急いで4階にあった病室の窓をほそく開ける。
そして同室の人に借りたペンと小さな紙切れに書いたメッセージを、下に向かって放り投げる。夫はその紙切れの行方をずっと見ていて、雪に埋もれながら落ちた所に近づいていく。
何もかもがスローモーションで描かれた画像のように、現実味を失ってわたしには見えた。
いつこの病院から出られるのか、全く分からなかった。
まるで囚人のように、部屋に閉じ込められ、全ての権利を剥奪されているのと同様であった。
特に外国人の出産はこの病院始まって2人めらしく、監視の目が行き届いていた。
何かしようとすると、必ず、看護婦やその階の管理人に
「ネリジャー(だめだめ)!」
と、子どものように言われた。
それは、わたしの尊厳を全く無視した形で行われていた。
皆、等しく好奇の目でわたしを見つめ、注視していた。ちょっとでも変わった事が起ころうものなら、飛んで来て、注意が飛んだ。

でも決して日本人のわたしにとって、病院から支給される赤ん坊に対するおむつの数が絶対的に少ない事や、暖房が南国から来ているものにとってはとてつもなく細く、いつも寒さに震えている事など、だれもお構いなしだった。
わたしは薄い綿の簡単なハラットのようなもの以外、なにも身につけていなかったのだ。下着さえ着けていなかった。
足は紫色になっていた。
ずっと寒さに震え続けていた。
しかもそんな母親の気持ちがわかるとばかりに、生まれたばかりの赤ん坊は夜中中、神経質な声で泣き叫び続けていた。

同室の人から苦情が出た。
廊下に赤ん坊を連れて行ってあやすと、またお定まりの
「廊下に出てはいけません。」
の注意が飛んだ。


悪夢のような病院生活。
しかし、これが言葉の分からない者がソ連で出産をするという無謀な企みをやらかしたしっぺ返しだったのかもしれない。
未だに、この時の事はよい思い出となってくれない。

沈んだ、重い思い出なのだ。



まあ、今日はこの辺で止めておこう。
これを書くのにも実際、10日以上かかってしまっている。


しかし、一つだけ、ソ連ではこんな病院生活は当たり前で、市民はこれを堪え忍ばざるを得なかったのだ。
産院のことをその当時、よく言う人は一人もいなかった事だけはお伝えしておきたい。

今はお金さえあれば、面会も出来、快適に過ごせる病院ができたという。

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