7月10日(土)

我が家の大家さんであるアルベルト・イヴァーノヴィッチがアメリカから帰って来て、約一ヶ月。アメリカはミシガン州に住む息子さん夫婦の家を建てる手伝いのため6ヶ月ほど彼の地にいたのだが、どうもモスクワに帰って来てからのアルベルト・イヴァーノヴィッチは気焔が上がらない。
帰国後3日目の電話で、気候と空気が違い過ぎるし、時差ぼけが辛いとうなっていた。そして一ヶ月経っても、どうもロシアの法体系に順応できない(ロシアの法体系ってどんなのだろう・・。)と、ぼやいている。結局、支離滅裂なのに嫌気が差したか・・・。ドゥニャンなら分かる気がする。

でも、うちの中の水まわりはこれ以上我慢ができないと言うほど駄目になっていたので、修理に来ていただかないとハナシにならなかった。
洗面所の水はジャージャー漏れ。トイレは前に書いたように、神経をすり減らすものである。これを直してくれるのは大家さんであるアルベルト・イヴァーノヴィッチ。

でも、来てもらったが最後、アルベルト・イヴァーノヴィッチにはいろいろお喋りをしてもらわないと淋しい。アルベルト節を聞かないと、ドゥニャンたちはストレスを溜めてしまう。それほど彼のお話は面白い。
ちょっと水を向けると、2時間や3時間はぶっ続けで話をしてくれる。ちょっと困るのはその話には、まとまりというものがいささか欠けるところだ。

でも、今回、宇宙工学の学者であった彼の生い立ちを聞きたかった。どんな人があのソ連時代に学者と呼ばれる人になっていったのか。それにアルベルト・イヴァーノヴィッチの家にはすごいアンティークの家具がある。その中で子どもの頃自分専用のカメラを買ってもらって現像していたというんだから凄い!!
あの物の不自由な時代、そしてカメラなどという贅沢品はどんな先進国でも多くの子どもがは持っていたわけではなかっただろう。第2次世界大戦前の話である。そんな大家さんの生育歴がどんなものだったのか、探ってみたいようなきがするではないか!


「アルベルト・イヴァーノヴィッチ、お父さんはどんな方で何をなさっていたのですか。」
「フーム。わしのおやじかな。いやいや、それより前にひいひい曾おじいさん(プラプラプラ・ジェードシカという・・・プラを一個付けると、一代さかのぼるのである。)のことも喋っておく必要がある。それでないと始まらないのは話しの筋というもんだ。」
「ええ、ええ。もちろん、そうですとも。」
「わしのじいさんはかじ屋をしておった。リャザンの近くアレクサンドルネフスキー村というところでな。ひいじいさんもひいひいじいさんもその前のじいさんもみんな鍛冶職人だったのさ。村では鍛冶職人というのは大変尊敬されていたものなんだ。なんでかっていうと、それなしには村の人たちの暮らしは成り立たんからなぁ。」
「ピョートル1世の時代には宝石の加工も手がけていたんだよ。エカチェリーナの時代にはノミのような金属細工も作ったというほどの腕をもっていたのが先祖様たちだ。」
というわけで、革命前に生まれたアルベルト・イヴァーノヴィッチのお父さんの長男は、世襲で迷うことなく鍛冶屋さんになったが、アルベルト・イヴァーノヴィッチのお父さんにはそのお鉢が廻ってこなかったのだ。

アルベルト・イヴァーノヴィッチのお父さんは
1894年生まれ、1904年に学校に入り、1910年にはリャザンにある神学校付属の師範学校に入った。そこでは能力のある子どもには授業料なしで教育を施してくれた。言っておくが、よほどの秀才でないと、授業料免除にはならなかったんだ。
1914年、師範学校を卒業して彼は何ヶ月間か教員として働いたが、第一次世界大戦のドイツ戦線に少尉となって参戦した。
彼の活躍は目覚しく、3年で大尉となり、皇帝陸軍の将校に昇格していた。 ところが、1917年には生死をさまようほどの負傷を負ったのだ。でも彼は兵隊付きの大 尉のままだった。革命も病院で迎えたんだよ。
病院から出て来た時は革命が終わっていた。当時のソビエト政府は昔彼が、先生をしていたので、仕官としてではなく教師として採用した。
その後1922年から23年にかけて赤軍に入った。病身だった彼は1ヶ月働いては1ヶ月を療養していたので戦地へは行かされず、兵隊の人事を担当するところに配属された。数学が得意だった彼は統計的な部署に就いて重用された。休み休み働いても彼は大変大事にされていたんだ。
今みたいにコンピューターのない時代に数字的なものはすべて彼の頭の中のコンピューターにインプットされていたから、療養中でも必要とあらば、皆聞きに来たものだった。
おやじは数学のみならず、音楽だって得意中の得意だったからな。教会聖歌隊のメンバーもしてたしな。バイオリンはおろか、木琴やマンダリン、絶対音感をもっていたから、コップに水を入れて即興の楽器を作ってそれを木琴のような具合に叩いて音楽を奏でたわけさ。そんな多彩なおやじの周囲に人の集まらないわけがない。 結構いつも大きなサロンが開かれていたよ。
おやじはその内、KGBを作ったジエルジンスキー・フィリップスともオルジョニキゼとも知り合いになって、一緒にダーチャで過ごしたりしたもんだ。
おやじと知り合いになった頃のジェルジンスキーはいい奴だったらしい。レーニンの政治的な厳しさの指導の下、どうも間違った方向で厳しい人間に変わっちまったらしい。
オルジョニキゼとも1930年頃から仕事でもずっと一緒に行動していたらしい。オルジョニキゼが重工業相になった時には、事実上副大臣格の財政計画部長にまでなっちまったもんだ。
ただ、スターリンの粛正でオルジョニキゼは自殺しちまったけど・・・。おやじはスターリンの強制収容所から大勢の知り合いを助け出した。
でも、おやじは決して共産党員にはなれなかった。何故かって言うと、白軍(皇帝軍)の将校だったからさ。だからどんなに数学的な才能があって、実務で頑張っても長官にはなれなかったんだ。

どこに住んでいたかも知りたいところだろうが・・。
「ハイ、もちろん。」
1921年には政府から大きな一軒家の半分をもらった。凄く大きかったから、おやじは自分の弟や妹にも分けてやった。そして残ったのがミャスニツカヤ通りのアパートだった。
おやじは1944年、疎開先のペンザで50歳の時に亡くなった。
これがおやじの人生だった。

おやじからもらったそのアパートを12年前、妻のエフゲーニィ・ヴァシーリエヴナと別居する際、このアパートとそして今自分の住んでいるアパートととりかえっこしたんだ。
まあ、こういうわけで、このアパートでヘンヘンやドゥニャンとこうして会っているということさ。
あれあれ、もう9時前か。そろそろ帰るとするか。

それじゃ、また、何か用事があったら言ってくれ。


と、確実に2時間はたっぷり一人で喋って帰って行った。

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