1999年7月30日(金)

前回、わたしたちがモスクワに住んでいた時、お世話になった長島さん・ペーチャさんという日本人とユダヤ系ロシア人のご夫妻である大切な知り合いがいる。

今回は、この方達のお兄さんとお母さんのダーチャに招かれた。
モスクワからは200キロ。モスクワから約100キロ先にあるグジェーリという有名な焼き物の町を越えてまだ100キロも行った先にある。
行けども行けども広い草原と白樺林と松林が交代して地平線を埋めている。

途中にある村むらは街道沿いに物語りにでも出てくるかのような小さな木造の家が建てられている。その小さな家々は、緑や黄色、水色のくすんだペンキで塗られていて、窓枠は木を彫って装飾を施して白く浮かび上がっている。どの家を見ても同じくらいの大きさに同じような木を貼ってできた家。
そうした家は必ず植え込みで囲ってあって、りんごやラズベリーの植え込みがある。やぎや羊を飼っている家もある。
その家の後ろ庭には、畑がそしてその向こうには草原と巨大な森が続いている。
まるで、ロシアのお伽はなしのなかの頭巾をかぶった赤い頬のマーシャがニコニコ笑って出てきたって不思議がないほど。
でっぷりと太ったおかみさんがプラトークを頭にして、大きな襞のスカートをはいてその下にズボンかタイツか分からないようなずり下がってきそうな下履きを付けて、家でできた野菜などをぼんやりと売っている。夏の強い日差しに照らされて、盛り上がった頬肉はテラテラ光っている。おかみさんの周りには三々五々雄鳥を中心にめん鳥たちが地面にいる虫や落ちこぼれたえさをついばんでいる様子。
日焼けして茶色くなった帽子を頭に乗っけて、深く皺の刻み込まれた顔を少し厳しく引き締めながら、やぎたちを棒でしかりつけているおじいさんもいる。
どの人の顔にもその地にしっかり足を踏んづけている力強さがみなぎっている。時というものがここだけ忘れ物をしたかのように静かに重く人々を泳がせている。
いつまで経ってもここでは隣りのターニャはターニャだろうし、嫁いで来たアーシャはアーシャだろう。いつのまにか人々は知らないうちに年を数え、顔と体に恰幅が出てきて、ターニャおばさんがターニャばあさんになっていってしまう。

そんな村をいくつか越え、小さな町をいくつか越えたところにペーチャさんのお兄さん(レフさん)のダーチャはあった。
朝から雨もよりで少し肌寒かった。木で囲われたダーチャのいりくちを入ると、黄色のペンキで塗られた建物の入り口で今年83歳にもなるというおばあさん、レフさんの奥さんとペーチャさんの次女のハナちゃんがわたしたちのことを快く迎えてくれた。
中ではわたしたちの到着を待ちながら、白樺の薪をペチカでくべてくれていた。ほんのりと暖かいダーチャ。
そして新鮮な木々の香り。

レフさんの家族は揃ってインテリらしい。まずおばあさんが率先して英語を話しはじめた。ドゥニャンとしては、英語で会話が済むというなら、それに超したことはない。
お茶の時間になって、おばあさんがちょうど革命の前の年に生まれたという話になった。
1920年代はとてもよかった時代。ソ連が世界初の社会主義国として始動しはじめ、人々はレーニンの指導の下、希望に燃えていたネップ時代いい少女期を送ったとおばあさんは言った。ネップというのは革命を戦い社会主義へと移行し、反革命への反動から内戦が通津浦浦で起こり、国民生活が大変になった。レーニンはその大変さを少しでも軽減するため、資本主義的な経済の導入に踏み切った時代である。農民に市場経済的自由を与え、自分の庭で作った作物を商品として市場に出していいという国民の豊かさを目指す時代だった。
それが、その後、スターリンの恐怖の集団化の時代がやって来たのだ。おばあさんが思春期になったころ、始めて北コーカサスに旅行に行った時、富農とされた人々が自分の家や畑を追われ、あてどなく駅に満ちていたという。一頭でも牛を飼っていたら、富農とされたのだし、お手伝いの人を頼んだら、土地から追放されたという。
このアパートはいいとか、ダーチャはいいとか、秘密警察ににらまれると、思想犯として法廷で何人も並ばされ、右から5人までは5年間の強制収容所行き、6人目から10人目までは10年間、などという裁判もない判決が待っていた。
おばあさんの親しかった人もアパートがいいとにらまれ、5年間の強制収容所送りになったそうだ。その後、このダーチャの近くの学校の先生として数年前に天寿を全うしたという。
恐怖という圧力が全国民に信じられないほど重く圧し掛かっていた時代だった。

そう言えば、ここまでの街道の家は一軒として富農の感を醸し出している家はなかった。皆揃って同じくらいの規模の可愛いこじんまりとした質素な家であった。
この恐怖の時代の名残なのだろうか。日本では小さな農家の家屋もあるが、必ず村には素封家的な大きな構えの家がある。
それが全く見受けられないのだ。

おばあさんのお父さんは弁護士として活躍していたし、おじいさんは自然主義者で、健康食品や菜食主義を教唆するプロパガンディストだったという。
また、おばあさんの夫だった人は大学で数学を教えていたという。

わたしたちが知るソビエトインテリはとても優遇された存在であった。若い頃にアパートを政府から配給されたり、いいダーチャを与えられたりしていた。
ところが、ユダヤ人であったレフさんのお父さんは、そうしたインテリの一人であったにもかかわらず、アパートも与えられずに自分達で購入したし、ダーチャも25年前までは借りていたそうだ。
それに社会的ポストもその能力に関わらず、けっしてボスとしての地位は与えられなかった。
1940年代から1960年代まではまだユダヤ人差別が公然と行われていた社会だったのである。


おばあさんは銀色の髪をひっつめにして、木綿のスカートをはきその下にたっぷりとしたタイツをはいていた。若い頃より心持ちうすくなった薄いグリーンの瞳が知的な光を宿している。しっかり者のおばあさんである。彼女の祖先はポーランドから来たらしい。
その緑の目はユダヤ人の夫を持ち、ユダヤ人の子どもを産んだ誇りと喜びに溢れながら、昔話を私たちに語ってくれた。

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