1999年8月14日(土)

ドストエフスキーの生家は今はその名もドストエフスキー通りと名づけられている一画にある。
作家の生まれた頃は「神の館通り」(ボジェドームカ)と呼ばれていた。それはそこに貧民救済病院があったことに由来する。
ドストエフスキーのお父さんはこの病院の医師であった、それゆえにその建物の一隅が住居となっていたのである。

上にライオンののっている崩れかけた門を入るとそこは中庭になっている。正面中央にはドーリア式の門柱のあるいかめしい建物がある。上塗りのはげかけた手入れの行き届いていない建物だ。それが貧民救済病院の本館であったが、現在は物理関係の研究所となっている。

向かって左側に別館が建てられているが、その一階部分の3部屋が文豪の生家なのである。

1983年、ここはドストエフスキーを記念してドストエフスキー博物館とされ、今、文豪の生家として公開されている。

ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間。この小さな玄関の間は板仕切りで仕切られていて、窓からの光がほとんど入ってこない。当時をしのばせるかのようにろうそくを摸した小さな明かりがつけてある。
玄関の窓は小さなもので中庭からの採光がとても悪い。夏の昼間でも薄暗いのだから、長い冬の暗い時期には終日夜のような暗さだった違いない。ましてや、仕切りで仕切られた小部屋は窓もなくほとんど光りは入り込まない。その小さな信じられないほど暗くしきられた部屋が、作家その人フォードルと兄のミハエルの寝室兼勉強部屋であった。二人はここで話をしたり、一緒に本を読んだり、後の終生変わりない深い兄弟愛を培った場所でもあった。

その奥は乳母の住んでいた部屋がカーテンで仕切られていた。その横には大掛かりなタイル張りのペチカが据えられ、モスクワの寒い冬を容易に乗り越えられるようにしてある。

このペチカを中心に作家の家である3部屋が囲まれるように配置されている。
その小さな玄関の窓からは病院の中庭の菩提樹や白樺の植え込みが見える。往時もこうしてその植え込みを見て楽しんだり、この中庭で作家兄弟は遊んだにちがいない。
夏の暑い日にはその大きな木々が幼い作家たちに心地よい日陰を作ったり、木登りの相手ともなったであろう。木の影に隠れてかくれんぼを楽しんだり、鬼ごっこをしたり、雪の季節には雪合戦。こどもにとって安全で自分のものであると感じられる安心して遊べる広場の存在は大切な安息の場所となっていただろう。


さて、その玄関を抜けると20畳くらいの居間がある。その居間ではテーブルや長椅子がしつらえられ、子どもの遊び道具や本などが床に散らばっている。木馬もペチカの側に置かれている。窓のリネン製のブラインドが柔らかい光をしっとりと投げかける。
丸テーブルの上には結局は後に7人兄弟となった作家の家族たちがそれぞれ腰掛け、談笑を楽しんだり喧嘩をしたりしながら、食事をしたりしていただろう。
その奥の部屋は、作家の父の居室兼客間となっていた。その客間ではほん隣りにある病院の患者たちが時を問わずに窮状を訴えに来ていたという。
奥にあるおおきめの書棚には今も当時作家の父が読んでいた本が並べられている。
仕切られた客間の奥は作家の両親夫婦の寝室となっている。

そこを抜けると白いアーチ型の病院の廊下に続く。そこでは子どもたちが小さな木製のおもちゃを並べて遊んだり、時にはおいかけっこをして遊んだらしい。

現代の日本の住宅事情からいうと、なかなか立派な家と言えるが、貴族であった作家たち家族にとっては慎ましやかなものであったというほかはない。
それに貧民救済病院の一隅にあったということは、周りがそんなに清潔できれいであったことは期待できない。
そこここがアルコール中毒者やあてのない浮浪者のような病んだ人たちの溜まり場になっていたのだろう。
今は森閑とした建物であるが、往時のことを考えると、悲惨と不快感、不潔と薄汚さが雑居しているようなところだったにちがいない。
その中で作家の一家だけがこぎれいな中流生活を営んでいたといえる。


自分の一家の状況と富裕な子どものいない叔父とおばの援助のお蔭で不自由のない暮らしを少年時代送った作家は、このどうしようもないほど困った人々を見て、なんとも言えない憐れみと同情、そしてそれから深く根差していった愛情と彼らの細やかな人間的感性を自分のうちに育んでいったのだろう。
それは終生作家とは切り離せない、なんとも言えない原体験のようなものとなり、作家の人となりを作り上げていった。

持つもののない人々の細やかさ、豊かさ、侘しさ、悲しさ、したたかさや人生の切なさ辛さ、どうしようも逃れられない苦しさを感受性の強い15歳までの日々に痛いほど感じながら。そんな人々にたいする愛着と共に・・・。


暗くひっそりと静まり返った部屋部屋は、当時のドストエフスキー家の雰囲気を醸し出しているものではなかっただろうか。
小さな弟や妹たちまでもが、18世紀的行儀や作法、そして教育の中(作家の時代は19世紀ではあるが、古くからの教育が作家の時代も厳格に踏襲されていたと想像できる)で育てられていたとしたら、大きな声で家の中で談笑することや一家の主である父のご機嫌を損ねることなどは固く禁じられていたはずである。
今でもロシアの人々は、子どもたちが大きな声で家の中で騒いだり、大きな声で叱責するようなことは白眼視する。
とにかく静かに落ち着いた雰囲気が好まれるのである。
ドストエフスキーの時代にはもっと厳しく徹底してそうした教育が行われていたに違いない。細かく詩を暗唱し、ロシア語をキチっと書くことを叩き込まれ、数学や理科など細かいことまで叩き込まれる。しかもフランス語は必修である。
毎日毎日、子どもたちは決められた時間の中で日々をやりくりしていたのではなかろうか。

作家は15歳にこの家を去る。ペテルブルクにある陸軍工兵学校に入るために・・・。
兄のミハイルは入学試験に失敗してしまうが、作家は見事に合格。
それ以降、このモスクワの家には作家はかえる事がなかった。
父の突然の死で、この家にはいられなくなったのが、その理由と思われる。


ドゥニャンは、今年6月にペテルブルクに行った時、ドストエフスキーがなくなった家にも行って来た。やっと妻アンナとともに愛しい子どもを落ち着いて育てられた質素な家であった。(プーシキンの家に比べると・・)
作家が亡くなったベッドやその日に妻に読んでもらった聖書が置かれていた。大きな机、心地よい暗がり。
ここもさほど生家の雰囲気と変わりがなかった。強いて言えば、ドストエフスキーの子どもたちへの愛情が示されたおもちゃたちが彩りを濃く落としていたことだ。

人生の大部分を波瀾の中で過ごした作家の死の半年ほど前の肖像(肖像画といっても写真の上に修正の筆を加えたもの)が、一家に後に与えられた一室におさめられていた。ドストエフスキーは淋しく悲しい表情をたたえていた。

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