2001年9月16日(日)

先週水曜日、ニューヨーク、ワシントンがテロに見舞われた事件のニュースにまず、私達が恐れおののいたことは、アメリカがこれを機にまたしても戦争を起こし、無辜の民を大量殺戮することになるのではないかということだった。
ブッシュ大統領はアメリカの威信をかけて戦い抜く決意があるようだ。
NATO加盟国もアメリカに同調している。トルコも。日本の小泉首相も意欲満々である。

このテロによる多くの犠牲者、テロによる市民の死はその人たちに生きる意味を無理矢理もぎ取ったということにおいては、テロは非情な暴力に他ならない。そしてその家族や関係者の人生に与える深刻な影響は無視できない。
多くの犠牲者に対して深い哀悼の意をここで表わしたい。

しかし、このテロが、再び政治的に利用され、そして更に多くの犠牲者を生み出すことは絶対に避けなければならない。
暴力に対する暴力による報復ではなんの意味もない。不毛な闘いの挙げ句、世界の混乱はいや増すばかりではないか。
テロそのものは暴力であり、「悪」である。しかし、アメリカが事実上、20世紀に行って来た力の示威行為は断固として許されるものではない。
わたしの大切なユーゴスラビアの友人もアメリカそしてNATO諸国の政策の犠牲者である。
彼らはアメリカの力に対する心の底からの恐怖を感じている。
また、戦争がもたらした彼女たちに対する大きな心の傷は癒えることがない。本当にそれによって彼女たちが心の底から「平和」を享受するには、あと何十年という年月を待たなければならないであろう。

「正義」あるいは「自由」という名の下に、得をするのは、先進国の武器商人だけであるということを肝に銘じなければならない。
このテロによる世界経済の混乱は無視することができないというが、第3世界において、先進国の経済成長はどれだけ意味があることなのだろうか。
少なくとも、先進国に住む私達は、経済の「成長」あるいは「膨張」ということをを今しばし、考え直す時に来ているのではないか。
もっと多くを持つということが、私達にとってどんな幸福をもたらすというのであろう。
それよりも、せめて生活に余裕のあるわたしたちが、率先して世界平和のためのリーダーであってもよいのではないだろうか。

持たない人々に耳を傾けるというのは時として大いなる知恵を与えてくれる。
わたしのユーゴスラビアの友達、スネジャンカは、
「ユーゴスラビア内戦に巻き込まれたそして巻き込んだ全ての人々も、私達も同じように人間です。感情を持ち、幸せを望み、子どもたちに未来を託し、出来るだけのことをしてあげたいと望んでいる一人の人間なのです。ですから、もう憎しみや怒りは持ちたくはない。」
と、いっていたことを思い出す。
ただ、私達の経て来た歴史を常に検証することを忘れてはならないのです。」と。

一つの世界の価値観が別の国の価値観を認められるかどうかは、その国の真の民主性を試している試金石ではないのだろうか。
確かにイスラム教圏の人々のあり方はキリスト教圏(西洋文明圏とでも名づけた方がいいのかもしれない。)の人たちには未明で非論理的そして近代的ではないのかもしれない。ただし、その考え方には、経済的に優位にある国の人々の傲慢さが見え隠れしている。
あらゆる価値を持つ人々が共存できる社会を作り上げていく地道な努力を重ねるということが、何百年という月日をアジアやアフリカそして南アメリカで植民地支配を重ね、その国のものであった富と文化を奪って来たヨーロッパ及びアメリカそして日本が先進国としてなさなければならないことなのだ。

アメリカやNATO同盟諸国そして日本が、そしてアメリカの力に屈しようとしている国々が手に手を携えて、1個の爆弾も落とすことなしに、テロを徹底的に糾弾する方法を見出すことを望んでやまない。
「目には目を」という政策はあまりにも幼稚であるし、それはもっと深刻なものを世界にもたらすに違いない。
今、私達が成すべき事は、新法立法に燃える小泉政権に「ノー」を静かにしかし強く言い続けることに他ならない。

どうか、一人でも多くの人が、そのための意思表示をしてくださいますように。
これは、政治だけの問題ではなく、人間としてのあり方への問であると理解していただきたいと思う。


 
 

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