べき論を避けよ


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 芝居の稽古中に「べき」になることは避けるべきだと思う。
意味分かんないですね。つまりは、役者なんだから「〜するべきだ」みたいな論調のこと。ぼくも使ってきたし、よく聞く言い方だと思う。役者なんだから腹筋は普段から鍛えておく「べき」だとか、照明なんだから演出には口を出す「べき」ではないとか、この仕事は衣装がやる「べき」だとか、なんか違和感を感じる、最近。

 実際どうですか?役者だからって風呂上がりに腹筋を鍛えたりしてますか?柔軟体操してますか?もしやってたら申し訳ないんだけど、まあ大概は、たまあにやるぐらいで毎日の日課にしていたりする人は少ないんじゃないかと思うんですね。

 そうある「べき」っていったって、実際そうじゃないんだったら、別の手段を探さなきゃいけない。「観客にいいモノを見せる」というのが目標で、腹筋を鍛えることが目標じゃないんだから、声が響かないなら小さい劇場でやるとか、もっと単純に、セリフを喋るときは前に出るとかね。腹筋を鍛えることは「手段」で、「手段」が「目標」になるようなことは何かおかしいよね。そういう事態が「べき」という言葉には潜んでいるんではないかと思う。目標にたどり着く手段はいくつも用意されているし、目標にたどり着けば、手段なんて何でもいいはず。

 こんな気分的な話じゃなくてもっとちゃんと書くと、「理論」と「実践」という話になるんだと思うんだけど、「〜するべきだ」というのはあくまで理論の話で、実践向きじゃない。
実践というのは、理論はともかくとして効果が上がれば、何でもありだし、また実践の時間に理論を議論するのも時間の無駄みたいなところもある。ぐだぐだ言わずにとっととやれみたいなね。

 僕個人としては、理論と実践は車の両輪でどっちもおろそかにしていいものではないと思う。えんぎのまとめに、理論は芝居全体の20%と書いたけど、20%だからおろそかにしていいわけじゃない。99%の発汗だって1%のひらめきがなければ意味がないわけだし。

 しかし、一般的なアマチュア(学生)劇団については、むしろ足りないのは理論の時間だという気がする。理論の時間、つまり次の芝居が決まってない時間だね。それが有効に使われているのかということ。全体としてはなかなか難しいと思うけど、個人として理論を考えたり、具体的には、芝居の本を読んだり、仲間と「こうあるべきだ」みたいな話をしたり、前の芝居の反省でもいいし、次の芝居への抱負でもいいけど、ちゃんと頭を使っているか、って書くとすごい高圧的だねぇ。
つまり、もめるべき時間にきちんともめて、もめちゃいけない時間はもめるな、と言い替えてもいい。芝居の稽古中に演出が演説をするのは、どうももったいない、かな。

 理論の時間をちゃんと設けてないから、実践の時間に「〜するべきだ」みたいな語尾を持ち出してもめたりするし、また、理論のない実践をするから、「気合い(情熱)が足りん」的な精神論に行ってしまったり、責任の押しつけ合いになってしまったりする。

 というわけで、こんな文章ですが、公演後にですね、いろいろ役立ててもらえればいいかなあと。公演中は、やっぱり幕を上げなきゃいけないし、そのためには手段の妥当性を議論しているヒマはないので、こっそり実行したり、強引に実行したり、押したり引いたり、まあ、なかなか割り切ることが出来ないんだけどね、僕なんかは。
ウソでいいから、公演中は手段に絶対の自信を持ってかまわないと思う。周囲も、ウソでもいいから信頼すればいいんじゃないかな。うだうだ言ってないでとにかくやってみる。妥当性と結果の評価は、公演が終わってからじっくりやればいい。ただし、理論は自分できっちりやっておくことが前提になるんだろうけどね。そうじゃないと誰も付いて来ないし。


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