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of TOKAI TEIO(2)
5.復 活
1992年4月5日 11ヶ月ぶりの復帰戦となる大阪杯(阪神2000M・G2)を圧勝
このレースより「夢のコンビ」が結成された。父・ルドルフの主戦騎手だった岡部が手綱をとることになったのだ。
このときの調教で岡部騎手は、テイオー初めてまたがった感触をこう語っている。
「どこまでも、地の果てまで伸びていく感じ。父のルドルフと動きのしなやかさなんかそっくりだ。
立ち止まってあたりを見回すときの仕草なんかもね。」
ダービー以来10ヶ月以上のブランクにもかかわらず、岡部騎手は手綱を動かす仕草さえ見せず、まさに馬なりの圧勝劇。
天皇賞(春)への夢がひろがる一戦だった。
6.敗 北
1992年4月26日 第105回天皇賞でメジロマックイーンの5着に敗れる。(連勝記録は7で止まる)
夢の対決。このレースで「世紀の一戦」が実現した。トウカイテイオー対メジロマックイーン。
テイオーには名手・岡部騎手が、そして昨年のこのレースを制した現役最強馬・マックイーンには、平成の盾男・
武豊騎手が・・・。まさに名馬・名手による夢の競演だった。
前評判でテイオーは一番人気に押された。
テイオーとマックの組み合わせは、馬連1.5倍と誰もがこの2頭のマッチレースを疑わなかった。
しかし、最後の直線でテイオーに伸びはなく、後続にもかわされるという、初めての敗北を味わう結果となった。
1992年5月7日 レース後、骨折が判明し、全治3ヶ月と診断される。
1992年11月1日 第106回天皇賞(秋)でレッツゴーターキンの7着に敗れ、2度目の敗北を味わう。
復活をかけたこのレースで、不運にも、スタート直後に馬体をぶつけられ、内に秘めるはげしい気性に火がついてしまった。
折り合いを欠いたテイオーは、ダイタクヘリオスが刻んだ、暴走ともいえる1000M57秒5のハイラップに、
完全に巻き込まれてしまった。もがき苦しみ、馬群に沈んでいくテイオー。 神話が音をたてて崩れていった・・・
7.帝王神話・復活
1992年11月29日 第12回ジャパンカップ優勝。(岡部騎手)
一度レースを使ったことで、テイオーの体調は上昇カーブを描いていた。
しかし、今度の相手は世界の超一流馬達。
今年は国際GIレースに認定されたこともあり、外国招待馬のレベルが高かった。
英ダービー馬・ドクターデヴィアス、欧州bP牝馬・ユーザーフレンドリー、
アーリントンMを勝ったディアドクター、前年英ダービー馬のクエストフォーフェイム、
凱旋門賞2着馬のヴェールタマンド、豪州年度代表馬・レッツィロープ、同国2冠馬のナチュラリズムと
そうそうたるメンバーが一堂に会したレースだった。
ミホノブルボンのリタイヤにより、テイオーは日本の大将格に押し上げられた。
しかし、春・秋両天皇賞の敗北と世界の強豪馬を前に、デビュー以来初めての5番人気となってしまった。
レースの幕があがる。英ダービー馬・ドクターデヴィアスが馬群を引き連れて4コーナーにさしかかる。
後続がどっと押し寄せてきて、全ての馬が直線へとなだれこんできた。
このとき、歓声が沸き起こった。「トウカイテイオー、トウカイテイオーだ!」
馬群を割って飛び出してきたのは「トウカイテイオー」だった。
残り200Mの直線で、内で粘るナチュラリズムとデットヒートを繰り広げるテイオー。
力強い独特のフットワークで、首ひとつ抜け出したところがゴールだった。
父・ルドルフとの親子2代制覇、そして帝王神話・復活の瞬間だった。
8.悪夢再び
1992年12月19日 岡部騎手が騎乗停止処分となり、有馬記念の出場ができなくなる。
1992年12月21日 代打騎乗に田原騎手が決定。
1992年12月27日 第37回有馬記念でメジロパーマーの11着に敗れる。
スタートから、テイオーには本来の動きがなかった。後方に置かれたたままレースは幕を閉じた。
その走りには覇気が全くなかった。納得できる敗因がみつからない・・・
1993年6月3日 左橈骨剥離骨折が判明。宝塚記念を断念
3度目の骨折。ガラスの靴をはいたテイオーの足はもろかった。もう限界かもしれない・・・