1
「星の海……か。今にも降ってくるような……」
満天の星空を振り仰ぎ、その人影は呟いた。つややかな女の声だけが静寂に吸い込まれていく。
新月の夜だ。
そびえ立つ山の斜面から見下ろす夜景は一面の闇――天と地との境界すらもすっかり溶けてしまっている。それでも頭上には数多の星々が、眼下には少ないながらも点在する人里の灯りが浮かび上がり、美しく幻想的な眺めを作り上げていた。
声の主は二十歳くらいの女性である。
星空を見上げたまま立ち尽くし、小さな溜め息をもらしている。すらりと伸びた線の細いシルエット。腰よりも長く伸ばされた白金の髪が、時折、風をかたどるようになびいている。
身体を覆っているマントは、質こそ上等であるものの、すっかりくたびれ果てた様子で、これまでの決して平坦ではない道程を物語っていた。その下には同じように薄汚れ、傷だらけの甲冑が見え隠れしている。
「見納めにはもってこいの夜だ」
そうひとりごちた彼女は、幾度目かの溜め息をもらす。
あと少しだけ――。彼女は心の中で呟くと、手近な岩を探り当てて腰を下ろした。この夜を心に刻みつけるために。
すると腰から吊り下げていた剣が岩とこすれあい、意外とも思えるほど大きな音を響かせた。大小の刀傷ばかりが目立つ細身の剣だ。鞘に施されていたはずの豪華な装飾もほとんど削げ落ち、生家の紋章がうっすらと読み取れる程度だった。
彼女は剣を軽く一瞥しながら再び軽く溜め息をもらすと、剣を左手に持ち、改めてゆっくりと地上を見渡した。ここがかなりの高さに位置している為だろうか、思いのほか遠くまで視界に収めることができるのだ。
しばらくの間さまよっていた視線がいつしか、ある場所から離れなくなっていた。食い入るように見つめる先には、ひときわ整然と並んだ松明の灯り――皇都レイグランドを取り囲む城壁があった。
(遂に……ここまで来てしまいました)
彼女は瞬きさえも忘れてその一点を見入っている。
子供時代を過ごした懐かしい都、大切な人の眠る静かな土地、そして――全ての災いの元ともなっているあの城を。
見つめているうちに自然と、何も知らず笑っていた幼い頃の自分の姿が心に浮かぶ。それをいつも暖かな腕でかばい、守ってくれたのはただ一人の大切な――。
「義兄上……」
呟きと同時に、彼女はそっと目を閉じた。
2
やはり月の無い夜だった。
十の誕生日を迎えたあの日、彼女は城の中庭を望む回廊をひとりで歩いていた。頼りにしていたのは、手元の小さな灯し火だけ。一歩進むごとに灯りが揺らめき、肩まで伸ばされた白金の髪が闇の中に照らし出されていた。
回廊の中ほどで立ち止まった彼女は手すりにもたれ掛かり、しばらく中庭の片隅を見つめていた。眼の端にはいつしか、じんわりと涙がにじみ出している。やがて耐え切れなくなったのか、なにごとかを呟いてから小さな溜め息を漏らし、手すりに顔を埋めてしまった。
どれほどの間、そうしていただろうか。
「……」
すぐ近くで声が聞こえた。とてもよく知っている人の声。
「……アル?」
はじめは自分が呼ばれているとは思わなかった。
「大丈夫かい、アル?」
もう一度声を掛けられてようやく、その声が彼女自身に向けられたものだと気が付き、慌てて顔を上げた。
「……あ…にう…え」
相手に気付かれないように、そっと涙をぬぐう。
「こんな場所で夜を明かすのは、やめた方がいいと思うよ。ん?」
そこに立っていたのは、十五・六歳の少年だった。どことなく彼女と面差しが似ている。少し短めの金髪は品良くまとめられ、澄んだ空色の瞳で彼女に微笑みかけていた。
「それにね、いくら城内とはいえ仮にも公女が、侍女の一人も連れずに歩き回るもんじゃないだろ?」
少年は兄という立場のためか、自然と諭すような口振りになっている。
アルと呼ばれた彼女――正しくはアルファード・ディ・レイグランドという。この大陸の北部一帯を統べる、レイグランド公国の第一公女である。
「ごめ……なさ…い……」
アルはうなだれたまま答えた。
「なんだ、もう声がかすれてるじゃないか」
少年は苦笑しながら、手にしていた薄手の毛布をまとい、脇から義妹をすっぽりと包み込んだ。
「あ……」
アルが驚いて少年の顔を見上げると、「せめてこれくらいの準備はしないとな」そう言って、いたずらっぽく片目を瞑ってみせた。
「はい……ごめんなさい、兄上。でも急に……急に義母上に……ううん、王妃さまに会いたくなったものだから」
それを聞いた少年の視線が中庭へと移る。それを追うようにして、アルも再び中庭に眼を向けた。
二人の視線の先には彫像が一体、植え込みに紛れていた。しかしそれも星々の光を反射しなければ、そこに存在することすら判らない状態だった。
「あの氷の像かい?」
少年の問いかけに、アルはこくりと肯いた。
氷の像――北部の雪山の頂きから運び出したという氷を彫って創られた、言葉どおり氷の女神像である。モチーフは嫁いだばかりの頃の前王妃だと言われていた。
「あの像を見ていると、本当に義母上……じゃなくて、王妃さまがそこにいらっしゃるような気がしてくるんです」
アルはぽそりと呟いた。その様子がとても寂しげで、少年は苦しくなった。
「アル……。『王妃さま』なんて呼び方は、それこそ母上が悲しまれるよ」
「でもあた…いえ、わたしは……庶子で――」
うっすらと涙を浮かべて、それでも続けようとする彼女の姿が痛ましかった。
「じゃあ、アルは自分の母上のことを覚えているかい?」
アルは一瞬ためらった後、首を横に振った。この城に引き取られたのは六年前――産みの母どころか、それ以前のこともはっきりとは覚えていなかったのだから。
「それなら母上の――王妃さまのことは?」
少年は続けて問いかける。
「よく…おぼえています。わたしにもとても優しくしてくださって……大好き…でした」
そう答えたアルの目には、いつの間にか涙が溜まっていた。少年はそれをそっとぬぐってやる。
「母上もね、アルのことがとても大切だったんだよ。最期まで心配されていた……」
それを聞いたアルはついに、大粒の涙をこぼし始めた。
「は…はうえ……ぇ……」
アルは少年にしがみついて、しゃくりあげている。少年は彼女をしっかりと抱きしめ、ゆっくりと背中をさすっている。
「大きくな……たら、ぜったい……ぜったいに義母上をお守りするんだって…そう思って……。剣だって…魔術だってそのために……! なのに、なのにどぉ……して……!」
優しく人望の厚かった王妃が急逝したのは半月前のこと。あまりにも突然で、にわかには信じられなかった。悪い冗談だと、何かの間違いだと、そう思いたかった。
せめてもの救いは、別れの時に見た王妃の表情が、眠っているように安らいでいたことだろうか。
しかしそれ以来、アルは沈み込んでいた。
「大丈夫」
少年はアルの耳元で囁いた。
「誰が何と言おうと、アルは母上の大切な娘だったんだから。それに――」
少年の両腕に力がこもる。
「僕にとっても、大切な妹なんだよ」
アルは涙をぬぐいながら、自分を抱きかかえている少年の顔を見上げた。
涙で潤んだままのアルの瞳は、少年とは対照的に美しい真紅に彩られている。
「…え……あにうえ……!」
また涙が溢れ出すのにも構わず、アルは少年にしがみついた。少年はアルが落ち着いたのを見計らって、静かに声を掛けた。
「アル、見てごらん」
そう言って、氷の像を指差している。
促されて氷の像を見たアルは、その光景に目を見張った。
「……光って……氷の像が光ってる……!」
月明かりではありえず、星の光や灯火の反射でもない。けれど物言わぬ氷の像が淡く、はっきりと輝いているのだ。
その輝きが極限まで達したのか、少しずつ光が宙空に舞い上がり、やがて星のように降り注ぎはじめた。
きらきらきらきら。
「う……わぁ!!」
「すごいな」
二人は息を呑み、その様子に見入っている。
降り注いだ光――その最後のひとかけらが地面に吸い込まれていくと、中庭は元の闇に包まれた。
どちらからともなく、溜め息がこぼれる。
「綺麗だったね」
「うん! きらきらして、とってもきれいで――でも優しい感じがしたの」
さっきまで泣いていたのが嘘のように、アルは満面の笑みを称えていた。少年もつられて笑みを浮かべた。
「きっと、母上が見せてくださったんだよ」
「義母上が……?」
アルは不思議そうに首を傾げる。
「そうさ。アルが泣かないように、淋しくないように、いつでも見守っているから、ってね」
「……本当に?」
「ああ」
少年の答えに、ようやくアルは笑顔で肯いた。義兄がこっそりと光を操ったことには気付いていたけれど。
二人の持っていた灯火が小さくなったのを機に、少年はアルを促した。
「さぁ、もう部屋に戻ろう。それともまだ淋しいかい?」
アルは強く首を横に振った。
「ううん、もう大丈夫です、兄上」
二人は並んで回廊を歩きはじめた。
「兄上」
「ん?」
「わたし、義母上も大好きだったけど……兄上も大好きです」
少年は一瞬驚いてアルを見下ろすと、白金の髪をくしゃりと撫でた。
「うん、知ってるよ」
そう応えるとその場にひざまずき、アルの手を取って囁いた。
「じゃあ僕も――騎士として姫君への誓いだ。これから先、何があってもお前だけは必ず守ってみせるよ、アル」
この日からこの言葉だけが、ずっと心の支えだったのだ。なのに――。
3
「本当にいいのか?」
いつの間にか傍らに立っていた男が、静かに問い掛けてきた。
彼女――アルファードは眼を開けると、声の主を仰ぎ見た。三歳ほど年上の男は、突然闇から抜け出したかのような出でたちだった。甲冑も外套も、後ろへと撫でつけられている髪までもが漆黒で統一されているのだ。腰には頑丈そうな大剣を帯びている。
男と目線を合わせてから、アルファードはゆっくりと肯いた。
「なぜそんなことを?」
反対に彼女が問い返す。
しかし聞くまでもなく、自分への配慮であることは判りきっていた。これからあの城塞――皇都へ攻め入ろうというのだ。中には義兄がいることも、また自分達と敵対するであろう事をも承知の上で。
それでも。
あの城には全ての元凶が巣食っているのだ。大切な者たちを死に追いやり、この国だけでは飽き足らず、大陸中を荒廃させたあの妖婦が――。
城を後にする時、一度だけ問い質す機会があった。その時妖婦は、艶麗な笑顔でこう言い放ったのだ。
――なぜ母を殺し……父を操り……この国を荒らす……!? 一体なぜだ!!
――理由? そんなものないわ。そうね、強いて言えば『オモチャだから』かしらね。
――ただ……ただそれだけのことで!?
怒りが収まらなかった。
理由もなく母を手に掛けたというのか!
父の名を貶めたというのか!!
この国に、この大陸に住む人々を苦しめているというのか!!!
我を忘れて切り付けようとしたアルファードを阻み、反対に深手を負わせたのは、誰よりも何よりも信頼していた義兄だった。
薄れゆく意識の中、焼き付いて離れないのは冷淡に見下ろす空色の瞳――。
あれから二年。ようやく巡ってきた、そしておそらくは唯一の機会なのだ。
「だが……きっと後悔するぞ」
憂いを帯びた深い藍色の瞳が、闇の中に浮かび上がる鮮やかな白金の髪を見つめている。
「……後悔ならとうの昔に……あの城を離れた時からし続けているさ」
かつての公女はそう呟き、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「『運命』などという言葉で簡単に片付けたくはないが、それでも自分で選んでしまった道なのだから……仕方のないこと、なのだろうな」
静かに立ち上がったアルファードは、再び男を見上げると言葉を継いだ。
「……最後まで見届けてくれるんだろう?」
男はあきらめ顔で、軽く溜め息を漏らす。
「まったく……頑固だな、あんたも」
「それはお互い様だ」
アルファードは口の端に笑みを浮かべた。
「……ふん、違いない」
二人は顔を見合わせて小さく笑った。
「ま、いいさ。それならたとえ何があろうと、あんたがどれだけ嫌がろうと、必ずここへ連れ帰ってやるよ。だから……」
男はついっと手を伸ばし、風に乗った白金の髪をすくいあげると、軽く口付けた。
「!!」
アルファードは慌てて一歩飛び下がる。頬が紅潮していた。
「そうそう、そういう表情してろよ」
男は穏やかな笑みを浮かべていた。闇に隠された顔色など見透かされているようだ。
「……ああ、そうだな」
つられてアルファードも吹き出してしまった。
ひとしきり笑いが収まってから、アルファードは左手にしていた剣を腰に帯びようとした。刃の重さがズシリと応え、改めてその存在を強く感じる。
今だかつて、この剣がこれほど重く感じられたことなどなかった、と。
そして、この重さが自分の心のあらわれなのだろう、とも。
深く息を吐き、しっかりと地面を踏みしめると、男の肩を軽く叩く。
「さあ……行くぞ、グランディーク」
そのまま脇をすり抜けるようにして、アルファードは歩き始めた。
もう夜を振り返ることなく――。
FINE
...Thanks A Lot!! → あとがき