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気の早い山々が、深緑から紅へと少しずつ衣替えを始めた頃の話である。
『環らずの森』――いつしかそう呼び習わされるようになったこの場所を、
人間が訪れることは滅多にない。
人間の寄り付かぬ原因は、危険を冒して険しい山を登らなくてはならないためか、
あるいはまことしやかに流れている、この森には魔女が棲みついている、という
噂のためか……。
いずれにせよ、人目を避けて暮らす者たちにとってこの地は、打って付けの場所だった。
「ちょっと! 待ちなさいってば!!」
朝靄が一面を満たし、いまだ陽も上りきらぬ時刻のこと。閑静な森の奥に甲高い
女の声が響き渡った。
声の先には古びた一軒家が、樹々に隠れるようにしてひっそりと建っていた。
全体的に小じんまりとした印象を受けるのだが、いちおう二階家になっており、
苔むした土台にうっすらと土埃をかぶった低い階段、そして適度に蔦の絡み付いた
石造りの外観は、周りの風景に違和感なく溶け込んでいる。
異質な点を挙げるとするならば、錆色で重厚そうな正面の扉くらいのものだろうか。
その正面の扉が音をたてて勢いよく開き、少年が一人飛び出して来た。
そのまま弾みをつけて、目の前の石段をぴょんと飛び降りる。
年の頃は十歳前後。
ざんばらな栗茶の髪を無造作に紐で結わえ、夏向きの上下にひざ下丈のブーツという
いたって簡素な格好で、右手には釣り具とおぼしき短めの棒きれを掴んでいた。
ちらりと後ろを振り返った少年は、後を追うようにして現れた人影を認めると、
麓へと続く道を駆け出そうとした。
「ラルフったら! あたしの商売道具、壊したまま逃げるんじゃないわよ!」
少年の背後から再び大声が響く。
声の主は、少年よりも七つか八つは年上と思われる少女だった。
身に纏っているゆったりとした黒地の衣装に、色とりどりの艶やかな刺繍が施された
薄手のショール、そして未明の風景に波打っている金色の髪がよく映える。
きつく見据えられた紫の双眸は、少年の姿を捕らえたまま離そうとはしなかった。
手にしていたのは小さいけれど豪華な装飾のついた丸い鏡――これが商売道具だろうか。
真ん中に大きな亀裂が入っている。
「そんなの、エマが床に置きっぱなしにしてたからじゃないか!」
ラルフはそろそろと歩みを進めながらも言葉を返した。
「置いたんじゃなくて勝手に落ちたの!
横に置いたままうたた寝しちゃって、落ちたのに気が付かなかっただけじゃないのよ!
大体あんた、今日こそは書庫の整理、手伝うって言ったでしょ!?」
そう言って指差した先には、家と隣り合っている円筒形の建物が見える。
エマは石段の下まで来たところで追うのを諦め、声を限りに叫んでいる。
樹々に遮られた叫びはところどころで反響し、八方から耳に突き刺さるようだ。
「…ごめん! 帰ってきたらどっちも片付けるよ!!」
ばつが悪そうに振り返ってそう答えると、ラルフは勢いをつけて走りだした。
「この間もそう言って、結局サボったじゃないのよ!! まったくもうっ!」
怒りを通り越して呆れたような表情で少年の後ろ姿を見送ったエマは、石段に座り込み、
持っていた鏡を投げ出してしまった。
◇
獣道をものともせず、ラルフは山を駆け下りた。
いたるところに転がっている岩や枯れ木を飛び越え、ほんの半刻ほどで麓まで
下りきってしまった。常人ならば半日以上はかかる道のりだ。
さすがに息ひとつ乱さず、というのは無理な注文らしく、新鮮な空気を求めて
大きく肩で息をしている。
山の麓からは細い街道が縦横に伸びており、大陸中の要所との行き来を可能にしていた。
だが早朝のためだろうか、行き交う人間も殆どいない。
ラルフがひと息ついて、えいっとばかりに勢いよく街道へと飛び出したその瞬間――。
「わわッ!!」
「…っ!」
ちょうど山へ分け入ろうとしていた人影と衝突し、そのままもつれるようにして
倒れこんでしまった。
相手は外套で全身を覆ってはいたが、微かに聞こえた息づかいは明らかに女性のものだ。
「サリィ!」
身体を起こそうとしたラルフは、相手の姿を認めると驚きと喜びの入り混じった声をあげた。
ぶつかった相手が、留守がちではあるが共に暮らしている女性だったためだ。
ラルフはいつも穏やかな笑みを絶やさぬ彼女にとても懐いていた。
「あ…、ちびちゃん!?」
こちらも、思わぬところで見知った相手とぶつかったことに驚いている様子だ。
ラルフは彼女を助け起こし、外套についた埃を掃ってやった。
「お帰り!! 大丈夫だった?」
「ええ、何とか」
相手ははずみで外套から零れ落ちた、長く艶やかな黒髪を直しながら、優しく微笑んだ。
が、その笑みはすぐに打ち消され、不思議そうに尋ねる。
「一体、そんなに慌ててどうしたのかしら? おまけにその格好は……」
別段、ラルフがおかしな格好をしている訳ではない。
見れば、ごく普通の少年なのだが、普通すぎるのだ。
少なくとも、彼女がよく見知っている少年の姿ではなかった。
「あ、いけない!!! ごめんね、僕いそぐんだ! また夜にでもゆっくり話すから!!」
問われたラルフは突然思い出したかのように、慌ただしく街道を走り去って行った。
「まぁ。半年ぶりだというのに、つれないこと」
ぽつねんと取り残されてしまった女性は、首を傾げながら小さくため息をついた。
...to be continued → Ralph -ZERO・2-