まず最初に知っておかなければならないのは、「フェニキア」という国家があったわけではなく、ましてや「フェニキア人」 という人種があったわけでも無い、ということです。紀元前1200年頃に、東地中海を中心に活躍していた海洋航路を 得意とするひとたちのことを、ギリシア人がそう呼んだことからその名前がついています。
というのも、この人々は染色技術に優れていて、特に彼らのつくる紫がかった布地(巻貝からとった染料で染める)は 有名だったようです。そこで赤褐色、ないしは紫がかった褐色を意味する当時のギリシア語の「phoenix(ポイニクス)」 から、フェニキアという名称に変化したらしいのです。
このへんがセーラーアスタルテのイメージカラーにつながってくるのでしょうか。
さてさきほど、海洋航路を得意とする「ひとたち」と書きましたが、どういうことかと言いますと、東地中海のシリア付近に 住んでいたカナン人を中心に、周辺のヘブライ人、ギリシア人およびテュロス人、カルタゴ人、モテュア人などなど海洋民族 のうち船舶による通商を得意とする人達がつくりあげた「連合体」のようなものだったようです。
発祥は定かではありませんが、紀元前3000年頃の 貨物船の遺跡が発見されています。紀元前1200年頃から歴史に名前を刻むようになり、その後およそ1000年に わたって、地中海で活躍しました。活躍の範囲は広く、地中海一帯は網羅しました。このため、地中海西部における フェニキア人を「西フェニキア人」と分けて呼ぶこともあるほどです。さらに彼らはアフリカ大陸を一周し、記録によれば なんと大西洋を横断して南アメリカ大陸にまで渡っていたらしいとの報告もあります。
したがって、フェニキアという国家があるわけでもなくそのような民族があったわけでもありませんが、 彼ら海で活躍する人々が共通の技術や共通の宗教を持つことは不思議なことではないでしょう。
彼らは海上交易を得意としおおきな富を築きました。その能力のひとつとして、加工貿易に優れていたことが あげられています。つまり各地で採掘あるいは輸入した金や銀、青銅、象牙などを加工して、きわめて緻密な装飾品と する加工技術が優れており、各国で王宮の贈答品などとして購入されたようです。
またその源資金を調達するのに役だったのが、彼らの本拠地、シリアに自生したレバノン杉です。レバノン杉は 造船や建築材料として優れており、フェニキア人はこれを伐採していきました。この乱伐は度が過ぎていて、 本来は美しい森林地帯であり雨も多かったレバノン一帯は、今ではまったくの砂漠地帯に変わり果てています。TVなどで 映るレバノン周辺はなにやら砂ぼこりが多い土地ですが、本来は森林地帯だったのです。現在、レバノン政府はここに 森林を復活させるための施策をいろいろと実施しています。
フェニキア人の使用していた船舶は、大きいものでは20メートル以上あり、船首と船尾を高く上げた形式が特徴です(軍船 は別。敵船を攻撃するため低くとがっている)。外側は水の侵入を防ぐために 全て瀝青で塗り固められたため、黒い船だったようです。この時代の多くの帆船が帆を船体の前方に持ち、風下に 真っ直ぐ進むことを前提に作られていたのに対して、フェニキアの船は帆を船体の中央に設置し、しかも帆の向きを自由 に変える事ができました。このために例えば南風を利用して西に進む、などということが実現できたのです。それでも 彼らはまだ風上に進む技術(帆を斜めに張り、風上に対して斜めにジグザグに進む)は持ち合わせていませんでした。 代わりに地中海各地における季節ごとの気象条件は緻密に研究され、どの時期にどの地方でどの風向きの風が吹くか? を情報として持ち合わせていました。1日に走行する距離は50〜60kmであるために、地中海沿岸にはその距離 ごとに基地が整備されて宿泊施設などがあったようです。
フェニキア各地は紀元前900年頃から、近隣のアッシリア人の攻撃にさらされるようになります。また、さらには ギリシアやバビロニアにも攻撃を受けるようになります。もちろん彼らが欲しいのはフェニキアの富です。それだけ 魅力のある優れた人々だったのでしょう。初期の頃ではアッシリア人に対して「金の力」すなわち貢物で平和を 保っていたフェニキア人ですが、さらに欲を追求したアッシリア王の子孫たちは「金」ではなく「支配」つまり権力 を欲するようになり、貢物は威力を失います。アッシリアの次にはバビロニア、さらにはギリシアが軍隊を押し寄せて フェニキア各都市を破壊し略奪し、紀元前332年にはアレクサンダー大王の軍隊により、シリアの都市テュロスが 占領されて、東フェニキアは滅びます。さらにフェニキア人の中で長く生き残ったカルタゴ民族も、ローマから三度 にわたる戦争を受けて滅亡し、紀元前146年には西フェニキアも合わせて、フェニキア人はすべて滅亡したのです。
現在、フェニキアの当時の生活様式などの情報を得ることはきわめて困難です。というのも、まずひとつの原因と して各都市は近隣諸国により徹底的に破壊されているということがあげられます。さらに、特に東フェニキアと 呼ばれる地域は多湿地帯であるために、記録物や建築物、さらには石に刻まれた碑文までもが微生物などによって 朽ち果てて風化してしまっているからです。「発掘」という手段も多少はありますが、当時の地中海沿岸の小都市 には現代ではほぼ全域にわたって家屋が立ち並んでいるために、掘り返すことができないようです。
<参考文献>
タイムライフブックス「ライフ人類100万年 海のフェニキア人」
河出書房新社「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」
日本文芸社「古代史新聞」