武将列伝番外編組列伝・西美濃三人衆 




 西美濃三人衆 
 にしみのさんにんしゅう 
 登場した時代・場所   美濃斎藤家・尾張織田家 
 構 成   氏家直元・安藤守就・稲葉良通 
 由 来   
 西美濃に拠点を持つ斎藤氏の特に有力な宿老三人を指して言う。  斎藤家重臣が連署する場合、必ずこの3人が名を連ねた。
 永禄十年(1567)3人ともに斎藤家を離反。 織田信長に仕え織田の美濃併呑の足がかりとなった。
 織田軍団の中でも美濃三人衆はひとまとまりの軍団としてまとまって転戦していた。
 単に美濃三人衆・濃州三人衆、あるいは同じく斎藤家を離反し織田信長に仕えた不破光治を含め四人衆ともいう。
 
 
 氏家直元  (?〜1571) 常陸介。 氏家卜全の名の方が親しみがある。 美濃大垣城主。
 大河内城攻め・姉川の戦いなど転戦後、元亀二年(1571)伊勢長島の戦いに赴く。  この戦いで退却の最中、一揆勢の手によって討死。
 遺領は子の直通(行広)が継ぎ、父に代わり三人衆として力を奮った。  関ヶ原の戦いで西軍につき所領を失う。

 
 安藤守就  (?〜1582) 伊賀守。 伊賀姓であったともいわれ伊賀伊賀守とも。  美濃北方城主。
 竹中半兵衛(重治)の舅であり、永禄七年(1564)半兵衛が稲葉山城を乗っ取った事件にも関与している。  天正八年(1580)織田家から追放される。武田氏に内通した罪というが真相は定かではない。  ほぼ時を同じくして織田家の重臣佐久間信盛・林佐渡守らも追放の身となっている。 (参照)   信長の死後、旧領を奪回するため立ち上がるが稲葉良通親子によって討ち滅ぼされてしまう。

 
 稲葉良通  (1515〜1588) 伊予守。 入道名の稲葉一鉄として知られる。  美濃曽根城主。
 本能寺の変に際しては所領し在していた。 混乱することなく西美濃の治安維持に徹した。  元同僚であった安藤守就の挙兵に対しても子の貞通と共にこれを討っている。  その後羽柴秀吉を支持し三位法印に叙せられている。
 嫡男貞通は郡上八幡城主となり羽柴郡上侍従ともよばれた。  関ヶ原の戦いでは決戦直前に東軍に付く。 豊後臼杵五万石に転封となった。

 
  補 足   



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