第 9 巻

 佐久間右衛門かたへ御折檻の条   

 

 
 信長の性格を挙げるに短気、冷酷、非情などあまり良くない表現でされることが多い。
 だが戦国という世の大名という立場の人間を現代の感覚に当てはめてどうこう言うのは如何かと思う。
 冷酷という根拠としては伊勢長島の一向一揆衆の殲滅や比叡山の焼き討ち等の例を用いられるが、 これを農民や僧侶に対して取った行動であるのか、抗争中の戦闘員や後方支援要員・敵対勢力と見るかによって 随分評価は変わるであろう。
 もうひとつ、重臣たちの謀反や追放を一つ一つ述べる例もある。
 はたして信長が冷酷であるから重臣たちは離反したり、追放されたりしたのか。
 今回は天正八年(1580)突如として佐久間信盛や林秀貞らが追放された事件を追っ手みたいと思う。
 
   
 天正八年八月、信長は佐久間信盛に対し19ヶ条からなる折檻状を自筆にて書き、楠木長安・松井夕閑・ 中野一安の三人を使者としてその書を持たせ、佐久間信盛親子へ遠国へ退去を命じた。
 数日後には林佐渡守秀貞・安藤伊賀守親子・丹羽右近を遠国へ追失した。

 佐久間信盛は織田家の重鎮で父の代より仕えている。
 信盛の父・重盛と共に信勝に長(おとな)として付けられた経歴も持つ。
 軍団の筆頭とも言える立場にもおり、重臣中の重臣である。
 子は信栄。 親子共々茶の湯にかなり傾倒していたらしい。
 この追放劇は信長と本願寺の和解が朝廷を介する形で成り立った後に起きた。
 信長の「仏敵」を解消し、石山本願寺が紀州鷺森へ退くこととなる、信長の事実上の勝利である。

 林佐渡守秀貞(通勝)は織田家の重鎮中の重鎮であり、信長幼少の頃から長(おとな)の筆頭として付けられてきた。  どちらかといえば文吏的役割を果たしていたのだろうか。
 実戦に加わることは少ない。
 信長の弟・信勝(信行)の謀反の際、信勝派に付く。  謀反の失敗により秀貞の弟は討死。 秀貞は赦され再び宿老として仕えてきていた。
 殊に今回の追放劇では秀貞の追放の理由の一つに、この時信勝の謀反に荷担したことを挙げられているという。

 安藤伊賀守守就(伊賀姓ともいう)は元々美濃の斎藤氏に重臣として仕えで、稲葉一鉄・氏家卜全と並び 美濃三人衆と称されていた。
 この美濃三人衆が信長に投降したことが信長の美濃攻略の成功を導いたと言っても過言ではない。
 また女婿に竹中半兵衛重治がおり、稲葉城乗っ取りの事件にも荷担しているという。
 美濃併呑により美濃衆は信長の宿老たちの配下にあてがわれていったが、この三人衆は一組で独立した軍 として転戦している。 この追放の理由は武田への内通という。

 丹羽右近氏勝(源六)は古くから織田家に仕える。
 もともと岩崎城主であったが守山城と因縁が強く、喜六郎秀孝誤射による守山 城襲撃にも守山城側として馳せ参じ、その後の角田新五の謀反でも角田を支援した経歴を持つ。
 この追放の理由はよく伝わっていないが、やはりこの事件が関連しているのか。  また、追放の少し前、近江伊庭山で普請の最中に信長の前へ大石を落とすという事故があり、それが原因 しているのかもしれない。

 
  さて、佐久間信盛への折檻状であるが
 
一、   佐久間信盛・信栄親子ともども天王寺に五年間在城しながら何ら功績もあげていない。
 世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり口惜しい思いをしている。

一、   何ら功績もあげていない信盛らの気持ちを推し量るに石山本願寺を大敵と考え、戦もせず、調略もせず、 ただ城の守りを堅めておれば、幾年かもすればゆくゆく信長の威光によって引き下がるであろうという見通し だったのか。
 武者道というものはそういうものではない。
 勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても本意なことであのに、一方的的な 思慮で持久戦に固辞し続けたことは分別もなく浅はかなことである。

一、   明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこし、羽柴秀吉の功労も比類なし。
 池田恒興は少禄の身であるが摂津花隈を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。
 これを以て奮起を発し一廉の働きをすべきであろう。

一、   柴田勝家もこらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。

一、   武力に不甲斐ない者は謀略などをこらし、相足らぬ所を報告し意見を聞きに来るのに、五年間それすらない。

一、   信盛の与力・保田知宗の書状では本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散する であろうろあり、信盛親子も連判している。
 今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場を かわすためあれこれ理由を付け言い訳しているのではないか。

一、   信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。
 三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。
 これに自身の配下を加えれば、どんな一戦を遂げようともこれほど落ち度を取ることはない。

一、   水野信元死後の刈谷を与えておいたので家臣も増えたかと思えばそうではない。
 水野の旧臣を追放しておきながら、跡目を新たに設けるでもなく。
 結局、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄としてしまうのは言語道断。

一、   山崎の地も同様で信長の声かかりの者まで追放してしまう有様。
 これも先の刈谷と同じである。

一、   譜代の家臣に知行を加増してやったり与力を与えたり、新規に召し抱えたりしているなら未だいいがそれも無い。
 ただ自身の蓄えを肥やすのみであり、天下の面目を失ってしまった。
 これは唐・高麗・南蛮の国(中国・朝鮮・西洋諸国−−−つまり世界中)まで隠れもないことである。

一、   先年、朝倉をうち破ったとき、戦機の見通しが悪いとしかったところものともせず、結局自身の正当性を 吹聴し、あまつさえその場を立ち破るに至って信長も面目を失った。
その口程もなくここに在陣し続けていまの働きの程は前代未聞である。

一、   甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。

一、   大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。
 その上、いい加減な働きをすれば、行き着くところ親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になる。

一、   与力を専ら使役し、他への取り次ぎや戦事にはこの与力で軍役を済まし自身の家臣を使わない。
 領地をただ遊ばせ無駄にしている。(知行人をつけない?)

一、   信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。
 自身の思慮を自慢し穏やかなふりをしても綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。

一、   信長の代になり30年間奉公し信盛の活躍は比類なしと言われるような働きは一度もない。

一、   信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方が原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。
 しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば その甲斐あって運良く戦死を免れたと人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。
 あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、 その思慮無きこと紛れもない。

一、    こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。

一、    親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。

 
   
 言いたい放題である。
 しかし幾分か誇張や言い掛かりがあろうと、これだけ並べ立てられれば佐久間信盛の方が分が悪い。
 実際、社会はきびしい。
 昨今もやれリストラなど官僚の堕怠などと騒がれているが、こうしたことはいつの世も同じか。
 いや、戦国という世だからこそもっとシビアであろう。
 一戦の一敗が軍団の壊滅・お家の滅亡に繋がるのである。
 出来の悪い上司が部下に与えるものは給与カットでも左遷でもなく、すなわち「死」なのであるから。
 
 上記に書かれたことを要約すれば
 5年間、本願寺攻略の司令官を命ぜられながら、なんの功績も残さなかった。
 それはこの5年間に限ったことではなく、重臣としての立場に見合った働きをしていない。
 三方が原の負け戦にしても、勝敗は武門の習いにしても負け方があろう。
  (家康は家臣の犠牲の上、命辛々逃げ延びた。 平手汎秀も討死。 盛信のみが無傷。)
 与力ばかり使役し、家臣にも報償を与えず、私腹を肥やすばかり。
 子の信栄までもがろくでもない。
 かくなる上は名誉挽回に命を懸けるか隠遁しろ。
 と、いうことか。
 
 信長は、実は甘い男でもある。
 なぜなら、彼は必ずチャンスを与えてくれる。
 
 信長に逆らった人たちを見てみると良い。
 足利義昭。 松永久秀。 織田信勝。 織田信広。 柴田勝家。 林秀貞。
 皆、一度は赦されている。
 二度三度と逆らうが為、滅ぼされ追放されるが者もいるが、本来反逆・謀反は死罪に値する。
 一度たりとも赦されることはないのである。
 赦されることなく滅ぼされる者もいる。
 浅井長政。 荒木村重。
 だが、彼らも同じく一度も赦しを乞うてはいない。
 荒木村重なぞ説得に来た使者の黒田官兵衛を監禁までしてしまう。
 謀反せずとも勘気を被り蟄居・謹慎を命ぜられたり追放された者もいる。
 羽柴秀吉。 前田利家。
 彼らも別段死罪となっても誰も責めまい。 主君は絶対の世の中である。
 秀吉はその知恵で、利家は武勲で切り抜けた。
 注意して欲しい。  信盛の折檻状にも汚名を濯いだ上帰参するか(原文「此上はいづかたの敵をたいらげ、 会稽を雪ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事。」)とあることを。
 すぐ様、高野山への追放を命じた信長ではあるが、ここに汚名返上のチャンスのヒントを与えてくれて いるのである。
 前田利家は信長お気に入りの同朋衆十阿弥を信長の面前で討ち殺すという罪を、追放を受け一旦浪人の身 となり、幾度と戦場に勝手に紛れ込み敵の首をあげることを繰り返し赦された。
 利家の弟・佐脇良之も別件で勘気を被り浪人し、三方が原で 家康の陣に潜り込み散っている。
 「佐久間信盛よ武者の意地を見せてみろ。」
 信長はそう言っているのではないか。
 だが信盛は別の道を選んだ。
 翌年、熊野の十津川で失意の内に死を迎える。
 
 ちなみに子の信栄はその後赦され正勝と名を改め織田信雄に仕え、また秀吉の御伽衆となった。
 
   
 林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝について詳しい理由はわからないが、だいたい先に似たような物であろう。
 仕えないからクビにする。  いやなら、功績をあげてみせろ。
 お前は、先に死罪に値するところを助けてやった。  ならば死にものぐるいで働いて見よ。 チャンスとして猶予の年月を与える。  未だそれが出来ないなら用はない。 死罪は既に赦しているのだから追放だ。
 そういう事ではないかと思う。
 
 林秀貞も今更昔のことを蒸し返したのではなく、一度まぬがれた死を有効に使えなかったから追放された のではないか。
 
 本能寺の変で明智光秀が謀反した理由に信長が重臣に冷たく光秀も危機感を感じていたとする説もあるが、 別に無能でなければ追放はされまい。
 そのぐらい光秀は理解していようし、それが理解出来なかったのならそこまでの人だったということか。
 
 尚、林秀貞・丹羽氏勝のその後は知らないが、安藤守就は信長の死後、旧領奪回を画策し兵をあげた。
 結果として元同僚の稲葉一鉄親子に討ち滅されてしまうのだが、最後に意地を見せたのは守就だけということか。
 

   
 * 佐久間信盛への折檻状は意訳です。
   若干、間違いがあるかもしれませんがだいだいこのような意味であろうと思います。
 
 * ちなみに原文はこちら(←スミマセン、まだ出来てません)
 
 * 与力−−−佐久間信盛の家臣ではなく信長の直臣であるが信盛の下につけられた部下。
        本来同輩である。






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