もう一人の信長 

上総守護代信長




 
 戦国時代というにはやや時代が早いかもしれない。
 けれども乱世という名に於いては、関東は上杉禅秀の乱より既に戦国期の様相を呈していた。
 15世紀前半から半ばにかけて、関東には豪勇と名を馳せた信長という男がいた。
 晩年、上総国守護代となった男である。
 奇しくも上総介を称した織田信長と、似たような肩書き(注*)と同じ名前を持った男。
 最初は、ただそれだけのことで興味をいだいたのだが、調べてみるとなかなか面白い。
 それが上総国守護代 武田右馬助信長である。
   *似たような職種という意味ではなく肩書きのフレーズという意味。
    守護代は幕府の職種守護の代官・介は官職中の国司の第2位。  
 
 
甲斐守護武田氏
 
 武田氏といえば甲斐の国の戦国大名として有名であるが、甲斐国に限らず安芸、若狭、房総などにも 分布している。
 これら武田氏は元をただせば皆、甲斐の武田氏と始まりを同じにする。
 清和源氏の祖経基の孫の一人、頼信が甲斐守に任ぜられ平忠常討伐の命を受けて以来、頼信の子頼義、 頼義の三男新羅三郎義光と代々甲斐守を歴任してきた。
 義光の子、義清は気性が激しく些細なことから訴訟が起き朝廷により甲斐国に配流下されることとなった。  以降、子孫は甲斐に住み着く。
 そして源平合戦、承久の乱、南北朝時代の動乱を生き抜き、甲斐・安芸両国守護職を兼ね、甲斐源氏 武田氏の地位を確固たるものとしていったのである。
 
 
 さて、応永二十三年(1416)、関東に大乱が起きる。
 上杉禅秀の乱である。
 上杉禅秀は関東公方を支える関東管領の地位にあった上杉氏憲のことである。
 関東公方は鎌倉に府を置き東日本を支配する権限を持つ。
 関東管領はその関東公方を補弼する役職にあった。
 関東の治安と行政はは幕府の置かれた京から遠く細分な取り締まりができないので 関東公方・関東管領に任せられる。
 遠方で鄙びた地とは言われても実は肥沃な大地と人口を持つ地域である。
 それゆえ関東公方も関東管領も、その権力は絶大であった。
 権力は他の権力を忌み嫌う。幕府と関東公方の間、また関東公方と関東管領の間には次第に互いを牽制しあうものに なりつつあった。
 
 関東管領は代々上杉氏が歴任していた。
 そして権力は巨大になればなるほど内部で分裂する。
 それは上杉氏も同様で4つの分家し勢力へと別れた。
 それが扇谷・詫間・犬懸・山内であり、それぞれ強大な力を持ちながら微妙なバランスのもとで 牽制しあい成り立っていた。
 上杉禅秀は犬懸上杉氏の当主でもある。
 この上杉禅秀と関東公方足利持氏との関係が非常に険悪なものとなったのだ。
 元はといえば関東公方支配下の豪族の所領没収に関わる些細な問題だった。
 よくある利権争い。諸々の利権は上杉禅秀にも影響する。
 禅秀は管領職のサボタージュに入り自我を押し通す。
 一方、公方持氏はここぞとばかり禅秀を罷免。
 あたらしい関東管領職には山内上杉の上杉憲基が任命された。
 これに不満を抱いた禅秀は武力行使におよんだのである。
 禅秀は縁者・支援者を結集する。
 この時の甲斐武田氏の当主は安芸守信満。
 禅秀の妻の父にあたり、当然禅秀から援助を乞われていた。
 
 
 





その1 甲斐守護武田氏

その2 上杉禅秀の乱

その3 信長生還

その4 日一揆

参照 系図

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