もう一人の信長 

上総守護代信長




 
上杉禅秀の乱
 
 武田安芸守信満には9人の男子がいた。
 このうち嫡男信重はどちらかといえば温厚な性格であったようだ。
 次男の信長はそれとは逆に豪勇で知られる。
 信満はこの信長を連れ上杉禅秀のもとへ赴いてた。
 
 
 上杉禅秀はかねてより病気と偽に邸内に籠もっていた。
 応永二十三年(1416)十月二日、禅秀の三男憲方が関東公方足利持氏の屋敷を訪れ、父禅秀の病が 重く命が幾ばくもない事を告げる。
 もちろん、足利持氏や現関東管領上杉憲基らを油断させるための罠である。
 案の定それまで禅秀の動向に不審を抱き神経を張りつめていた公方・管領方は、禅秀に死が迫ってるという 報告を鵜呑みにして一挙に緊張をほどいてしまった。
 その夜、禅秀と信満の連合軍が持氏の屋敷を奇襲した。
 もともと禅秀の反乱を警戒していただけに持氏の屋敷には百人程の兵が詰めていたが、警戒はゆるんで しまっていた。
 当然、不意を突かれまともな応戦はできなかった。
 禅秀らは持氏の屋敷に詰めていた者を全て殺すべく手当たり次第斬りまくった。
 持氏を必ず討ち取らねばならない。  何人も屋敷から逃がしてはならぬのだ。
 だが、運は持氏に味方していたようだ。
 持氏は奇襲を受けたと同時に裏山づたいに脱出して上杉憲基の屋敷に逃げ延びていた。
 
 禅秀はもちろん上杉憲基も標的にしており、兵をその屋敷に向かわせていた。
 だが、持氏の屋敷と憲基の屋敷を襲撃する時間にタイムラグが生じていたのである。
 そのわずかな時間の間に持氏は屋敷を脱出し憲基の屋敷へ逃げ込んだのである。
 それは憲基に禅秀の決起を知らせることとなり、守りの準備をさせる結果となってしまった。
 
 禅秀・信満らは憲基の屋敷を囲んだが、守りも堅く攻めあぐねているうちに六日を迎えた。
 その日の朝、禅秀は総攻撃をかけ憲基の屋敷は焼け落ちる。
 だが、肝心の持氏と憲基の首級を挙げることはできなかった。
 またしても持氏は逃げ延びていたのである。
 総攻撃の乱闘のどさくさに紛れて下男に返送して、箱根まで落ち延びたのであった。
 
 この時点で、ある意味禅秀の乱は失敗したことになる。
 結果はともかく、当初の目的を果たせなかったわけであるから。
 それでも、関東は禅秀の手の物となり関東公方の持ちうる実権を手に入れたのであることにはかわりなかった。
 禅秀・信満の連合軍に抵抗しうるだけの武力は関東公方には無かった。
 
 反乱という行為に対しては必ず討伐軍が繰り出される。
 年が明け応永二十四年(1417)、幕府は正式に禅秀を逆賊とし討伐令を発した。
 越後守護上杉房方・信濃守護小笠原政康・駿河守護今川範政らが討伐令を受け鎌倉へ向けて出陣した。
 上杉房方と小笠原政康は合同で南進、武蔵国世谷原へ進軍する。
 これを信満が迎え撃ち、東進してくる今川範政は禅秀がくい止める作戦に出た。
 信満・信長父子が上杉・小笠原の信越連合軍と激突したのは正月八日である。
 武田の軍勢は強く信越からの遠征軍を撃破した。
 結局、信越連合軍は撤退し信満・信長父子は禅秀を救援すべく鎌倉へ引き返した。
 ところが信満・信長父子が鎌倉に戻る前に禅秀は今川軍に破れ自決してしまったのである。
 武田軍は孤軍となった。
 このまま鎌倉へ向かっても意味はない。
 信満・信長父子は甲斐へ戻り次の討伐軍に備えることとした。
 
 ところが、ここで思わぬ敵の伏兵が出てきた。
 武田氏と同族の逸見氏が、協力を拒否したのである。
 もともと甲斐源氏という目からみれば武田氏よりも逸見氏の方が直系にあたる。
 信満の九代前−−−武田信義の長兄・光長が逸見氏を起こしており嗣子が無いため信義の次男・有義が 跡を嗣いだ。
 武田氏は信義の三男・信光が嗣いでいる。
 逸見氏は自分こそ甲斐源氏の宗家であり支流の武田氏の下になることを潔しと考えていなかった。
 この禅秀の乱が失敗に終わったことで一気に形勢を逆転しようと、公方側に通じたのである。
 乱の首班・禅秀であるが破れ、甲斐の統一も図れぬとあってはこれ以上争うことは武田家の存亡に関わる。
 それでも信満は降伏することも潔しとしなかった。
 子供達を残し、わずかな軍勢のみで討伐軍を迎え撃ち破れ、自刃し果てたのだった。
 
 
 





甲斐守護武田氏

上杉禅秀の乱

信長生還未完

系図

戻 る