武田氏といえば甲斐の国の戦国大名として有名であるが、甲斐国に限らず安芸、若狭、房総など各地に 分布している。
 これら全国に散らばる武田氏は元をただせば皆、甲斐の武田氏と始まりを同じにする。
 清和源氏の祖の一人源経基の孫・頼信が甲斐守に任ぜられ平忠常討伐の命を受けて以来、頼信の子頼義、 頼義の三男新羅三郎義光と代々甲斐守を歴任してきた。
 義光の子、義清は気性が激しく些細なことから訴訟が起き朝廷により甲斐国に配流下されることとなった。
 以降、子孫は甲斐に住み着く。
 そして源平合戦、承久の乱、南北朝時代の動乱を生き抜き、甲斐・安芸両国守護職を兼ね、甲斐源氏 武田氏の地位を確固たるものとしていったのである。
 
 
 さて、応仁の乱より50年ほど遡る応永二十三年(1416)。
 関東に大乱が起きる。
 幕府は鎌倉に関東公方を置き東国を掌握させている。
 東国とは関東一円のみならず東日本を指し、その支配権は中央の幕府と二分する強大な権力である。
 そして関東公方を補弼する地位にあるのが関東管領。
 その関東管領職にあった上杉氏憲(禅秀)が主である関東公方足利持氏に弓を弾いたのだ。
 これを上杉禅秀の乱と呼ぶ。
 
 
 関東公方も関東管領も、その権力は絶大である。
 それゆえか、幕府と関東公方の間、また関東公方と関東管領の間には次第に互いを牽制しあうものに なりつつあった。
 関東管領は代々上杉氏が歴任していたが、上杉氏自体も扇谷、詫間、犬懸、山内と四家に分裂し それぞれ強大な力を持ちながら微妙なバランスのもとで成り立っていた。
 上杉禅秀は犬懸上杉氏の当主でもある。
 この上杉禅秀と足利持氏との関係が険悪なものとなり上杉禅秀の乱が勃発する。
 元はといえば関東公方支配下の豪族の所領没収に関わる問題だったようだ。
 問題が拗れたことによって上杉禅秀は管領職をサボタージュする形で足利持氏に抵抗を試みた。
 足利持氏はここぞとばかり、煙たく思えてならない上杉禅秀を職務怠慢として罷免してしまう。
 あたらしい関東管領職には山内上杉から上杉憲基が任命された。
 上杉禅秀がこれに不満を抱かないわけがない。
 足利持氏を排除するため武力行使におよぶことを考えた。
 そのための協力者を甲斐より呼び寄せる。
 甲斐武田氏の当主、武田安芸守信満。
 上杉禅秀と武田信満は婿・舅の関係にあり、武田信満は上杉禅秀の決起に応じた。
 
 武田信満には9人の男子がいる。
 嫡男武田信重はどちらかといえば温厚な性格であったようだが、 次男の武田信長はそれとは逆に豪勇で知られる。
 武田信満はこの武田信長を連れて上杉禅秀のもとへ赴いてた。
 
 
 上杉禅秀はある計略を企てる。
 上杉禅秀が足利持氏に不満を抱いていることも武力行使に及びかねないことも関東公方・管領側も周知 している。
 防御対策は万全にとっているだろう。
 それゆえ上杉禅秀は病気と偽って自邸に籠もり、姿をあらわさないようにした。
 上杉禅秀が病に倒れるという情報を流し足利持氏らを油断させようというのだ。
 
 その日、上杉禅秀の三男上杉憲方が関東公方足利持氏の屋敷を訪れた。  父上杉禅秀の病が非常に重く、命は幾ばくもない事を告げに来たのである。
 もちろん、足利持氏や上杉憲基らを油断させるための罠である。
 案の定それまで上杉禅秀の動向に不審を抱き神経を張りつめていた公方・管領方は、 上杉禅秀に死が迫ってるという報告を鵜呑みにして一挙に緊張をほどいてしまった。
 そして夜になり上杉禅秀と武田信満が足利持氏の屋敷を奇襲した。
 もともと禅秀の反乱を警戒していただけに足利持氏の屋敷には百人程の兵が詰めていたが、 警戒はゆるんでしまっていた。
 当然、不意を突かれまともな応戦はできない。
 上杉禅秀らは足利持氏の屋敷に詰めていた者を全て殺すべく手当たり次第斬りまくった。
 足利持氏を必ず討ち取らねばならない。
 何人も屋敷から逃がしてはならぬのだ。
 だが、運は足利持氏に味方していた。
 足利持氏は奇襲を受けたと同時に裏山づたいに脱出して上杉憲基の屋敷に逃げ延びていた。
 
 上杉禅秀はもちろん上杉憲基も標的にしており、兵をその屋敷に向かわせていた。
 だが、足利持氏の屋敷と上杉憲基の屋敷を襲撃する時間にわずかな時間差が生じていた。
 そのわずかな時間の間に足利持氏は屋敷を脱出し上杉憲基の屋敷へ逃げ込んだのである。
 それは上杉憲基に上杉禅秀の決起を知らせることとなり、守りの準備をさせる結果となってしまった。
 
 上杉禅秀・武田信満らは上杉憲基の屋敷を囲んだが、守りも堅くなかなか攻め込むことができなかった。
 四日目の朝、上杉禅秀は総攻撃をかけ遂に上杉憲基の屋敷は焼け落ちる。
 だが、肝心の足利持氏と上杉憲基の首級を挙げることはできなかった。
 またしても足利持氏は逃げ延びていたのである。
 総攻撃の乱闘のどさくさに紛れて下男に変装し脱出、箱根まで落ち延びたのであった。
 この時点で、ある意味上杉禅秀の乱は失敗したことになる。
 結果はともかく、当初の目的を果たせなかったわけであるから。
 それでも関東は上杉禅秀の手に握られた。
 逃げるだけで精一杯の足利持氏には上杉禅秀・武田信満の連合軍に抵抗しうるだけの武力はもう無かった。
 
 反乱に対しては討伐軍が繰り出される。
 それは世の常である。
 関東公方は幕府の代行者であるのだ。
 私怨といえど幕府に楯突いたことにはかわりはない。

 年が明け応永二十四年(1417)、幕府は正式に上杉禅秀を逆賊とし討伐を命ずる。
 越後守護上杉房方、信濃守護小笠原政康、駿河守護今川範政らが討伐の命を受け鎌倉に向け出陣した。
 上杉房方と小笠原政康は合同で南進、今川範政は東海道を東進してくる二面からの攻撃である。
 これに対し上杉禅秀が今川範政くい止めるている間に武田信満が上杉・小笠原軍を迎え撃ち撃退、 とって返し上杉禅秀と合流して今川範政を叩くという作戦に出た。
 武田信満・信長父子が上杉・小笠原の信越連合軍と武蔵国世谷原と激突したのは正月八日である。
 武田の軍勢は強く信越からの遠征軍を撃破、信越連合軍は撤退した。
 そして武田信満・信長父子は上杉禅秀を救援すべく鎌倉へ引き返した。
 ところが武田信満・信長父子が鎌倉に戻る前に上杉禅秀は今川範政に破れ自決してしまったのである。
 武田軍は孤軍となった。
 このまま鎌倉へ向かっても意味はない。
 武田信満・信長父子は甲斐へ戻り次の討伐軍に備えることとした。
 
 ところが、ここで思わぬ敵の伏兵が現れる。
 甲斐国内から離反者が出た。
 武田氏と同族の逸見有直とその一族が協力を拒否したのである。
 もともと甲斐源氏という目からみれば武田氏よりも逸見氏の方が直系にあたる。
 武田信満の九代前・武田信義の長兄・武田光長が逸見氏を起こしたが嗣子が無いため武田信義の次男 武田有義が跡を嗣いだ。
 武田氏は武田信義の三男・武田信光が嗣いでいる。
 逸見有直は自分こそ甲斐源氏の宗家であり支流の武田氏の下になることを潔しと考えていなかった。
 この上杉禅秀の乱が失敗に終わり武田信満が逆賊となったことで一気に形勢を逆転しようと考え、 幕府側に通じたのである。
 乱の首班である上杉禅秀が破れ孤立した上、甲斐の統一も図れない。
 この状況で長期戦に持ち込むことは武田家の存亡に関わる。
 だが武田信満・信長父子は降伏することも潔しとしない。
 子供達を逃がし、わずかな軍勢のみで討伐軍を迎え撃ち破れ、自刃し果てた。
 
 
 
 甲斐守護武田信満は敗れた。
 一族の逸見氏が関東公方足利持氏と結託した為、残された武田の遺児や一族は逸見氏から逃れる為 に甲斐を離れなければならなくなった。
 甲斐国の支配が武田氏から逸見氏へ移ったのである。
 足利持氏は逸見有直の協力に報いるため新しい甲斐国守護に逸見有直を推した。
 だが、幕府はそれを拒絶した。
 
 
 幕府が新しく守護に任じたのは穴山満春であった。
 穴山満春は武田信満の実弟である。  鎌倉時代以来守護職に就いていた武田の名跡を絶やすには忍びないこと、武田氏と同族といえども 逸見氏の血縁は遠く幕府・朝廷にとっても縁があまりにも薄いことが表向きの理由である。
 もう一つの理由は、足利持氏の息の掛かった逸見有直を守護に任じることは、それだけ関東公方の力を 強大化させるだけであると考えたのだろうと思われる。
 案外、それが真の理由かもしれない。
 武田信満敗退後、穴山満春は僧籍にはいり高野山で空山と号していた。
 穴山満春は武田姓に復姓し、名も武田信元と改めた。
 また、このまま甲斐国内に赴いても逸見有直らの抵抗があるだろうと警戒した幕府は 信濃守護小笠原政康を援軍に付けて甲斐へ赴任させた。
 (小笠原政康は先の乱では討伐軍として武田信満と戦った。
 しかし、小笠原政康の母は武田信満・信元の妹でもある。)

 
   逸見有直には新守護武田信元を排除することができなかった。
 もともと武田信満が関東公方を攻撃することで幕府に楯突いてしまったことにより、 転がり込んできた今の立場(甲斐国内での支配力)である。
 正式に幕府に任ぜられた守護を攻撃すればどうなるか、逸見有直にはよくわかっていた。
 まして小笠原政康が一軍を率いてきたのである。
 勝ち目はない。
 だが小笠原政康は信濃守護という立場からいつまでも甲斐には滞在できない。
 逸見氏からの襲撃はもう無いと判断したが念のため牽制に小笠原一族の跡部明海を残して信濃へ帰国した。
 跡見明海は守護代として武田信元を補佐、ここに武田−跡見体制で武田氏の守護としての地位は 確立するかに見えた。
 だが、一年もたたぬうちに武田信元は病死してしまうのである。
 
 逸見有直から見れば再逆転のチャンス。
 跡部明海にとっては甲斐国を牛耳る絶好の機会である。
 実際、武田信元が病床に伏したころから専横が目立ってきていた。
 そこへ登場したのが武田信長である。
 
 武田信長の登場に逸見有直や跡見明海も大変驚いたようである。
 武田信長は父・信満とともに上杉禅秀の乱で命果てたと思われていたのである。
 確かに首級も遺体も確認されていなかったが、どこかで討ち果てたか自刃したのだろうと思われていた。
 だは、武田信長は生きていた。
 武田再興を願って武田信満の遺児達は全国に散り雌伏していたのである。
 
 
 嫡男の武田信重は道成とと号し高野山に籠もり身を潜めていた。
 本来、自分が嗣ぐべき武田の甲斐守護職を叔父武田信元が就任したときも、またその武田信元が死しても 尚、まだ安定せぬ甲斐に戻るのは危険とみてか山を下りなかった。
 三男宗因や四男信康など武田信重の遺児は散らばりながらも生存が確認されていたが、次男信長だけは 父・信満とともに討死もしくは自刃したと考えられていた。
 だが、信長は落ち延びて信濃守護小笠原政康のもとに潜伏していたようだ。
 討伐側に潜んでいたわけである。  (先にも書きましたが武田信長と小笠原政康とは従兄弟である。)
 
 
 小笠原政康は武田信長の復権、ひいては甲斐守護職になれるよう密かに幕府に働きかけていたようだが 謀反の首謀者の一人である信長を守護に任じることは出来なかった。
 そういった事情を把握していた為か武田信元が守護に就任したことも素直に受け入れたようである。
 しかし武田信長は甲斐が武田以外の物に牛耳られることを潔しとしていなかった。
 また嗣子のいない武田信元は信長の嫡子伊豆千代を養子として迎え入れていた。
 武田信元の死した今、伊豆千代が嗣ぐというのことも考えられる。
 しかし伊豆千代は幼少の為、元服まで守護代の跡部明海が後見役として養育することとなる。
 跡部明海はそれをいいことにますます甲斐における権力を増長させていったのである。
 
 武田信長が





甲斐守護武田氏

上杉禅秀の乱

信長生還

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