マイナー武将列伝・織田家中編 




 中野一安 
 なかの かずやす 
 生没年   1526?〜1598   主君・所属   織田信秀・信長 
主な活躍の場  小豆坂の七本槍 
   
 又兵衛。一安。重吉。
 織田と松平・今川連合軍が激突した小豆坂で功名を得た七人の武将(小豆坂の七本槍)の一人に数えられる。
 信長の馬廻。
 また、弓衆を束ねる一人である。
 
 中野家はその系図によれば源行家(新宮十郎)の末裔となる。
 行家の孫・為貞が尾張国中野に住み、中野を称したとする。
 この中野が今のどの辺りかは不明。
 愛知郡中野村と中島郡中野村と二説あり。
 国内の戦乱もあり代々、尾張国内を転々とした様子もあり。
 
 系図を見ると中野与三次、斯波義将に仕う。
  中野勘解由左衛門、斯波義重・義郷に仕う。
  中野対馬守、斯波武衛(守護の事)に仕う。文明年中、斯波家絶えた後、織田家に仕える。
 とあるから代々、尾張守護職の斯波家に仕えていたのだが尾張斯波家の本家が絶えた際、織田家に仕えたのであろう。
 
 中野対馬守の孫が又右衛門重次。
 重次と河尻氏の女の間にうまれたのが又兵衛一安。
 那古屋城主であった今川氏豊の娘を妻とした。
 
 天文十一年(1542)小豆坂の戦で功績を挙げ小豆坂の七本槍と称される。
 この時、中野一安は十六歳であると『織田軍記』には記載されている。
 『織田軍記』は小豆坂の戦は天文十一年(1542)と天文十七年(1548)の2度行われたとし、七本槍の活躍は天文十七年の戦いでの出来事としている。
 と、すると中野一安の生まれは天文二年(1533)となる。
 
   中野おつち十六歳、後に又兵衛と号す   (『織田軍記』)
 
 『織田信長家臣人名事典』では幼名を「そち」とし小豆坂の戦当時は十七歳であったと『甫庵信長記』に書かれている事を紹介する。
 また『戦国人名事典』では単に生年不詳と。
 ここでは『織田信長家臣人名事典』の大永六年(1526)生まれに従いました。
 
 元亀元年(1570)は本願寺攻め、元亀三年(1572)には浅井攻めに参加し功名をあげた。
 天正六年(1578)有岡攻めで平井久右衛門・芝山次大夫と組み、弓衆を三手に分けて火矢を討ち入れ 有岡の町を焼き、天正九年(1581)の馬揃えの時は弓衆100人を久右衛門と共に率いた。
 また天正八年(1580)、佐久間親子への遠国退出命令の使者としても名がみられる。
 本能寺の変後、秀吉に仕える。  後、豊臣秀次に付くが死後、浪人とり尾張国熱田に閑居となるが、秀吉から三千貫の地を賜っていたという。
 また『織田信長家臣人名辞典』では、本能寺の変後、信雄に仕え尾張国高針に六百貫文の知行を受けたとある。
 この相違は調査中。
 
 慶長三年(1598)尾張国田島で死去。
   
 
  補足   
 今川氏豊の娘との間に重富。
 一安と同じく弓をもって信長に仕えるが若くして亡くなったという。
 その妹の婿、松浦勝定が家督を継いだ。
 
 
 <<参考>>
  『信長公記』『織田軍記』『織田信長家臣人名事典』『尾張国誌』『尾張群書系図部集(下)』
  (上記書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。)
 
 



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