おだ のぶなり |
生没年 | 15??〜1574 | 主君・所属 | 織田信長 |
主な活躍の場 | 伊勢長島の戦 |
津田姓も名乗る。市之介。東市佐。 織田孫三郎信光の嫡男。 弟に四郎三郎信昌、仙千代がいる。 織田信光は織田信秀の弟で織田信長の叔父にあたる。 つまり織田信成は織田信長とは従兄弟の関係にあたるわけだ。 織田信光は織田信長の家督継承問題の際に信長を指示していたようであるが、また一方では自らが当主の地位を奪おうと 考えていた節があるとも伝えられているが真偽の程は定かではない。 小幡城主という。 小幡城は織田信光の居城であったという。 織田信長が清洲城を自らの居城とした際に織田信光は那古野城を与えられた。 それまで織田信光は守山城を居城としていたのである。 守山城と小幡城はすぐ隣り合わせの城である。 直線で2kmと離れていない。 このあたりが織田信光領で両城とも支配下に治めていたのであろう。 織田信光が那古野城に移ると守山城は織田信光の弟、織田信次に与えられた。 ならば織田信成が守山城を譲られたのは、その頃であろうか。 織田信光は織田信長の家督継承当時、最大の重臣であり一族の実力者でもあった。 だが同年十一月、突然死去してしまう。 織田信光は織田信長麾下でも特権的な地位を占めていただろうと思われるが、その地位は織田信成には受け継がれず、一譜代武将となったようだ。 もちろん、信長の弟達に次ぐ程の立場にはあったであろう。 妻は信長の妹。(小幡殿と呼ばれる) 当然、まわりの重臣も一目おいていたであろう。 元亀二年の長島攻め、天正元年の槙島攻め、浅井、朝倉攻め等に参戦。 天正二年七月の長島攻めで戦死。 この時、配下の小瀬清長のエピソードが残る。 |
補足 |
<<参考>> 『信長公記』『織田軍記(總見記)』『尾張國誌』『織田信長家臣人名事典』『群書系図部集』『愛知の城』 (書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。) |